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十一

 密が神界にいた間、人の世では三日の時が経過していた。過保護な密の両親には、その母親の双子の姉である渓の母が家で預かり、登校させていると言い繕っていた。

 天之御中主の助力を得て、渓に伴われ現世に帰還した密は、花守らに事の次第を説明して渓に非の無いこと、渓に助けられたことを強調した。密の無事な姿、理の姫として完全に覚醒したことを認めた花守は、今回の一件で渓を弾劾しない方向で意見をまとめた。


 渓が密を連れ帰った当日。

「父さん。お願いがあります」

 どこからともなく鳥の囀りが聴こえる昼下がり、居間に来た息子が端座してそう切り出した時、お茶を飲んでいた流光寺住職・潮温(ちょうおん)は警戒する顔つきになった。

「何だ、渓。不気味だな」

「可愛い息子が可愛くお願いを言おうとしているのだから、照れないで素直に喜んでください」

「可愛くないし照れてないし喜べん」

 ふう、と物憂げに渓が横を向いて溜め息を吐く。

「別に父さんの意見はどうでも良いや」

「――――ほう」

「あ、すいません。つい口が滑って本音が出ました。それでお願いなんですけど」

「お前は良くそれでさらりと言葉を流せると思うな」

「気にしないで」

 潮温のこめかみが引きつった。

 どうして自分の息子はこんなに可愛げ無く育ってしまったんだろう、これなら男勝りな竜妃のほうがまだ可愛らしく思える、やはりみっちゃんと取り替えっ子してもらいたいなどといった、様々な思いが胸を去来した。

「私の堪忍袋の緒が繋がっている内に、さっさと話を進めなさい」

「では――――」



 隠れ処に現れた密は、笑顔で渓に駆け寄った。

 現世に帰った翌日、久しぶりに中学に登校した放課後である。学校では若菜子やエリザベスとお喋りに興じ、そんな密を定行と誠が遠巻きに見守っていた。渓も密の元気そうな様子を喜ばしく思っていた。神界では年を重ねた容貌に変化していた密だが、現世に戻ると、もとの十四歳の顔貌のままだった。

(でもやっぱり綺麗になった)

 渓は密の笑顔を見てそう思った。別に急ぐ必要も無いのに、渓の姿が視界に入った途端、頬を紅潮させて走って来るところが可愛い。白いキャミソールに、ベビー・ピンクのスカートが翻る。渓は水色のシャツに紺のジーンズを穿いていた。

 常緑樹の茂る薄暗がりに風が吹く。風が愛する少女に優しく触れるように、渓は願った。

 この先、彼女の毎日が光に彩られるように。

「渓。お話ってなあに?」

 到着、とばかりに渓の両腕に手を突いた密が、息を弾ませながら尋ねる。季節は初夏に移り変わる中、琥珀の髪が汗ばんだ額に少し張りついている。渓はそれを手で優しく払ってやった。惹かれるように密の頬に寄って来た羽虫を、ふう、と一吹きする。

(ぎゅうぎゅうに抱き潰したいくらいに可愛いな。羽虫でさえそれを解ってるんだから)

