十
〝密〟は暗がりにしゃがみこんでいた。もう数日、愛する陽光も月光も拝んでいない。
胃は空なのに何も口にする気にはならない。
胸にはひどい後悔と、苦しみと悲しみがあった。
最愛の人を傷つけて泣かせた。そしてその相手は手の届かないところへ行ってしまった。
あの人がいない世界など〝密〟には意味が無い。
いっそのこと死んでしまいたい、と〝密〟は考えていた。
肩にそっと手が置かれるのを感じて、密は目を開けた。
天之御中主の心配する顔があった。
いつの間にか花園に横たわり、眠っていたようだ。
「銀…………、」
「密。君は夢でも泣くのか。夢の中にまで、君の嘆きはあるのか?」
労わる声で指摘され、頬が濡れていることに気付く。
「いいえ、違う。これは、」
(これは渓の痛み、悲しみだわ――――)
彼は今、暗がりで絶望している。
密を失ったと思って、心は引き千切れんばかりの悲嘆に暮れている。
密は顔を両手で覆って呻いた。
「――――渓――――」
少女の嘆きは天之御中主を狼狽させる。彼は再び密の肩に触れようとして手を伸ばし、引っ込め、また伸ばしては引っ込めた。
無闇やたらと触れてはいけない気がした。何が密の傷口を刺激するか判らない。
気の利いた言葉、というのが上手く思い浮かばないのがもどかしい。探した経験に乏しいせいだ。
「…………おい、始めよ」
「え?」
天之御中主の言葉に顔を上げると、耳に妙なる音色が響いた。
顔を上げると、神界の楽師たちの姿があった。
黒い烏帽子、白い揃いの狩衣の男が四名。
緋色の唐衣を着た女性が一名。
密と天之御中主よりやや距離を置いて、楽器を奏している。
琵琶に筝、笙に篳篥、そして横笛の音が流れる。
まさしく天上の調べであった。
聞き惚れながら密は、これはどういうことだろうと天之御中主の顔を見る。
「……花が好きなら、楽も好むかと。思って。オーケストラとどっちにしようか、迷ったんだが」
銀髪の青年の声はたどたどしく、顔は硬い。
相手の機嫌を取る、または喜ばせる、慰めると言った、これまで縁の無かった高等技術を習得しようと至高神は努力していた。
「…………銀は、リコーダーを知ってる?」
「り?」
「リコーダー」
密が丁寧に発音した言葉に、天之御中主は首を傾ける。
「いや、神界では目にしたことがないな」
「そうなんだ。……縦笛の一種なんだけどね。中学校に入ってから、音楽の時間に習ったの。渓はクラスで一番早く上手に吹けるようになって、授業中、先生にお手本を見せなさいって言われたんだけど」
渓は音楽教師に答えた。
〝僕はまだ上手く吹けません〟
そんな筈はないだろうと何度促されても、頑なに言い張った。
「嘘吐いてるってクラス中の皆が判ったわ。もちろん、先生だってカンカン。すごく御機嫌を損ねて通知表にもこの態度は影響するからな、って目玉を喰らってたわ。…………その日、隠れ処に行くと、渓はリコーダーを持って来ていて。音楽の教科書の、前半部分に載ってる曲をどれでも吹いてあげるよって笑って言うの」
密のリクエストした曲の、どれでも渓は巧みに演奏してみせた。
〝すごいじゃない、渓! どうして授業ではあんな嘘吐いたのよ〟
惜しみない拍手を送り、笑顔で問いかけた密に渓は真顔で答えた。
〝だって、密に一番最初に聴いて欲しかったから〟
「優等生で通ってるのに、平気でそんなことしちゃうの。渓は頭が良いのか悪いのか良く判らないって時々思ったわ。でもすごく嬉しかった。すごく嬉しかった……」
豪華絢爛な花々よりも笹百合の一輪を。
天上の妙なる調べよりもリコーダーの音を。
何より木苺の繁みと泉で培った幸福を。
思い出す密の目からは、温かな涙が流れていた。唇には微笑みがある。
その涙の一滴を掌に受け、天之御中主は目を細めた。何かを測るかのように自分の掌の上の水を見る。
