プロローグ
「あー、やる気が起きねえ。やっぱここも煙草も吸えないんだなぁ」
とある病院の屋上。中小企業の営業マンである陣内和隆はベンチで項垂れていた。
盲腸で入院していた和隆はその手術に成功し、術後の経過も良好と判断され、自分の足で歩けるようになって明日には退院という所まで回復していた。
だから、という訳では無いが、暇を持て余した和隆は会社の同僚達が見舞いに来ないこと等を理由に若干やさぐれ、気分転換にとこの屋上へ赴いたのである。
「明日から仕事…、か?休めないかな?いや、無理か…」
社内で突然倒れ、三ヶ月も入院していた身としては、碌に仕事の引き継ぎも出来ず、入院中にも電話連絡でなんとかやり取りをする程には忙しいその会社の内情を見るに、自分だけ伸う伸うと自宅療養はできないだろうな、と苦笑し独り言ちる。
「いや、まずは明日には会社に行けることを連絡する、か?…やだなぁ」
そもそも病院の施設内で携帯電話を使っていいんだったっけか?と今更ながら非常識な考えに至るあたり、和隆自身も余裕がなかったなぁ、と反省の色を少し出していた。
と、和隆はふと屋上の外側に目をやる。そこには飛び降り防止用の金網のフェンスが巡らされていた。
「まあ、飛び降り自殺者の多い病院とかやだよなぁ。最近はどこのビルでもこういうフェンス設置は常識らしいし」
そのフェンスを何気なく観察してみる。古い。百均のペンチでもあればこの程度のフェンスくらい誰でも穴を開け突破して屋上の縁に立つくらい余裕だな、と和隆はまたも独り言ちる。
「…ん?」
と、屋上のベンチからは見え辛い位置にフェンスの金網に対して和隆は違和を覚えた。
「破れて、るのか?」
和隆はベンチから立ち上がり、その金網の違和感の方に歩き出す。角度を変えつつ。
その違和の方向に近づくと、案の定フェンスの金網は破れていた。大人が身を屈めばなんとか通れる位の大きさに。近くの地面にはペンチが転がっている。
「フラグかな?」
和隆は周囲を見周す。人の気配は、…あった。
フェンスの外側、開いた金網から静かに顔を覗かせると、屋上の角に佇む人影。
屋上入口のドアや和隆が先程まで座っていたベンチの死角である。そこには一人、少女が立っていた。
病院の入院着に身を包み、痩せこけた頬が目立つ。濃い亜麻色の髪は肩まで伸びて波打っている。その横顔には生気が感じ取れない。目も虚ろ、だろうか?
パッと見中学生か、と一瞬冷静に分析した和隆は
(いやいや、違うだろ!)
と改めて驚く。明らかに飛び降りようとしている。ここは十二階建て。30mか40mはあるんじゃないか、と和隆は心の中で呟き、発見してしまったからにはなんとかしないと、と静かに判断する。
(素早く、静かにだよなぁ。いや、声を掛けるか?)
ええい、侭よ。詮無いことを考えつつ、和隆は開いた金網から身を乗り出しフェンスの外側に這い出る。少女は気付かない。
和隆はそのまま少女に向かって歩き出す。少女はまだ気付かない。
和隆自身は別に高所恐怖症ではなかったが、フェンスに縁取られた屋上の縁は狭い。慎重に、と歩を進める。
ここで声を掛けたら不味いよなぁ、と心で呟く和隆。少女はもう目の前だ。少女は気付いていない。
力強く少女に抱き着く。
「えっ?あっ、きゃあ!!!!」
少女が身を捩る。バランスが崩れる。二人ともそのまま屋上の外へ。
ああ、やはり声を掛けるべきだったか、と和隆は思った。
(結果論、だよなぁ)
何故か冷静に考えを含んだ和隆は空中で少女の身体を守るように力強く抱き締める。まあ、少なくともこの娘だけは。
明らかに自身の命の危機である。しかし絶望はない。だが動悸が激しくはなる。
(痛いのはやだなぁ)
思考が加速していく。地面に向かい体が加速していくのもわかる。
(俺は、自分が何の為に生きているのか、とかそれ系の疑問は死ぬ間際まで意識しないぞ、と常日頃考えていたがまさか今がその時、とは)
まだ地面には着かない。和隆は認識している。この一瞬一瞬を。スローモーションではない、と思う。
(仕事は辛い。病気は辛い。自分の人生観が変わるほどの出来事、出会いは、…無かったなぁ)
(ああ、生まれてからこの三十年。それなりに努力して、楽しい事、苦しい事、色々あったが…)
俺が死んでも、誰も困らない。
(誰も泣かない、とまで考えるのは流石にひねくれ過ぎだよなぁ、家族はもういないけど)
(ある意味、この入院中で仕事は引き継げた…か)
これが刹那、というものなのだろう。と和隆は考える事もできた。一瞬で。
「………なんで?」
と、そこで和隆に抱き締められていた少女が震えた声で呟いた。
和隆と少女の目が合う。
(なんで?か。まあ体が勝手にとしか、かなぁ。俺にもようわからん。俺自身も自殺願望があったのか?うーん、無くは無いか?んー)
このままでは思考のループだな、と考えた和隆は、少女から目を離し、
「……知らねえよ」
と呟く。
その瞬間。
和隆は地面にぶつかる衝撃と共に、意識を失くした。
のんびり書きます。