 微笑んで口を開く。

「うん。密。僕はしばらく、君とは会えなくなる」

 密の顔が凍りついた。

「ど、どうして?」

「転校するから」

「どうして? 流光寺が、お引越しするの?お、伯父様、転勤?」

 密ならではの発想が少し可笑しかった。

「ううん。僕だけ他所に行って、他の学校に通うんだ――――来年、木苺が実る時期が来るまで」

 密は泣きそうな顔になっていた。

「どうしてそんなことする必要があるの?」

「寺の境内にある離れを貰う為」

 思ってもいなかった言葉に、密が瞬きする。

 きょと、と首を傾げる仕草がひどく愛らしくて、我慢出来ずに渓は密を抱き寄せた。

 この感触とも当分の間お別れかと思うと身を裂かれるように名残惜しい。

「あの離れは色々設備が整っていて、何と言っても畳の間の風情がある――――姫様を迎え入れるのに相応しい」

「渓?」

「父と約束したのです。来年の春が終わるまで姫様と離れて暮らすことが出来れば、離れを譲渡してもらう、と。言うなれば密断ちだね」

 来年の木苺の実る季節、と密は心の中で繰り返す。緑の上にルビーがさんざめく、最も幸福に輝く季節。少年はそれまで自分から距離を置くと言う。

「渓。それって――――」

「密の気持ちの準備が出来れば、……いつでも相応しい場所で君を迎えることが出来るように。その時こそ僕は、一分の隙も無く万全の支度をして、密を待つから」

 密にはその情景がイメージ出来た。

 渓はたおやかにほころぶ花を扱うように、恭しく密の手を取るだろう。

 そして渓の指が密の肌に触れたら。その先には万華鏡のような世界が待っている。

 渓が与えてくれる花園が。

 密の鼓動は速まっていた。コク、と喉を鳴らす。

「そ、それまで離れて暮らさないといけないの?」

「うん。そういう条件だから父さんも頷いた」

 落ち着いた口調で言う渓の身体に、密は強くしがみついた。

「い、いや。やだ。渓と離れたくない! 風情なんか要らない、傍にいてよ」

「密。密――――僕は君を愛してるよ」

 渓は密の頬の涙を吸い、気が昂ぶって濃いピンクに染まっている唇に唇を当てた。おまけとばかりに唇を舐める。密の涙は彼女自身の唇に帰り、舌にしょっぱい味を残した。

「――――ちゃんとした場所で、君が欲しい。今回のことで改めてそう思った」

「あ、あげるもの! 渓と一緒ならどこでも良いもの、私は」

「密」

「今すぐでも良いわ。離れたくない」

「無理だ。密にはまだ。僕を惑わせないで」

 密の両頬を手で挟み、渓が静かに断じた。一歩先を行く大人の目で。密にも解っていた。

 風が強く歌うように吹き、その歌声で下草を揺らす。

 渓は静かな湖面の表情で、少女の顔と揺れる琥珀色を見ていた。

 密が頬にある温もりに自分の手を添える。

 少年の手は、心の成熟度合と比例するように、密の手よりも大きい。追いつけない。

(私は本当に、あなたに行き着けるのかしら)

「――――こんなとこで優等生になるなんて」

「密の為だ。私と、姫様の」

「……渓がいなくなったら、誰が私を守ってくれるの?」

「花守がいる。その為の存在だ」

 潤んだ薄青い瞳が渓の顔を覗き込む。

「私がいなくて、渓は平気なの?」

「……平気じゃないと思う。きっと僕は毎晩、密の夢を見るだろうし、学校でも外でも密の姿を探すだろう。色素の薄い髪の色を見れば君かも知れないと思うだろうし、君が他の男と仲良くなっていたらどうしようとか考えて、莫迦みたいに一人で嫉妬したりするだろう。ちょっと気が狂うかも」

「――――でも行くのね」

「うん。決めたんだ」

 少年は水の流れる響きで答えた。



民宿『神の憩い』で、女神の姉妹は改めて再会を果たした。

「光――――、」

「姉上様……」

 真白は上目遣いに自分を窺う密に歩み寄って、記憶にある時よりあどけなくなっている妹の身体を抱いた。白妙の間に他の人間はいない。男性陣は真白たちに遠慮して、それぞれ部屋から出ている。

