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掌編小説

緑が好き

作者: タマネギ

幸恵は知り合ってまだ日の浅い

和子の車椅子を押して、

新緑の並木道にいた。


前日の雨が嘘のように、瑞々しい光が、

葉のあちこちで跳ね返り、

吹く風に五月の匂いがしている。


「ねえ、和子さん、葉桜が綺麗ね」


「……」


「私は、一年の中で、

この季節が一番好きかな。和子さんは…?」


「……」


「今日は、ご機嫌斜めかな。綺麗よ。

見えるかな?」


「……葉に虫がついとらんかいな」


「えっ?」


「虫が食いにきよるやろし」


「ああ、そうか。でも、大丈夫よ。

この並木は、市が管理してるから。」


「……」


和子は時折、愛想のない話し方になる。

元々の気質なのか、老いて頭が

固くなったからなのかはよくわからない。


部屋にいるときは、

気さくなお婆ちゃんだと思ったのに、

運動がてら並木道に来ると、

何故か取っつきにくくなるのだった。


そんなことなら、

何もわざわざ連れて行かなくても

いいじゃないかと

幸恵は夫に言われたりもするが、

ホームの主治医が、

健康のために緑の中の散歩をすすめるので、

幸恵はその主治医の指示に

従っているのである。


「ねえ…、和子さん、

どうしてこの道が嫌いなの?