(嘆きゆえではなく。幸いゆえに姫を泣かせもするか。水臣)
自分の手で叶えられないことは無いと思っていた至高神が、己にも不可能があることを初めて知った。
密が目を大きくした。
「銀――――……」
「え?」
「泣いているの?」
「僕が? まさか」
天之御中主が目元を拭う。確かに濡れている。記憶にある限りでは泣いたことなどこれまでなかった。幸いを知らない代わりに不幸も知らずに存在していた。宇宙の壮大な光景を寒々しいと感じたのは、密に出会ってからだった。
密が眉尻を下げて銀髪の青年の頬に手を遣る。
「どうしよう。泣かないで。泣かないで、銀」
密から天之御中主に触れたのはこれが最初だった。
「どうして優しくするんだ?」
「だって、あなたが泣いてるから」
「……じゃあ僕はずっと泣き続ける」
「そ、……そんなこと言わないで」
「泣き続ける」
頑是ない子供のように至高神は繰り返した。有言実行とばかりに、銀色の双眼からは涙が流れ続けた。
(おかしいな。僕は何をやっているんだろう。密を帰してやらなくてはならないのに)
銀髪を戸惑い気味に撫でる手は優しくて。
愛した少女に優しくされる幸福に胸が苦しくなる。
(どうして密は優しくする。これでは帰せなくなる)
帰せなくなる。
こんな切なさは誰も教えてはくれなかった。
こんな幸せは誰も教えてはくれなかった。
神界の楽師はいつの間にか姿を消していた。天上の調べの代わりに、少女の口ずさむ歌声が天之御中主の耳にそっと触れた。
銀色の青年を腕にくるんで、密は子守唄を歌った。あやすように神の衣を揺すりながら、小さく唇を動かす。
母の無い天之御中主にとって子守唄は未知の音楽、未知の安らぎだった。
花園の中で少女に抱かれ、青年はゆっくりと瞼を下ろした。
至高神の安らかな寝顔は、思いの外あどけなかった。
天之御中主が寝入ったのを見届けて、密は安堵した。頬に残る涙の跡を拭いてやる。
そして、はたと重大事に気付いた。
(これじゃ帰れないわ――――)
天之御中主の力が無ければ現世への帰還は叶わない。
(渓が。渓があんな状態なのに。早く暗がりから助けてあげないといけないのに)
その時、ひやりと冷たい視線を感じた。
視線の主は思ったよりも近くから、密を見ていた。
「帰りたい?」
白い長袖シャツはカフスボタンを外し、一巻されて白皙の腕が覗いている。黒いベスト、濃い紫のネクタイ、黒いズボン。目を凝らせばベストとズボンにはストライプが入っていると解る。足には磨き抜かれた黒いウィングチップシューズ。
貴族の令息のような出で立ちの少年はほっそりとして、天之御中主よりは淡い白銀の髪に、同じく白銀の双眸を持っていた。
密よりも年下、十二歳くらいに見える。
「ねえ、帰りたい?」
ズボンのポケットに両手を入れ、可愛らしく小首を傾げて繰り返し尋ねる彼の目を見て、獲物をいたぶる狩人のようだと密は思った。
「ずっと、あなたのことが好きでした!」
白妙の間に、若い女性の声が響いた。
旅先の宿で愛の告白を受けた剣護は、緑の目をぱちくりとさせた。
彼は、冷酒の入っていた瓶と、ガラスの盃を下げに白妙の間を訪れた若い仲居に、深夜に手間をかけさせたことを詫びていたところだった。
二十代と見える仲居は、星のように煌めく瞳で剣護を見つめている。
同じく部屋にいた怜、荒太、真白も剣護を見た。
「――――あの、俺はこの村に来たのは今回が初めてで、君とも初対面だと思うんだけど」
桃色の着物を着た仲居の女性は首を横に振る。
「私、門倉先生のファンなんです!『緑の騎士』シリーズ、全巻持ってます。著者近影のお写真を拝見して、先生はまさに緑の騎士なんだと思いました。どうか私を、門倉先生のジョアンナにしてくださいっ!!」