「……良かった。良かったわ、元気で」

「姉上様。あの。あの」

 焦げ茶色の髪の女性に、琥珀色の髪の少女がおどおどと声をかける。

 開かれた障子の向こうから差し込む光が真白の背中に当たり、密は影に入っていた。

「私、姉上様に顔向け出来ないことを」

「うん、もう良いの。あなたにまた逢えたから。あなたの助けになれたから。大変な思いをしたわね。もう大丈夫よ」

 密の胸に熱いものが込み上げた。

 決して丈夫ではない身体で、彼女は嘗ても自分を守りたいと言ってくれた。

〝もう大丈夫だよ、光。私もいるから〟

 そう言って魍魎との闘いに身を投じたこの優しい姉を、自分は。

「姉上様を裏切りました――――――――」

 肩を熱い雫が濡らすのを真白は感じた。

「過ぎたことだわ」

「ごめんなさい」

「うん。良いの」

 良いの、と繰り返して真白は密の背中を撫でた。閉じられた真白の目にも涙が滲んでいた。


 剣護は、民宿内の回廊の一角にある喫煙コーナーで一服していた。

 割った竹を組み合わせて作られた長椅子はでこぼことして固く、やや座り辛い。ジーンズに覆われた長い脚を左右に開き、ふうと煙を吐き出す。

 荒太はまだ渋面だったが、真白が理の姫と再会を果たせたことを、剣護は単純に良かったと考えていた。久しぶりに見た理の姫は、臈たけた美女であった前生に比べると幼く愛らしく、保護欲をそそられるような少女だった。

(良かったな、真白)

 真白が幸せであれば、剣護はそれで満足だった。

 煙草を灰皿に押し付けていた時、涼しい清流の音を聴いた気がした。

「ん」

 顔を上げると、そこには透明な印象を見る者に与える少年が立っていた。

「――――よう、水臣。久しぶりだな。理の姫のお供か?」

「……変わらんな。太郎清隆。いや、門倉剣護か」

 渓は気抜けした表情で剣護を見た。

 過去に水臣がした過ちを、まるで覚えていないかのようにあっさりした顔で接する。

(器が大きいと言うか無頓着と言うか)

 空を突き抜けた風格を持つ男だと思う。

(成瀬荒太のような拒否反応のほうが普通だろうに)

 しかしこれは、渓には好都合だった。

「そらお前、こちとらそっちと違ってまた生まれ変わってる訳でもなし。お前のほうこそまるっきり変わってなくね? 理の姫は何か、可愛くなったけど」

 顎を逸らして答える。

「当たり前だ。密は地球上のどんな生物よりも可愛い。あれは天使だ。もうすぐ羽化して女神になる」

 剣護が怪訝そうな顔になる。

「……天使になった時点で羽化してんじゃないか?」

「揚げ足を取るな、みみっちい」

「いや、揚げ足ってお前」

「とにかくだ、門倉剣護」

「ハイ」

 ああ、この傲岸不遜な感じ、懐かしいなあと剣護は思った。類似したタイプの人物を他にも知るせいで、この手の性格に免疫が出来ているのかもしれない。

「私は当分の間、お前の住まいに下宿してやろうと思う」

「………………結構です。しなくて良いです。何でそうなるの?」

 胸を張って宣言した渓に、剣護は断りと疑問を述べた。

「大丈夫だ、私は我慢する。姫様のかぐわしい香りの欠片も感じられない、お前と次郎清晴……、江藤怜のむさくるしい男所帯にも耐えてみせる」

「…………耐えなくて良いです。我慢は身体に良くないよ、水臣クン」

「密と心置きなく愛し合う為だ」

(駄目だ、日本語も空気も通じねえ)

 それ以前に会話が成立していない気もする。

 癖のある焦げ茶の髪をがりがりと掻く。

「あのさあ。親御さんにはどんな風に話してんの?」

「親切な知り合いが下宿させてくれるから安心するようにと言い含めた。いずれ菓子折りを持って挨拶に伺うかと両親は話していた」

「勝手に言い含めるなよ」

「私は姫様以外の人間の言うことはミジン、」

「ミジン?」

「……微塵も気にしない。大らかだから」

 剣護の知る限り、渓くらい大らかさから隔たった気性もいない。

 そして清水の気配を纏う少年の目は据わっている。

(断っても押しかけてくるだろ、これは)

「どうせ預かるんなら光のお嬢ちゃんのが良いなあ。真白も喜ぶだろうし」

「ふざけるな。図々しいにも程がある」

「お前に言われたかないよ」

 面倒臭い事態になってしまった。

「……居候する期間はいつまでだ」

「来年の春の終り」

 剣護が渋りながらも容認する物言いになったので、渓も素早く答えた。

 はあ、と剣護は諦観の表情を浮かべる。どうしてこうなるかなと思いながら。

「――――次郎にも許可を取れ。あいつが良いって言わない内は無理だ。あと一応、真白にもな。上の階に住んでるから。荒太は……、まあ良いや。どうせ反対するだろし」

 渓は真顔ですぐに頷いた。

「解った。それから、私の滞在中は煙草を吸うな。私はやに臭いのは嫌いだ」

「ねえお前、本当に居候する気あるの!?」


 その晩、真白は空也家に泊まり、密と同じベッドで寝た。

 久しぶりの再会に興奮する姉妹は、寝入るまでの長い時間、お菓子を食べたりお喋りしたり、互いの髪の毛をブラシで梳き合ったりした。密は真白に甘えるように身を寄せて眠りに落ちた。