ホームにいるときと、

なんとなく様子が違う気がするんだけど。

何か理由があるのかな?」


幸恵は会話が弾まない息苦しさから、

和子に尋ねてみた。


ちょうど、木々の緑が風に揺れ、

和子の膝掛けに、朽ちた枝葉が

落ちてきたところだった。


幸恵はそれをはらおうと、

和子の正面に回り、しゃがんだ。


普段、和子の顔を

下から見上げることはないが、

新緑の葉桜を背景に、和子の顔を

見上げることになり、

幸恵は和子の頭上に、

大きな虹が出ていることに気がついた。


「……」


和子は相変わらず寡黙だった。

それに、しわしわの小さな顔が、<

朽ちた木の様で痛々しい。


もう尋ねないでおこう。

誰でも、話したくないことはあるものだ。

虹のことも伝えてやりたかったが、

和子の体では、横にならなければ、

見ることは無理だろう。


それより、そろそろホームに戻って、

お茶にしてあげよう。

幸恵はそう思いながら、

膝かけにからんだ葉をつまんで

はらおうとした。


「あれ?なんだか変な葉っぱね。

桜の葉っぱじゃないみたい。」


「……」


「でも不思議ね。

どの木から落ちてきたのかしら。

こんなに青々してるのに」


幸恵が一人ごとのように言った。


「それも食われたんじゃろ。

幸恵さんも食われように気をつけんなせよ」


「えっ、和子さん何て?」


幸恵は急に喋り出した和子に聞き返した。


「わしら、わけぇとき聞いたことさ。

生き物は順繰りに食われて、吸われて、

また土に戻っていくんじゃと。

緑が繁りよるんも、順繰りじゃと。

気のええもんから順繰りじゃと」


「気のいい者から順繰り?」


幸恵は首を傾けて和子を見上げた。


和子の頭上にあった虹が揺らいでいる。


いや、虹の前に靄がかかり、

それが揺らいでいた。


靄は黄色みを帯びていて、

それは光の加減からか、

和子の背中から立ち上り、

背景の新緑に

吸い込まれていくように見えた。


「わしら、後ろのほうじゃ。

子供んころ、森ん中でいわれたさ。

生きもんは、みな順繰りに食われるってさ」


和子の声が、次第にか細くなり、

そのまま小さな鼾となった。


「和子さん、しっかりしてよ。

さっ、早くホームに帰ろ」


幸恵は眠ってしまった和子にそう言い、

膝かけから葉を落として立ち上がった。


並木の葉桜がいっそう鮮やかで、

空にはまだうっすらと虹が残っている。



幸恵は車椅子を押しながら、

和子の話を思い返していた。

順繰りって、何だろう。

どういう意味なんだろう。


もう一度聞いてみたい気もするが、

和子はずっと眠ったままで、

薄くなった白髪だけが、

並木の風に揺れていた。



ホームに戻ると、

和子はいつのまにか目を覚ましていた。

幸恵は喉が乾いたと言う和子に、

ぬる目のお茶を飲ませてやり、

布団で横になれるように、

不自由な足腰を支えてやった。


それから、並木道での和子の様子を

一通り報告しておこうと、

主治医の部屋を訪ねた。


主治医は心配顔で話す

幸恵を諭すかのように、

年寄りは昔のことほど

よく覚えているものですからと言い、

同じ話を繰り返すのは、

近頃、私にもありますよと、

冗談まじりに笑っていて、

あまり気にしていない様子であった。


幸恵としては、違った形で、

話が伝わってしまったようで

気にはなったが、

パートで働く自分が

これ以上、和子のことをどうこう言っても

仕方がないのだろうと、

主治医の冗談に相づちをうち、

部屋から出て来た。



一応、和子の様子を見に行くと、

和子は横になったまま、

誰かにテレビをつけてもらい、

お笑い番組を見て笑っている。


幸恵は主治医の言う通り、

心配などしなくてもいいのだと

そう思うことにした。


ちょうど、夕方からのヘルパーが

早めに来てくれていたので、

時間は少し残ってはいたが、

交替してもらい家に帰ることにした。


帰り道、もう一度並木で、

葉桜の緑を見たくなったのだ。


幸恵は、自分はやはり緑の風景や、

空にかかる虹を見て過ごすのが

好きだと思った。



翌朝、夫と子供たちを送り出し、

そろそろホームに出かけようとした時、

電話がなった。


「もしもし、あっ、はい。

今出るところですけど。

えっ、和子さんがですか?

どうして………そうですか……」


幸恵は、急いで家を出た。

不安と困惑が胸を締め付けていく。

昨日一緒にいた和子が、危篤だという。


幸恵は走った。

ホームへ向かってひたすら走った。

和子の最期を看取りたい…。

間に合うだろうか。


道はいつしかホームに繋がる並木道になり、

幸恵はそこから歩き始めた。

息がきれ、足が前に進まない。

昨日見ていた葉桜が風に揺れ、

朝の光を跳ね返している。



「幸恵さ……、幸恵さん………」


突然、幸恵を呼ぶ声がした。


並木のどこからか聞こえてくる。


「誰?」


幸恵は声のする方に目をやるが、

誰も見えてはこない。


立ち止まり、葉の繁る木を見上げでも、

そんなところに人がいるはずもない。


「幸恵さんの後の木です」


「後?」


幸恵が木を見上げたまま振り返ると、

昨日見た黄色い靄が

人の形になって浮かんでいた。


幸恵は、思わず息を呑み

その場に立ち尽くしたが、

並木道を通る人々には、

幸恵が葉桜の木々を

眺めているようにしか見えないのだろう、

誰も気にとめる者はいなかった。


「どうして私の名前が?」


幸恵は、心で尋ねた。


立ち尽くしてはいるものの、

不思議と恐怖感はなく、

むしろ心で話している自分が、

特別な者に思えた。



「いつも私たちを見ていてくれてるから

わかるのよ……」


靄は幸恵に言った。


「和子さんが……おばあちゃんが

危篤なんです。

昨日まで元気にしてたのに……

ねえ、ここで昨日虹を見たとき、

和子さんの背中から、

その……あなたみたいな靄が出ていたけど、

和子さんになにかしたの?」


「べつに何もしないわ。

私たちは、命の精だもの。順番なのよ。

生き物は食べて、食べられて、

吸って、吸われて、魂を洗ったものから

順番にね……」


靄は、少しずつその色を薄め、

葉桜の緑に溶けていこうとしている。


「そんな……そんなことって。

とにかく、急がなきゃ。

和子さんが……おばあちゃんが」


幸恵は並木道をまた走りはじめた。

走る幸恵の心に、

靄の声が入りこんでくる。


「そのおばあちゃんは、

もうすぐ生まれ変わるのよ。

おばあちゃん……そう、和子さんも昔、

森で命の精に出会ったはずよ。

だから、自分の命の意味を

知っていたと思うわ。 


もうすぐ生まれ変わるのよ。

食べられて、吸われて、

そのおばあちゃん……生まれ変わるわ。


幸恵さん……あなただってそうよ。

並木や森や、山や……

緑が好きだという人には、

命の意味を伝えるの。

幸恵さん……

それでも緑を好きでいてくれるかしら」



葉桜の緑が美しい並木道、

その並木のはずれに、ホ-ムの建物が

見えてきた。

和子はもう息をひきとったろうか。

幸恵は、繰り返し心に入り込んでくる

靄の……命の精の声に、

耳をふさぎたくなる自分を感じながらも、

和子の最期に間に合いたい一心で

ただひたすら走っていた。


幸恵さん…あなただってそうよ……

あなただって……あなただって……

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― 新着の感想 ―
[良い点] 一つの完成された小説のようで良かったです。 命というものについて考えさせられますね。
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