「あー、と。あー、と。……あー、と。…………あーと」
もちろん彼はアート、芸術と言う単語を喋りたい訳ではない。
言葉を探して、剣護は意味を成さない発声を繰り返した。
背後にいるギャラリーと化した三名の、視線の集中を感じつつ。
「剣護、真剣にお返事しないと」
促すのは、剣護の〝ジョアンナ〟だ。
「じ、次郎……」
弟に助けを求める。しかし怜の目には、口出しせずにこの事態を見守ろうとする色が浮かんでいた。剣護はたまに、弟の持つ良識を恨めしく感じる時がある。
荒太が剣護を助けることは有り得ない。むしろ、とっとと身を固めやがれくらいに思われている。目の錯覚でなければ彼は今、非常ににこやかな笑顔を浮かべている。実に喜ばしい事態だ、と言う心の叫びが伝わって来そうだ。
剣護は悪足掻きして逃げようと、怜の首に腕を回し、仲居の前に生贄よろしく突き出した。兄の乱暴な振る舞いに、弟の端整な顔が歪む。
「あのさ、俺なんかよりこいつのほうが断然お値打ちだよっ。江藤怜、三十四歳、言い寄る女性は数多あれど未だに独身で身辺は綺麗!容姿端麗、頭脳明晰にして肩書は大学準教授。なんちゃって物書きの俺なんかより、安定した収入がある。家事もそつなくこなし性格は几帳面で温厚、冷静で思い遣り深い。お嬢さんのような可愛い人にこそお薦めしたい逸品中の逸品っ! どうだぁっ!!」
剣護の腕で軽く首が締められている怜は、長兄の暴挙に反発した。
「ちょ、太郎兄! 人を深夜のテレビショッピングみたいに……っ」
「いえっ。私、綺麗系より格好良い系の殿方のほうがタイプなんです!」
剣護は顔を引きつらせた。
夜遅くに酒を頼んだり盃に注文をつけたりという、宿にとっては迷惑この上ない筈の客に、この仲居が非常ににこやかに進んで対応してくれていた理由が、今になって判明した。
桃色の着物を着た女性は、長年の想い人への告白の高揚に、頬まで桃色に染まっている。
(どうすんだ、これ)
三十七歳独身・門倉剣護は思ってもいなかったところで苦境に立たされたじろいでいた。
「じゃあ俺らはロビーにでも行こうか。真白さん」
「そうだね。次郎兄も行こう?」
「うん。太郎兄、誠意を忘れずに頑張って」
ここはお二方の邪魔をしない方向で、と言わんばかりにぞろぞろと、白妙の間から真白たちは出て行く。
彼らの背中を、剣護は哀願する眼差しで見ていた。
「待って。待って、皆、俺を置いて行かないで……」
剣護の弱々しい声が、白妙の間に残された。
民宿の敷地内、露天風呂や混浴風呂の近くは、芝草と白砂の空間が入り混じった庭となっている。
真白は白砂の敷かれた上、白御影石で造られた長椅子に腰掛けていた。
彼女の面には名状し難い思いがあった。紺色のズボンの上に置かれた左手の手首には、三十歳の誕生日に荒太から貰った優美な腕時計がある。真白は愛おしむようにそれを撫でた。
ピタ、と頬に温かい容器が押し当てられる。
「次郎兄……」
「ミルクティーで良かった?」
怜が微笑んで訊く。
「うん。ありがとう」
真白は横に座った次兄の横顔を見た。
それから容器の蓋を開け、一口、中身を飲む。優しい甘さに心が和む。
この人には、自分の感情のどのあたりまでを知られているのだろうと思う。
(次郎兄は、何を知っても、何も言わない。ただ私たち兄妹と三郎の幸せを願ってる)
繊細で聡明な兄は、人より多くの物事を察しながら、何も言わずに黙って佇んでいる。
柔らかな風が真白の髪を揺らして吹き過ぎる。
密が水を愛するならば、真白は風を愛している。猛る風を。
そして空には太陽がある。
いつも真白を照らしながら見守っている。
〝太郎兄はお日様で、次郎兄はお月様みたい〟
「次郎兄は結婚しないの?」
清かに下界を照らし出す月のような次兄には、愛する人はいないのだろうか。
怜が微かに笑う。