 そして日常生活に戻った門倉剣護、江藤怜らには二つの変化があった。

 一つは水臣こと長谷川渓の押しかけ同居。

 もう一つは。


 チャイムの音に、剣護は玄関までスリッパを鳴らした。

 先程まで彼は、怜と一緒になって送られて来た渓の身の回り一式が入った段ボールの荷解きを手伝ってやっていた。段ボール箱上部には大きく引き伸ばされた密の写真が納められた額や、通常サイズの密の写真が入った写真立てがギッシリ詰まっていて、剣護と怜の双方を絶句させた。それらが無ければ確実にもう一回り小さな箱で事足りただろうに、と二人共、口には出さずに思いながら写真立てを取り出そうとして、渓に触るなと手を叩かれた。剣護も怜も、作業を投げ出してやろうかと本気で思った瞬間だった。

「はいはーい。どちらさ、」

 そこにはふくれっ面をした、白銀色の髪の少年がいた。黒いベストにズボン、靴、白いシャツには濃い紫のネクタイが締められて、場違いに見なりが良い。

「ま?」

「あんたが門倉剣護?」

 目の色まで白銀色の少年は、剣護をじろじろと無遠慮に眺めた。

「はあ」

「で、同居人が江藤怜。だな?」

「はあ」

 何、この子? と剣護は当惑していた。

 意味不明に偉そうな物言いは渓にも通じるものがある。

(あいつの兄弟とかじゃないよな)

「僕に名乗られることを光栄に思え。僕は高御産巣日神。兄である天之御中主神の命により、しばらくの間、人の世を学習することになった。ついてはその間、あんたらの家に仮住まいしてやる。これは子々孫々までの名誉になるぞ、泣いて喜んでも良い」

