咲
いつも言葉を発することなく、表情一つ変えない不思議なクラスメイトの綾野美咲に、天川翔太は毎日声をかけ続けた。一年の時がたち2年生となった綾野美咲に異変が起きる。
綾野さんが笑っている。
いつも無表情だったので驚いたが、それだけでは済まなかった。
「はじめまして翔太くん」
いつも何もしゃべらなかった綾野さんが話しかけてきたことも驚きだったが、彼女の言葉に困惑した。
今はじめましてって・・・
「あ、綾野さん何言ってるの?去年も一緒のクラスだったし、今朝からも隣にいたよ」
僕らはお互い苗字があから始まるので、去年も今年も窓側一番前の席で隣の席だった。
「そうね、もちろんわかってる。それでも私とは初めて会ったのよ」
言っている意味が分からない。
いや、本当は薄々感じていた。
目の前にいる彼女は別人だと思うほど、僕の知っている綾野さんとは違っていた。
「きみは綾野さんじゃないの?」
恐る恐る僕は目の前の彼女に聞いた。
「難しい質問ね。私は綾野美咲であって、綾野美咲でない。私はこの子から生まれた別の人格なの」
そのような気はしていたが、とても信じられない。
「つまり綾野さんは二重人格ということ?」
「解離性同一性障害、つまり多重人格なの。正確に言うとこの子の中には、私を含めて7人の別人格が存在するわ」
7人・・・1人でも信じられないが、間違いなく目の前の彼女は小学生の綾野さんとも、高校で再開した後の綾野さんとも別人だ。
それはずっと見ていたからこそわかることだった。僕は彼女の言葉を信じることにした。
「呼び方を決めておきましょうか」
「呼び方?」
「主人格はそのまま美咲、別人格を咲としましょう。他の人格も自分のことを美咲だと思っているの、咲ならあだ名みたいでかわいいと思わない?」
「それでは咲さん、あなたと他の咲さんはどう分けたら」
あだ名がかわいいとかより、7人も咲さんがいてはややこしい。
そうね、と咲さんは少し考える素振りをして・・・
「七つの大罪は知っているかしら?」
「確か人が罪を犯す要因となる感情のことだったような・・・」
「そう、それは人間のもつ欲望のこと。あまり詳しくは言いたくないのだけど、この子は昔つらい経験をして心を壊した。その際、こうしたかったという欲望の感情が7つ生まれたの。例えば翔太くんが高校に入ってからずっと話しかけていたのは怠惰の咲よ。」
怠惰・・・つまり俺と話しをしてくれないのは、面倒だと思われていたのだろうか。
そうだとしたら綾野さんと別の人格だとしても悲しいな。
明らかに落ち込む僕を見て咲さんは訂正してきた。
「七つの大罪を例えに上げたのは、単に7つの感情を区別するためで、怠惰をそのまま捉えないでほしいの」
「どういうこと?」
「つまり怠惰と言ったけど別に怠け者じゃないってこと。怠惰の咲は確かに人と話したくない、かかわりたくないと思っていたけどそれは、傷ついた心を守るためなの」
「でもやはり聞いていると、怠惰の咲さんにとって僕のしてきたことは迷惑だったんじゃ・・・」
咲さんは首を横に振った。
「怠惰の咲はある時周りとの繋がりを断とうとした。私たちが入れ替わるのは心に強い衝撃を受けた時、怠惰の咲の考え方は図らずも入れ替わりを封じてしまったの。翔太くんのことを迷惑と思っていたのなら、私は出てこれなかったわ」
咲さんは続けた。
「周囲との繋がりを断とうと思っていたのに翔太くんに話しかけようとしたのよ。怠惰の咲を変えたのは翔太くんだよ。残念ながらちょっと無理したみたいで話せなかったけどね」
良かった、僕の1年は意味があったんだ。
そこでふと思ったことを聞いてみた。
「じゃあこれからしばらくは今の咲さんが表に出ているの?」
「いいえ、私は美咲とも他の咲とも異なるイレギュラーな存在なの」
イレギュラー・・・その言葉に少し引っかかりながらも僕はそのまま咲さんの話を聞いた。
「私は他の人格全ての行動を知る代わりに、一度睡眠をとると美咲に戻ってしまうわ。これは私が自分を別の人格だと理解しているからかもしれないわね」
「じゃあ他の咲さんは・・・」
「美咲も咲も他の人格を知らない。みんな自分が多重人格なのはわかっているけど、全員自分を美咲だと思っているの」
なかなか複雑な関係なんだなと思っていたら、咲さんは急に真剣な顔つきになった。
「翔太くんに決めてほしいの」
「な、なにを?」
咲さんの真剣な表情にドキッとした。
「今の話を聞いても私たちとかかわろうと思うのか、ということよ」
正直今の状況をすべて受け入れたわけではない。しかし僕にはどうしてもやりたいことがある。
「僕の願いは綾・・・み、美咲さんの笑顔を見ることだから」
まだ名前呼びは恥ずかしいが言った、名前呼びより恥ずかしいことも言った気がする。
僕の言葉に目を丸くしてしまった咲さんの頬は、少し赤くなったように見えたがおそらく気のせいだろう。
すぐにこの教室で会った時のもとの咲さんの表情になり・・・
「なら翔太くんにも責任を取ってもらうからね。怠惰の咲の拘束が解けたことによって、美咲の精神は再び不安定になるから大変よ」
「わかった」
責任を取るって、何だか勘違いしそうな言葉だな。
「じゃあ私の家に来てもらえるかしら」
「・・・えっ?」
勘違いじゃなかったのか?
この急展開に僕の思考は止まってしまった。
多重人格であることを告白した咲に連れられて彼女の家を目指す二人、翔太の覚悟が試される。