「出会いが無くてね」
「嘘。すごくモテる癖に。バレンタインに院生や学生から、たくさんチョコを貰ってるじゃない。しかも義理チョコじゃなくて気合いの入った本命ばりのばっかり。家のお隣に住んでる後藤さんのとこの沙知子ちゃんなんか、次郎兄のことを王子様みたいに思ってるわ」
「内実は王子様とは程遠いんだけどね……。お蔭でお返しが大変だ。真白に準備するの手伝ってもらって助かってるよ」
本人がどう言おうと、怜くらい白馬に乗った王子様という言葉が似合う男性を、真白は他に知らない。
「律儀にホワイトデーで返すところが次郎兄よね」
会話を交わしながら二人共、同じ人物のことを考えていた。
そしてそのことを互いに察していた。
緑の目を持つ長兄は、自分たちにとって掛け替えの無い存在だ。今生で彼を失ったと思って過ごした日々は、二人にとって空から太陽が消え失せていた期間でもあった。
「……剣護も、たくさんチョコ貰ってるでしょ」
「うん。真白からのだけさっさと食べて、あとは俺に押し付けるのは勘弁して欲しいんだけど」
「三郎も、今や一人前に貰ってるみたいだし。あの子は可愛かったから、きっと大きくなったら女の子に人気が出るだろうなとは思ってたけど。私の兄様たちと弟は、皆、揃ってモテるんだから」
三郎とは前世において真白の弟だった存在だ。前世では剣護、怜、真白、三郎の四人兄妹だった。
「喜ばしい?」
真白が肩を竦める。
「複雑……」
怜が笑みを深めた。
「次郎兄。私、昔ね?」
「うん」
「結婚しても、名字は変わらないんだろうって思ってた」
怜の穏やかな横顔は変わらない。
「門倉姓のままなんだろうなって」
「うん」
「……気付いてた?」
「さあ。俺には良く解らない」
全てを知りつつ、そう嘯くのは怜の優しさだ。
「――――ありがとう、次郎兄」
「真白。どうしてお礼を言われるのかも、俺には解らないんだよ」
「……ロビーに戻るね。荒太君が待ってるから」
ミルクティーの入った容器を手に、真白が立ち上がる。
怜は妹に軽く手を振った。
真白の姿が屋内に消えてから、自分用に買って来たコーヒーの缶のプルタブに指をかける。コーヒーを何口か飲んでから、そのまま前を向いた姿勢で声を出した。
「真白は行ったよ。緑の目の猫さん」
「みゃーお」
全く可愛くない猫の鳴き真似をしながら、長椅子の斜め後ろに植わる松の陰から剣護がひょっこり出て来た。むすっとした顔で怜の横に座る。
「どこから聴いてた?」
「次郎兄は結婚しないの、からあと全部。――――置いてけぼりやがってこの野郎」
怜が顔を斜めに傾けて剣護を見る。
「仕方ないだろう。俺たちがいたままだと彼女が恥をかく。どうやって逃げて来たの?」
その問いに答える前に、剣護がコーヒーを寄越せとジェスチャーで訴える。
怜の手から奪い取ったコーヒーを飲んで顔を顰める。
「…………苦い」
「そりゃあ、ブラックだもの。大量のミルクと砂糖を入れなきゃ飲めない太郎兄にはハードルが高いよ。で、どうやって脱獄して来たの?」
「単語がワンランク悪質になったな。……俺には既に心に決めたジョアンナがおりますので、っつってお断りした」
「莫迦正直……」
「うるせえ。お前が誠意を忘れんなっつったんだろが」
苦いままの顔で剣護が反論する。
その顔に、好意を寄せてくれた女性に対する心苦しさを読み取って、怜はやれやれと思う。
(不器用だな)
自分たち兄弟は、周囲からは器用そうに見えているようだが、実は不器用だ。もしかしたら末弟の三郎が、一番要領は良いかもしれない。
(成瀬もあれで不器用な面があるし)
それが、自分の妹が好きになった男の共通項だろうかと考える。
「ジョアンナの気持ちは知ってた?」
剣護が真顔になって黙る。少しして、上半身を前傾させた状態で顎をさすりながら口を開いた。