「あ、宗教の勧誘でしたら間に合ってます」

 剣護は急いでドアを閉め、ついでにチェーンもかけた。

 最近の宗教はあんな子供まで使うのか、怖い世の中になったな、と思う。髪の毛や目の色まで演出して芸が細かい。

 ああ怖かったと胸を撫で下ろしリビングを振り返ると、そこには白銀色の髪の少年が怒気も露わに立っていた。

「うっおおおおお、ホラー!!」

 思わず叫んでしまう。両腕には鳥肌が立っていた。

 宗教かと思いきや、幽霊かと身構える。

「何が宗教の勧誘だ、失礼な。僕は正真正銘、神だ。神族の中でも、ものすごく偉いんだ、お偉いさんだ……待て。この家、水の気配がする」

 そして頭を巡らせた先には、何事だと部屋から出て来た怜、渓がいた。

 渓が目を険しく光らせる。

「清き水は、刃のごとく――――」

 声に呼応して現れた水の剣に、剣護が目を丸くする。

「おい、何やってんだ、水臣。相手は子供? か、幽霊だぞっ」

「それは子供でも幽霊でもない、破廉恥気違いクソ餓鬼神族だ」

「僕を頭の悪い暴走族みたいに言うな、花守。この家は今日から僕の入居先となる。お前は荷物をまとめて速やかに出て行け」

「出て行くのはお前のほうだ、ここは私の滞在先だ。退かないなら力ずくで追い出すまで」

「へーえ、面白い。やってごらんよ。一度奇襲が成功したくらいで好い気になるなよ、莫迦水」

 剣護は頭が痛くなってきた。

 白銀色の髪の少年が神族と言うのはどうやら本当らしい。

 怜も目を緩やかに瞬きさせている。まだ状況についていけていないのだ。無理もない。

 だがこのままでは、この家が戦場と化してしまう。神つ力同士がぶつかって激しくドンパチやれば、冗談ではなくマンションが吹っ飛ぶことも有り得る。

「待て、お前ら。剣を退け、水臣」

「あんたは引っ込んでなよ」

「口を挟むな門倉剣護」

 けんもほろろだった。

 これが今からこの家で共同生活を営もうと考える者の言う台詞だろうか。

「――――どうしたの、剣護。次郎兄。水臣の荷解きは終わった?」

 玄関の細く開いたドアの向こうから、救いの声が聴こえた。


 真白は兄たちの家の合鍵を持っているが、チェーンをかけてある状態ではドアを開けることが出来ない。剣護はドアに駆け寄りチェーンを外した。

「真白――――っ。兄ちゃんたちを助けてくれ! あの乱暴な若者たちを止めてくれっ!!」

 どさくさに紛れて妹に抱きつく。

 その頭を後ろから拳で殴られた。

「――――初めまして。雪の御方。僕は高御産巣日神。あんたは淡砂と呼んで良い。今日からここに同居することになった。今後、よろしく」

 剣護を殴った高御産巣日はそう言うと、背中から白一色の大きな花束を取り出した。

(どっから出した!)

 剣護は胸中で突っ込んだ。何より白銀色の少年の態度が、自分たちに対するものとはかなり違う。かけ離れている。

「これをやる。真白の名前にちなんで、薔薇から百合まで白で統一してみたっ」

 赤い顔の少年から、芳香立ち上る花束をバサリと腕に渡された真白は、頭を傾けた。

「……どうなってるの、剣護?」

「俺にも解らんがお前、やっぱ白い花が似合うな」


 高御産巣日から貰った花を、真白は自宅から持って来た、イタリア産の白い焼き物の花瓶に入れてテーブル中央に置いた。それを見た高御産巣日は少し不満そうな顔だった。

 真白の介入により水臣も剣を収め、男たちは皆、リビングにめいめい座った。

 二つある黒い革張りのソファはなぜか当然のように少年らに占拠され、剣護と怜は毛足の長いグレーのカーペットの上に座った。これではどちらが家の主だか判らない。

 剣護がリビングのサイドボードの上に真白の写真を飾りたいと言い出した時、怜は反対しなかった。妹の写った写真を並べて、どの写真が良いかと二人して顔を突き合せ比較検討した結果選ばれたのが、今置いてある真白の着物姿の写真だ。そろそろ新しい写真に変えても良いなと剣護は考えている。被写体を変える予定は今後、無い。

 兄たちの住まいに来るたび、自分の写った写真が真鍮の写真立てに入り、主役級のように飾られているのを見て恥ずかしいと苦情を言っていた真白も、今ではすっかり慣れてしまった。

 客人たちのぶんも含め、丁寧に淹れた紅茶をトレイに載せて真白が運んで来る。五人分となるとティーセットも重量がある。

 ここで剣護はまた、高御産巣日にどつかれた。

「おい、どうして雪の御方に運ばせる。細腕が折れるだろ、あんたが運べよ!」

「はあ?」

「剣護に乱暴しないで!」

 真白が上げた声に、白銀色の少年はビクリと肩を竦めた。

 真白は少年を睨んでいる。

「――――ごめんなさい」

 高御産巣日は素直に謝ると、ソファに座り直した。


「美味しい」

 紅茶を一口飲んだ怜が、目元を和ませて言う。

 混乱した状況下、妹が淹れてくれた紅茶は精神安定剤のようだった。

 騒動の元となった少年二人も、大人しくティーカップを口に運んでいる。

 高御産巣日はちらちらと真白の顔色を窺っていた。

「皆の好みが合うかどうか判らなかったから、ダージリンにしたの。無難かと思って」

 真白が微笑む。基本的にスカートを余り穿かない彼女は、今日も淡い黄色のズボンに薄茶色の半袖ブラウスを緩くウェストのリボンで絞るという格好だが、流れる焦げ茶色の髪を耳に軽くかけるだけで室内を華やがせる色香があった。

