REV.1
悲鳴って、どうやってあげるんだっけ――――?
言葉にならない思いが全身を駆け巡った時、ボクは間抜けにもそんな事を考えていた。
蒼いボブカットが揺れる。 膨大な質量を持つ巨大な鉄の棺を片手で振り下ろし、袈裟に叩き付けた女の子。
轟音と衝撃の中、ぎらぎらと光っているのはきっと彼女の瞳だったのだと思う。 写りこんだ炎がゆらゆら揺れて、真っ青な瞳がきらきら光る。
とても長いスカートの裾がはらはらとはためき、叩き折られたマンイーターの前足がぐるぐるぐるぐる、宙を舞う――。
それはとても幻想的な風景だったと思う。
人を殺すために生み出された殺戮兵器を、平然と片腕で捻じ伏せた少女。
それは爆発で吹き飛ばされてきた棺から飛び出して、ボクを助けてくれた。
わけのわからない状況である事がどうでもよくなってしまうくらい、彼女は美しかった。
まるで、作り物みたいに……。
「下がってください、ウラ。 まだ危険が去ったわけではありません」
「……え? ちょ、うわあっ!?」
彼女は振り返る事もせず、空いている手でボクの胸倉を掴み上げると、片手でひょいと空に向かって放り投げたではないか。
それがまた非現実的すぎて、ボクは目を丸くするしかない。 意識がはっきりとしたのは、残骸の向こう側に投げ飛ばされて転がされた衝撃が全身に走ってからだ。
何で女の子に投げ飛ばされなきゃいけないんだ? いや、投げ飛ばされたというよりは本当に『放られた』というか……っていうかなんだ、これ……。
再び、先ほどのヘリの爆発と同等の衝撃が走った。 それが瓦礫の山の向こう側で起きている事に気づき、ボクはこっそり顔を覗かせ様子を伺う。
マンイーターは全自動の戦闘機械だ。 そして四本足の多脚移動式。 つまり前足が一本折れても、一応行動続行は可能なのである。
ボクが放られた次の瞬間、マンイーターの反撃があったのだろう。 真正面から突撃してきた鉄の塊が衝突する威力は計り知れない。 だというのに、彼女は平然とそこに立っていた。
悲鳴を上げているのは大地の方だった。 彼女の鋼鉄のブーツがめり込んでいるアスファルトは次々と亀裂が走り、受け止めきれない衝撃は広範囲に拡散する。
我目を疑うとか。 目から鱗とか。 そんな言葉がある。
ボクはまさに今それだった。 落とせるもんなら落としてみせよう鱗。 ああ、あんなに華奢な女の子でも――――多脚機動兵器を、片手で受け止められるんだなあ、って。 ただ呆然とその景色を眺めていた。
車だってやすやすと踏み潰せるような質量と出力の足が一本欠けても三つ。 その重量を、ただ彼女は片腕で受け止めている。
何の区もなく易々と。 易々とだ。 何度でも言おう。 易々となのだ。 まるで息が上がる様子もなければ、怪我をする様子もない。
普通なら死んでいる。 ああ、死んでいる。 だからボクは唖然とするしかない。 だってあれはもう、『普通』なんかじゃないのだから。
急激に後退するマンイーター。 足の裏側にはホイールが装着されており、歩く行動をとらなくてもあれは移動出来る。 何はともあれ兵器が少女に対して後退を強いられるという状況がもうどうなっているのか。
脚部のあらゆる場所から機関銃が顔を覗かせた。 ああ、こんにちは。 ボクは顔を引っ込めようか迷った。 あの手の駆逐兵器が装備している武装は、一発でもかすれば五体満足ではいられない火力を持っていて当然だと知っているからだ。
でもボクがそうしなかったのは、きっと彼女はあの程度では死なないのだろうな――と、根拠も無い確信を抱いていたからだろう。
そう、根拠は無い。 それでも確信。 確かに信じるに値する物――。
一斉に火器が火を噴き、鼓膜が破れそうな轟音と共に弾薬が馬鹿みたいにばら撒かれた。 人間なら死んでいる。 でも彼女は違った。
自らが手にしていた棺の蓋を大地に深々と突き刺し、盾にする。 弾丸が直撃するたびに毎秒拉げていく鉄の壁。 しかし、時間稼ぎが目的ではなかった。
直後、少女は跳躍する。 空に向かってジャンプしたのだ。 蓋に向かって発砲していたマンイーターは反応が一瞬遅れる。