「昔な、そうかもと思ったことが、ちら、ちら、と何回かある。都合の良い解釈をしてるんじゃないかと自分の判断力を疑って、いまいち確信は持てなかったんだが。ジョアンナの気持ちはさておき、俺はとにかくあいつが可愛くて大事で大好きだったからそれで良かったんだ。目の中に入れても痛くなかったし、必要なら心臓だって幾らでもくれてやるくらいの勢いでさ。それは今も変わらねえんだけど」
その言葉が何の誇張でもないことを怜は知っている。
「――――自分の気持ちがあの子にばれてると思う?」
「思う。知ってるよ、真白は」
怜は兄の確信に満ちた即答を、純粋に疑問に感じた。
「どうしてそう思う?」
「あいつが俺には結婚しないのかって一度も訊かないから」
「ああ……」
剣護の知る真白の性格から考えれば、三十路半ばを過ぎても独身の兄を心配して、結婚を勧めるなり、怜に対してするようになぜ結婚しないのか尋ねるなりしそうなものだ。
だが真白がそうした言葉を口にしたことは実際には一度もない。自分が剣護に結婚を勧めれば、剣護が傷つくと考えているからだ。
「真白は気立てが優しい。妹の癖に、俺を傷つけまいと気を遣ってるんだ。俺は、そういうジョアンナの優しさに甘えて、あいつが気付いてることに気付いてない振りをして傍に張りついてる。荒太も察するところは色々あるだろうに、真白の為に俺の存在を許容してる。本当は蹴り出したいくらいなんだろうが、あの独占欲の強い男が耐えてる。……俺たちはもう結構、良い歳なんだが、大人なんだか子供なんだか未だに良く解らん」
剣護らしい率直な物言いだった。
(――――……三角関係か)
しかもその内容は微妙だ。
それぞれがそれぞれを思い遣り、明白な事実から目を背けたり知らない振りをしたりしている。
大人ということだろう、と怜は思う。
しかし彼らの描く三角関係は物悲しくて美しい。大人と言う響きから連想されるどろどろした生臭さから程遠い。そういうものも在るのか、と怜は観察者の目でもって剣護たちをある種の畏敬の念を込めて見ていた。
ただ一つ、怜には見過ごせないことがあった。
「…………胡春に聴いたんだけどね。真白は時々、一人で泣くことがあるそうだ…」
胡春とは真白の愛猫である妖の猫だ。剣護とは折り合いが悪い。
「――――何だと? 何でだ」
「これは俺の推測だけど――――……」
そこで怜は言葉を止めた。
「何だ? 次郎。言えよ」
剣護がもどかしそうな顔で訊いて来る。怜は顔を伏せた。
(莫迦か。俺は)
「いや、何でもない。口が滑った。聴かなかったことにしてくれ」
「出来るか、しろが泣いてるって聴いて。吐けこら!」
失敗したな、と思いながら怜が呑み込もうとした言葉を出す。
「……太郎兄に幸せになって欲しいんだよ、あの子は」
「あ? 俺は幸せだぞ?」
「うん、俺もそうだろうとは思うけど。真白にはそうは思えないのかも知れない。それはそれで理解出来る心情だ。あの子は……、以前は恋愛対象として太郎兄を好いてただろう。太郎兄の気持ちにも気付いてた。だけど今、真白は成瀬の隣にいる。そのことは全く責められることじゃないんだけど、太郎兄に応えられない辛さがあるんじゃないかと。後ろめたさと言い換えても良い。真白も太郎兄のことが大好きだから」
やっぱり言うんじゃなかった、と怜は自分の迂闊さを呪っていた。
この推測を剣護に伝えたところで、事態は何も変わらない。
ただ苦しみが一つ増すだけだ。
「…………俺のせいで真白が泣いてんのか」
「そうじゃないんだ。忘れてよ。完全に俺の失言だった」
緑の瞳が苦しげに細められるのを見て、怜はひどく後悔した。
誰にもどうすることも出来ないトライアングルが、ぷかりと宙に浮かんでいる。
白銀色の少年は、少し苛立ったようだった。
