序
寺の境内の奥、裏森の中には、滾滾と湧き出る泉があった。
その泉の底、ちらりちらりと姿を閃かす銀色の小魚の姿が見える程に透明な清水だった。
鬱蒼と茂る木々から洩れ、泉の水面まで到達する光は水の深くまで戯れ入った。
泉の周囲には木苺が茂り、初夏になるとルビーのような果実を一面に実らせた。
薄暗がりに光差すそこは、物心ついたころから密と渓の格好の遊び場で隠れ処だった。
母親同士が双子という、とても近しい従兄妹は他の子供の遊びの輪に加わることもなく、いつも二人だけの世界で、じゃれあうように時を過ごしていた。
父よりも母よりも、互いが目に映る全てだった。
「――――おいでよ、密」
泉の中に身を浸した渓が、水のように澄んだ少年の声で誘う。
血の近さから鑑みれば、顔立ちはそこまで似ていない。良く見れば瞳の色の奥に薄い青を持っていることが、密と渓の相似点だった。
渓の顔は水の流れのようだと、密はいつも思っていた。
密と同じ、今年で八歳になる彼の面立ちはすっきりとして、同年代の子らよりも大人びた光を目に宿している。彼は子供ながらにともすれば冷淡で、密以外の存在に執着しようとしない。
渓のシャツは木苺の実りの上に無造作に放り投げられている。
あとで木苺の色が移っても知らないんだから、と密は思う。同い年の従兄弟は、冷静なようでいて後先を考えないところがある。
ハーフパンツだけを穿いて、上は裸身を晒して尚も密に手を伸べる。
「ほら。怖くないよ」
実際、泉の深さは渓の胸元くらいだ。
密も今まで、何度も入ったことがあるから知っている。
しかし、泉の上にせり出した小岩に腰掛けた密は、素足をブラブラと揺らしながら戸惑う表情を見せる。
ピンク色の唇を少し突き出した彼女に、渓は見入る。
密の髪の毛は生まれつき色素が薄く、金に近いような黄色がかった薄い茶色をしている。橙色のワンピースを着た密の頭上から、まるで彼女の存在を祝福するかのように注がれる陽が、密の輪郭を縁取る。
彼女のそんな姿を見ると渓はどうしても、密を泉の中に誘い入れたくて堪らなくなる。
宙に揺れる、白い小さな足を掴み引っ張ってでも。それが残酷な衝動だという自覚は渓には無い。
小鳥の囀る声が、森のあちこちから聴こえて来る。
焦れる渓の耳を、密の高い声が打つ。
「あ、翡翠っ」
「嘘」
密以外の万事に興味の無い渓も、空を飛ぶ宝石の姿には心が動く。
ほんの僅か、渓の注意が密から逸れた数瞬。
ドボンッ、と激しい水音を鳴らし密が空から降って来た。
渓は危うく密の身体を受け止め損ねそうになり、頭まで水に浸かるとガボリと大きく水を飲んだ。微小な泡が幾つも幾つも渓の周りで生まれ、光っては消えた。
「渓、渓、ごめん、大丈夫!?」
水から顔を出し咳き込む渓に、自分のワンピースがずぶ濡れになったことは一向に気にしていない密が、声をかける。
その身体に抱きつきながら、まだ声を喘がせて渓が言う。
「翡翠はずるいよ、密」
水が光を眩しく反射して影絵のように少年と少女の姿が重なる。
自分の肩に置かれた渓の濡れた頭に、密は悪びれない声で言い聞かせる。
「だって渓は、何だって、大抵の物には関心が無いでしょ?」
「密」
密のワンピースにも自分の肩にも濡れて張り付いた密の、琥珀色の髪の一筋を掬い取って一言、当然のことのように呟く。じっと琥珀色を捉える眼差しは、抱きつかれている密からは見えない。
「……私以外で」
「密」
「……だから、」
朗らかに、渓が笑う。
笑いながら水の中でくるくる回る。水飛沫を、密にもかけながら。
「密以外は要らないよ」
こんな時の渓の笑顔は、どこか怖い顔だと密は心の隅で警戒する。
いつも、いつもそうだ。
泉に誘う渓。
密に手を伸べて、おいでと笑う。
密の他には、決して見せない笑顔で。
怖くないよと言いながら、密の知る、他の何より恐怖を感じる顔で。
透き通ったような、ぞくりとする恐怖。
けれど、怖い筈なのに、密はいつも決まって陥落する。
抗えず彼の手に落ちる。泉の中に。
(どうして?)
考えるのも怖い。
だがその怖さはどこか、甘い。
「あ、痛」
「密?」
「棘が……」
「木苺の? また?」
「うん」
木苺の茎には鋭い棘がある。
泉から上がり、身体から雫を滴らせながら歩いていた密のふくらはぎに赤い傷がついていた。白く柔い少女の肌にも、木苺の棘は容赦ない。
「だから無闇に木苺の繁みを通らないようにと言ってるだろう?」
渓の手に腕を引かれ、繁みを抜ける。それでも密は、赤い宝石の輝きを名残惜しそうに見ている。木苺に向けられる密の、愛おしげに睨むような瞳を渓はちらりと見て、また視線を戻す。前を向いたまま、低く平淡な声で問う。
「あれが、そんなに良い?」
「だってルビーが一杯に散らばってるみたいで、中を突っ切るとワクワクするんだもの。仕方ないじゃない」
「――――自分が傷ついても好きだなんて、正気じゃないよ」
邪気の無い、また、反省の気配も感じられない密の言葉に、渓は溜め息を一つ落とすと、近くの倒木に密を座らせた。苔むした木からは、湿った匂いがする。黒い蟻が、茶色と深緑色の下から数匹這い出て、めいめい好きなほうに頭を振りながらも列を成して歩いているのが見える。
ごく自然に、渓は密のふくらはぎの傷に唇をつけた。
密も平然とした顔で動かない。
濃い樹木の香りを乗せた風が吹く。
ぷっ、と渓が密の傷口から吸い取った血を草叢に吐き出した。
こうしたことは、これまでに数え切れない程あった。
二人共、何もおかしいとは思っていなかった。
ただ、渓が密の傷にくちづけた時、胸に湧くものは何なのだろう、とお互い思っていた。
先にその正体に気付いたのは渓だった。
渓は常に、密との間に生じる感情の正体を、先んじて悟っていた。
そして密を振り返り、待っていた。
渓が密を待つ。物語る目で。請う目で。
その関係は、御伽噺のようにずっと続くものではなかった。
少女が砂糖菓子の味だけを欲していても。
夢見る時の終りを告げる鐘を少年が鳴らし、均衡はいつか崩れる。
密はまだ知らない。
渓に対する思いを恐怖と錯覚する彼女はまだ気付かない。
渓の内にある、そして密自身の内にも宿る、恐怖と似て非なる激しい感情の正体に。
光の姫は、まだ眠る。