重火器を空に向けようとした時には、もう勝負が付いていた。 空から落ちてきた少女はきゅるきゅると回転し、落下と同時にイーターの頭部を蹴り飛ばしたのだ。
人工知能を搭載する頭部は最も頑丈に作られている箇所であるにもかかわらず、少女の細い足が命中した瞬間、まるで隕石でも当たったみたいに拉げ、あられもない姿となって高層ビルの闇の中にすっ飛んで消えた。
「えいっ」
なんてかわいらしい掛け声だろう。
えいっ……。 それが、巨大な殺戮兵器に止めを刺す掛け声として的確なのだろうか……。
問いかける間もなく、彼女は振り上げた拳を真上からイーターに浴びせる。
アスファルトが陥没し、イーターが火を噴く。 動かなくなった鉄の塊の上から跳躍し、彼女が瓦礫の山の上に着地した。
つまりそこは、ボクの目の前。 轟沈するイーターと誘発される爆発の炎に照らされながら、何の表情もなくそれを見下ろしている彼女にきっとボクは見惚れていた。
明らかに非現実的。 ああ、そうさ。 機械に人間が勝てるなんてあっちゃいけないんだ。 なのにこいつは、それをあっさりと……まるで『朝飯前』みたいにやってのけた。
ふつふつと湧き上がってきたのは恐怖の感情だった。 こいつがボクにとって友好的な存在である保証なんて何もない。 ただ、さっきは偶然『守った』ような状況になってしまっただけという事も十分在り得る。
そう考えたら、急に背筋が寒くなった。 今すぐこの場を離れなければとんでもないことになる……。 そんな確信めいた予感があった。
「ウラ?」
こっそりとその場を離れようとするボクのシャツを掴み、彼女は目を丸くする。
「どこに行くのですか? 早く私を人間にしてください」
「…………はあ?」
さっきも同じような事を言っていた。
でも、ボクはこんな危ないやつ知らないし、知っていたとしても係わり合いになりたくない。 何よりこいつ、今なんて言った?
足を止める。 遠くで治安維持局の装甲車が鳴らすサイレンの音が聞こえてきた。
「お前……何なんだ?」
ボクの質問に、彼女は凛とした表情で返答する。
胸に手を当て、少し戸惑いながら。 不安そうに瞳を揺らしながら。 だからボクは、その言葉をきっと一生忘れない。
「私は、『REV』の一つ。 名をと言うのであれば、レヴィ――。 レヴィアンクロウ、それが私の名前です」
――それが、彼女との出会いだった。
REV.1
「ウラ! ただの買い物にどれだけ時間をかけてんだっ!! こっちはそのパーツがないと、手が止まったまんまで…………っ!?」
じいさんのあごがはずれそうになっていた。
「ただいま……」
「ウラ……。 なんだ、その……えれぇきれぇな女は……?」
ため息を漏らすボクの背後、シャツの裾を掴んで放そうとしない女は、無表情のままきょろきょろとものめずらしそうに工房を眺めていた。
結局、部品を買うことは出来なかった。 こんなやつがずっとぴったり背後についていたら、買い物なんてしていられるわけもない。
じいさんが驚くのも無理はない。 その理由は十分にある。
「なあ、いい加減に放してくれよ……。 シャツが伸びちゃうだろ?」
「そうなんですか?」
そうなんですよ。
ようやく開放された裾をチェックしてみると、しっかり伸びていた。 深くため息をついていると、じいさんに首根っこを捕まれ工房の隅に引っ張られる。
「おい、ウラ……。 なんだありゃあ? メイドロボか?」
アンドロイド、という言葉はいつ頃からメジャーな存在になったのだろうか。
女性型のアンドロイド……この場合はガイノイドだが……を仕様した女中型のロボット、所謂メイドロボみたいなものは、現在でも存在する。
FRESやOZが作成した最新型であれば、その外見は限りなく人間に近いといわれている。 しかし動作も人間に似せて作ってはあるものの、それらは所詮ロボット。
人間の動作というのは、実はとんでもなく複雑だ。 それを『なめらか』に行うのはとても難しい。 アンドロイドに出来る事は、本当に簡単な動作、そしてあらかじめプログラミングされている想定事実のみ。
見た目もなんというか、人間のようには見えるが、『機械』である事を彷彿とさせる部分がある。 例えばずっと瞬きしなかったり、表情が全くなかったり。