「ねえ、僕はあんたに帰りたいかって訊いてんの。お耳、聴こえてる? 飾りなの?」
「答えたくないわ」
密の返事に少年は目を丸くした。
「僕の質問に? こりゃまた、大した不敬だ。何で?」
「……私がどう答えても、あなたは私の望みの逆にしようとすると思うから」
少年は目を見張ったあと、面白がる面持ちになった。
「へーえ。ぽよんとした小娘だと思ってたら、案外莫迦でもないらしい」
密は目の前の少年を警戒し、天之御中主の身体を守るように抱き寄せた。
その動作を見て少年が、忌々しそうな顔になる。
「全く。兄貴の体たらくと来たら。見てらんないね、至高神がこのざまかよ。ねえ、光の娘っこ。どうやって兄貴をたぶらかした?」
「……あなた、銀の弟さん?」
白銀色が口を尖らせる。
「僕の質問に答えず、自分の問いを優先する。不敬その二だな。ま、初見と思って寛大に答えましょ? いかにも僕は天之御中主の弟、高御産巣日神。造化三神の一人でとおっても偉いんだよ、娘っ子。――――兄貴の名前は本人から聞いたのか?」
「ええ。そう呼んでくれって言われて」
ちっと高御産巣日神が舌打ちした。
「純情ぶった見かけに反して、大したタマだ。でさあ、どんな手を使ってたぶらかしたの? 兄貴を」
「……何もしてない」
「嘘を吐くな」
「嘘じゃないもの」
お互いに睨み合った。
高御産巣日が身体を逸らしてそれまでよりも上方に浮き、密を見下ろす。
「僕はね、光の娘。兄貴と違って、相手の神位やら立場やらを尊重したりしないんだ。兄貴は別格だけどね。ねえねえ、つまりは何が言いたいか解る?」
密は毅然と顔を上げて答えた。
「あなたは、銀の立場を損なおうとする事態のきっかけになった私を疎ましく思ってる。そして私の神位も理の姫という呼称も無視して、自分の鬱憤を晴らしたい。出来れば銀の目を盗んでこっそりと。……違う?」
「……違わない。面白くない、くそ面白くない。そのしたり顔。生意気だ」
瞬時に、密の顔のすぐ前に白銀色の少年の顔があった。
冷ややかに微笑んで。
「逃げなよ、光の。でないと僕は、あんたにひどいことをするから。疵物にしてしまえば、兄貴との縁組も解消になるだろ。こけつまろびつ子兎みたいにさ、怯えて逃げ惑いな。そうすりゃ、多少の可愛げもあるというもんだ」
白銀色の目に浮かぶ酷薄さが、彼は本気であると告げていた。
「――――逃げないわ」
高御産巣日がせせら笑う。
「ああ、そうかもねえ? だって兄貴から離れたら庇ってもらえないもんねえ。理の姫も所詮はその程度だ」
密にも、自分がなぜ逃げようとしないのか解らなかった。
高御産巣日は、出逢った当初の天之御中主以上に、相対する者に容赦ない。
とりわけ密を疎ましく、邪魔に思っている彼は、密に対して平気でひどいことをするだろう。だがこの少年の思惑通り、尻尾を巻いて逃げ出す気にはなれなかった。
それは密の、理の姫としての矜持であったのかもしれない。
突然胸を突き飛ばされ、密の身は天之御中主から離れた。
身体を受け止めた花々から、花びらが華麗に舞い散る。
高御産巣日は右手を握ったり開いたりしている。
「ふううん、割と育ってるじゃない。うん、遊び甲斐がある」
嗜虐的な笑みを浮かべた少年の後ろで、声が上がった。
「おやめくださりませ、淡砂様!」
銀灰色の老人が、必死の形相で花園に両手を突いていた。
「爺か。うるさいぞ。お前は黙って兄貴に従ってりゃ良いんだ。つか、お前がついていながら、何でこんな小娘に好きにさせた」
「若が強くお望みになったのですっ。若は光の姫様に惹かれておいででございます。それゆえ、爺は卑怯な手を使い、姫様を留め置いたのでございます」
「つまりはお前も手玉に取られたと言う訳か。情けない。兄貴の臣下ともあろう奴が。下がってろ、興が醒める」
「淡……っ」