「それで、どうして水臣だけじゃなくて、高御産巣日までいるの?」

「……淡砂と呼んで欲しい」

 小さな声の嘆願に、真白が難色を示す。

「あなた、光、いえ、密にひどいことしようとしたでしょう」

 白銀色の少年が小さくなる。

「……あれはだって、あの娘がいけないんだ」

「密が? どうして」

「――――あんたはどうしてあいつを気にかけて、優しくしてやるんだ」

 真白の問いに、逆に高御産巣日が問い返した。

「妹だもの」

「好きなの?」

「もちろん」

「こいつも?」

 言って、剣護を指差す。

「うん」

「こいつも」

 怜を指差す。

「ええ」

 渓は当然のように除外された。

「……成瀬荒太も」

 花が開くように真白が笑う。

「大好きよ」

「――――僕は、あんたの好きな奴は、どいつもこいつも皆嫌いだっ」

 そう叫ぶと、高御産巣日は剣護の部屋に駆け込んで、内側から鍵をかけた。


「うるさい餓鬼だ。天之御中主がろくな育て方をしなかったんだろう」

 渓が感想を述べる。彼にはそれ以上、思うところは無いらしい。

 だが、真白の兄二人には察するものがあった。

「しろ。お前は罪な女だな……」

「ええ?」

「真白に非は無いだろう。一方的な片想いだ」

「次郎兄。何の話?」

 事情が呑み込めていない真白は兄たちの顔を行ったり来たりした。

「とりあえず。このまま部屋に立て籠もられたら、俺は今日、どこで眠れば良いんだろう」

「無論、私は私の部屋で寝るが。お前はリビングかキッチンで寝たらどうだ?」

 紅茶の最後の一口を飲んでから他人事のように言った渓を、他の三人が一斉に見つめた。


 

その夕方、密は渡辺家を訪問していた。

チャイムを鳴らしてしばらく、玄関の戸を開けた女性に、上目遣いに尋ねる。

「こんにちは。あのう。渡辺先生、いらっしゃいますか」

「まあ、みっちゃん。いらっしゃい! 上がって、上がって」

 密の顔を見た琴美は、顔をほころばせた。

 狭い村内、密の母・空也和美とも付き合いのある琴美は、その一人娘のことも見知っている。そして、和美さんが自慢するだけあって何て可愛らしい女の子かしら、親指姫みたい、娘を持つのならあんな子が良いわ、と思っていた。

「定行。とっても可愛いお客様よ」

「んー?」

 居間にある木調の丸テーブルに夕刊を広げて読んでいた定行は、眼鏡の向こうに密の姿を認めると目を大きくした。バサバサと新聞を置くと立ち上がる。思わず頭を下げそうになったが、妻の存在を思い出してそれを止めた。

「姫さ……、空也さん。どうかした?」

「あ、あの、渡辺先生に、お手紙の書き方を教えて欲しくて」

「手紙? ――――もしかして長谷川君にかい?」

「そう。あ、愛情が伝わりやすい火傷しそうな熱烈な表現を、教えてください!」

 キッチンでお茶を淹れていた琴美は手元を狂わせて、自分が危うく火傷するところだった。急須からはみ出たお湯が流しに飛び散り湯気が上がる。

 少女の必死の表情を見て、あんな奴にそんな物は勿体無い、とは定行には言えなかった。

「つまりはラブレターの書き方の指導? ……ですか?」

 密は真顔で顎を引いた。

(――――必要ないよなあ。姫様が書いたものなら、あいつはへのへのもへじだって大喜びするだろうに)

 参考になりそうな本や資料を律儀に書斎に探しに行きながら、定行の本音はそうしたものだった。


(渓がいない。この村に、渓がいない。何だか胸が空っぽになったみたいで、すうすうする)

 定行は親身になって色々な助言をくれたが渡辺家からの帰り道、密の足取りは重かった。

 ペンケースや封筒、便箋などが入った水玉模様のバッグを両手に提げてトボトボと歩く。

 通りすがりの老婦人からの挨拶に挨拶を返す。ゴロゴロと老婦人が押す買い物籠からはつぶらな瞳のチワワが顔を出して密を見ている。お散歩の意味があるのかしら、と密は頭の隅で疑問に思う。こんな時、渓であれば老婦人が遠ざかってから毒舌を遺憾無く発揮して、犬と飼い主の両方をこき下ろす。