高御産巣日がすい、と右手を動かすと、老人の姿は消えた。
「おじいさん!」
「喚くな、頭に響く。ちょっと違う層に飛ばしただけだ。それより自分の身を心配したら?」
グッと胸倉を掴まれ、不躾に顔を覗き込まれる。
「…………確かに悪くはないな。女神の中でも、上玉。兄貴が血迷うだけのことはあるか」
そのまま顔を近付けるとなぶるように密の唇を貪った。見かけはほっそりとした少年に、完璧に力で押さえ込まれ、密は抗うことが出来なかった。
「この、仰々しい服が邪魔だ」
高御産巣日が密の衣に手をかけた。
そこが限界だった。
密の中で、ふつ、と何かが切れた。
次の瞬間、白銀の少年を襲ったのは光の爆発だった。
高御産巣日は密の身体からはるか遠く、吹っ飛ばされた。
陽炎のように光が揺らめき立つ中で、密は錫杖を手に立っていた。
シャラン、と錫杖の輪っかが鳴り合う。密の全身から白や金の光が次々に生まれてはこぼれ落ちる。
琥珀色の髪が光に煽られゆらと舞い上がり、薄青い瞳が緩やかに瞬く。
陽光と月光から生まれた光の姫。
至高神にも劣らぬ神位を有する摂理の壁の尊き守り手。
密は理の姫としての完全なる覚醒を遂げた。
「…………ふざけるなよ、それで僕を負かせるとでも思うのか」
いきり立ち、神つ力を行使しようとした高御産巣日の首筋に、ひたりと剣が当てられた。
透明なる水の剣。
「私の姫様に何をした?」
水の流れる響きの根底にある激怒を感じ、高御産巣日は戦慄した。
密に気を取られる余り、これ程明瞭な清水の気配に彼は今の今まで気付かなかったのだ。
幾ら神位が高くとも、首筋に神剣を当てられれば、最早相手に命を握られたも同じだ。
「――――水臣か」
「答えになっていない。姫様に何をしたかと訊いている」
「渓――――っ!!」
密が錫杖を賑やかに鳴り響かせながら駆けて来て、渓の身体に飛びついた。
「渓、渓、渓、」
「遅くなってごめん、密。こいつに何をされた?」
片手で密を抱き留めながら、水の剣はまだ白銀の少年の首筋から動いていない。
「…………あの、……」
密が自らの唇や胸に触れたことで、渓は察した。
「解った。殺すからちょっと待ってて。血が飛び散るといけないから離れて」
滑らかな水の響きに躊躇いは無かった。
高御産巣日の顔が青ざめて強張る。
「渓、待って、ストップストップ!」
「じゃあ腕か脚の一本くらいで手を打とう。密の温情に感謝しろよ、クソ餓鬼」
渓は淡々と譲歩案と罵声を口にする。
「ダメだってば。この子、一応、銀の弟さんらしいし」
高御産巣日が青ざめた顔を不快そうに歪めた。
「僕は子供じゃない娘っ子。一応と言う言葉も余計だ、尻軽」
「――――やはり殺しましょう」
「渓っ!」
「待て、水臣」
天之御中主が歩み寄り声を上げた。白い衣が翻り、輝く銀髪の下の眉根を寄せている。
「そこの愚弟の不始末は私の責任だ。……淡砂、来い」
白銀色の少年の顔に幼い怯えが浮かんだ。
「兄貴。あの……」
「来いと言った」
至高神は極めて厳しい顔つきをして、有無を言わさない声で命じた。
渓は天之御中主の顔と高御産巣日の顔を交互に見て、密の顔を見ると剣を退いた。
花園の中を、高御産巣日がこれまでとは打って変わって力無い足取りで、兄のもとへ向かう。
天之御中主は近付いた弟に無言で拳を振るった。少年の身体が花園に倒れる。
「……嘆かわしい話だ。恋敵ではなく、弟を殴らねばならんとは。私はこそこそと私の居所に忍び込むような、コソ泥を弟に持った覚えは無いぞ。密。これの処分は君の良いように任せる。どうすれば気が済む?」
「――――……渓が来てくれたから、もう良い。銀、私を現世に返してもらっても良い?」
「解った。君の言う通りにしよう。ありがとう、密」
「偽善振るな、小娘っ! お前なんかに兄貴に何かをねだる資格は無いっ」