(渓は的を射た悪口を言うのが上手なのよね。余り良いこととは思えないけど…)

 今から流光寺の裏森に向かっても、流れる水の少年には会えない。いつもいつも、あの隠れ処に行けば渓に会えるのが当たり前だったのに。

(こんな毎日が数か月も続くだなんて。私には耐えられないかも。離れなんて要らないから、早く帰って来てくれたら良いのに)

 流光寺のある裏森が見える。烏の影がちらほらと小さく見え、夕日に照らされた常緑樹の頭が覗いている。

 その光景が、今の密の目にはひどく侘しく映った。

(渓がいたから、隠れ処も輝いてたんだわ。渓がいるだけで、私の世界は光に溢れるの)

「渓ぃ……」

 道を歩きながら密は泣きべそをかいた。


 剣護は、これはボーダーライン内か、はたまたアウトかと思い悩んでいた。

「真白。本当に良いのか?」

「うん。荒太君も今は取材旅行で留守だから、彼のお部屋を使って」

「あいつも忙しい奴だなぁ」

 夫不在の妹の家に踏み込むことに、剣護は躊躇していた。

 剣護は真白を妹以上の存在として見ているからだ。

 真白は頓着しない様子で、茶目っ気のある瞳で言う。

「その代わり、晩ご飯を作ってください」

「そりゃ作るけど。お前、まだ料理出来ないの」

 真白が肩を落として項垂れる。料理研究家の妻でありながら料理が不得意だという事実は、真白の強いコンプレックスだった。

「荒太君も根気強く教えてくれるんだけど……この間もお鍋を一つ、ダメにして……」

「気にすんなよ。苦手が少しぐらいあるほうが、人間、可愛いって。真白はそのままで十分可愛いけどっ」

 慌てて妹の頭をわしゃわしゃと撫でると、キッチンに向かった。


 淡い桜色の毛並の猫が寛ぐ横で洗濯物を畳んでいた真白は、鳴り響いたコール音に腰を上げ、リビングに置かれた固定電話の受話器を取った。剣護はキッチンで炒め物をしていて、香ばしい匂いが漂ってくる。

 表示された番号で荒太の仕事相手の出版社からと判る。

 連絡事項だろうと思い、メモの用意をする。固定電話の横にはメモ帳と、白い砂の入った三分間用のシンプルな砂時計が飾りとして置かれている。固定電話の下に敷かれた寒色系の裂織のランチョンマットは、荒太が真白と一緒に入ったギャラリーで購入した物だ。三割引きになるまで荒太が粘って値切ったのはやり過ぎだったと、真白は今でも思っている。ああいう時に、夫の暴走をちゃんと止められる妻でなくてはならない。

「はい、成瀬です。……はい、はい、夫がいつもお世話になっております。……はい…、」

 剣護の耳には途切れ途切れに真白の受け答えする声が聴こえて来た。

 真白の声の様子がおかしいと思い始めたのは、途中からだった。

 どこか狼狽えたような声は、力無い。

 剣護が振り向いた時、真白は受話器を置いていた。

 コンロの火を消してフライ返しを置く。

「……しろ? どうした」

 真白は、電話が怪物であるかのように後ずさった。足がソファにぶつかる。

 コト、トン、と小さく硬い音が鳴る。

 真白が電話相手からの言伝をメモするべく手に取ったのだろう、ボールペンが床に転がり落ちた音だった。

「おい、真白」

 剣護が肩に手を置くと、真白は跳ねるようにして振り向いた。剣護と同じ色の髪が揺れ動く。見開かれた焦げ茶色の瞳の下、小さな唇が動き、ぽとりと名を落とす。

「…………太郎兄……」

(え――――?)

 真白は顔をみるみる赤面させると、その場から走り去った。玄関のドアが開いて閉まる音が聴こえる。

 残された剣護は、電話の隣に置かれたメモ帳を手に取った。

 そこには真白の乱れた筆跡があった。


〝広島県三次市――――〟


 妹が取り乱した理由を、剣護は知った。



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