再び、銀色の青年は弟を殴った。先程は右に飛んだ身体が、今度は左に飛んだ。
天之御中主は見た目の印象以上に腕力があるようだった。
この至高神は意外に鉄拳制裁派なのだろうかと密は思った。
「……お前の育て方を間違えたな、淡砂。お前は密に恩義を感じこそすれ、そのような口を叩ける立場ではない。密が止めねば水臣は確実にお前を殺めていたぞ」
天之御中主は弟の身体を引き摺り、すうと花園の向こうに姿を消した。
気を利かせてくれたのだと密は悟った。
改めて渓に向き合う。
「渓。どうやってここまで来たの?」
「雪の御方様から雪華をお借りしました」
そう言って、ジーンズの腰に差していた神器の懐剣を取り出して見せる。
「姫様が危機に陥っているが、助けに行く気はあるかと仰せられて」
渓はそこまで話すと顔を伏せた。二、三歩後ろに下がる。
「……どうしたの? 渓」
「私は姫様に触れる資格がありません。触れられる資格も」
「迎えに来てくれたわ。助けてくれたじゃない、騎士みたいに」
渓は密を見た。白い神の衣に淡い金色が揺らめき、琥珀の髪が流れる。
現世にいる時よりも大人びた風貌は、渓の目に女神そのものと映った。
「――――あのね、渓。私、考えてたんだけど。もしかしたら私、あなたに勘違いをさせてしまったんじゃないかしら?」
密は慎重に、渓と交わした言葉やあの晩の状況を思い出してみたのだ。
〝『大般若経』転読の間、私の傍にいてちょうだい〟
私の傍にいてちょうだい
『大般若経』転読は数時間やそこらで終わるものではない。
この台詞を一晩、恋人として一緒に過ごして欲しいと言ったと捉えられたとすると。
〝はい、――――今宵は私の部屋にお出でください〟
私の部屋にお出でください
その意味するところは、密の求めに応じて、一夜を共にするということだったのではないか。天之御中主の脅威に晒される中、渓と燃えゆく心の準備が、密には整ったのだと思われたのではないか。純潔、無垢、清浄、威厳と言う花言葉を持つ百合の花が飾られていたのが、偶然ではなかったとすれば。
〝姫様が来られるのに、あのくらいしか準備出来ませんでした〟
〝もっと色々と、整えたかったのです〟
〝姫様に相応しい物が中々見つからず〟
そこにあったのは敬意だけではなく、恋人への気遣い。
これから初めて一夜を共にする恋人を、特別な待遇をもって出迎えたかったのだという意思表示。
加えて、密はあの晩、水色のワンピースを着ていた。水の色のワンピースを。
それが渓に誤解を与える止めとなったのかもしれない。
それなのに、自ら求めて了承した筈の密が尚も逃げる素振りを見せたので苛立ち、憤った。
渓が誰に対しても何の申し開きもしなかったのは、非はあくまで勘違いした自分にあり、密を泣かせたのは事実だと考えたからだ。
「そうでしょう?」
渓が後ずさったぶん、距離を縮めて尋ねた密に、渓は目を伏せた。
「僕が独り合点して、君を追い詰めたんだ」
「私が紛らわしいことしたのよ」
「……僕は莫迦なんだ、密。君に限って、僕は莫迦になる、大莫迦に」
「渓。女の子にとってそういう言葉は、すごく嬉しいものなのよ」
「……触れても良いですか」
「うん」
密が手を放すと錫杖は消え失せた。主の望みを知って静かに身を引いた。
「……姫様……」
神の衣に触れ、抱き締める。力の限り、渓は少女を抱き締めた。
「――――もう君に会えないかと思った。密。僕は半分、死にかけてたよ」
「渓が死んだら私も死ぬ。それじゃあ前生の繰り返しになるわ」
「姫様。あの、さっきの奴の」
「うん」
「……消毒を、してもよろしいでしょうか」
「――――ええ。そうして」
渓は密の唇の縁をそっと指でなぞり、頬に手を添えた。
花園の中でのくちづけは、長いものになった。