『夜の相手』をするようなマニア向けの代物であればそういう部分が凝っている事もあるのだろうが、あれほどまでに精巧なものは恐らく存在しない。
埃まみれの今は使われていない作業台。 その上にちょこんと腰掛けては、積もった埃を指先でなぞり、それをじっと眺めている。
何が楽しいのかわからない。 その動作は何よりも人間に似すぎている。 見れば見るほど、人間にしか見えないのだ。
皮肉なのはその美しすぎる外見と、衣服がドレスであるという点が逆に浮きすぎていて違和感を齎している事。 この二つがなかったなら、彼女はどう見ても生きている人間だろう。
しかしボクは目撃している。 彼女が人間離れした力で、マンイーターを轟沈させる瞬間を。
「とりあえずメイドロボじゃないよ。 それに、人間でもない……。 FRESのコンテナから出てきたから、FRESの新型アンドロイドじゃないかな……。 戦闘用の」
「戦闘用ロボットなら、あんな容にする必要はねぇだろう。 ワシに言わせりゃ、人の形なんぞは戦闘には向いておらんのだからなあ」
「用途にもよるんじゃない? 人間に酷似させた、暗殺用ロボット、とかさ……」
というか、そうじゃなかったらあの戦闘能力の説明がつかない。
「ふうむ……。 お嬢ちゃん! 名前、なんつーんだ!」
「レヴィアンクロウ。 レヴィと呼んでください」
「レヴィかい。 嬢ちゃん、なんでまたウラについてきたんだ?」
「ウラは私のマスターで、ウラは私を人間にしてくれるからです」
会話のキャッチボールは張本人を置いてけぼりに繰り返された。
女は当たり前のようにそんな事を口にする。 そう、当たり前のように。 ずうっと前から決まっていましたとでも言わんばかりに、じいさんに言い放つ。
「ちょ、ちょっとまって……。 ちょっとまてよ」
二人の間に入り、会話を中断する。 とんとん拍子に会話が進んでいたのを邪魔されたのが不満なのか、二人とも何か言いたそうにボクを見る。
しかし、引き下がるわけにはいかない。 女に向き合い、ボクは深く息を吸い込んだ。
「さっきからお前が言ってる『人間にする』ってどういうことだよ……? なんでボクなんだ? あとマスターって何?」
「マスターは私の所有者と言う意味です。 ウラは、ウラだからです。 人間にするというのは、そのままの意味です」
「だーかーらーっ! なんでボクなんだよ!? ウラはウラって、答えになってないだろ!? なんでボクのこと知ってるんだよ、お前っ!!」
「そんな事を言われても困ります……。 私は、ウラに人間にしてもらうんです。 ウラの事は私の記憶回路に刻まれているんです。 私が目覚めた理由は、全て貴方にあるんです!」
「人間にするってなに!? じゃあお前人間じゃないってことじゃないか!!」
「私はREVの一つです。 それと、『お前』じゃありません。 私の事はレヴィと呼んでくださいと先ほども言いました」
「お前みたいな機械『お前』で十分だよ! 変なところで食い下がるな!」
「私は『お前』ではありませんっ! それに、機械と呼ばれるのも不快ですっ!! 貴方こそ、本当に私のマスターなら、早く私を人間にしてくれたっていいじゃないですかっ!!」
いつの間にか論争はヒートアップしていた。 落ち着き払っていた女もいつの間にか声のボリュームをあげ、ボクの方に歩み寄ってくる。
ボクも負けじと前に進むと、二人は結局にらみ合う形になった。 わけのわからないQ&Aの応酬はなんら状況を打開させようとはせず、それがきっとお互いを苛立たせる。
「まあ落ち着け落ち着け! とにかく一旦止め! ワシの話を聞け!」
間に入ったじいさんがボクらの頭を掴み、左右に引き離す。 女は納得がいかないのか、不満そうに頬を膨らませながらジト目でボクをにらんでいる。
「とにかく、お前さんはウラに頼みがあるんだろう? わざわざこんなめんこい女が尋ねて来てくれたんだ。 ウラも邪険にせんでもいいだろうが」
「じいさんはこいつがどれだけ恐ろしい化け物か知らないからそんなことが言えるんだよ。 そもそも、『ウラ』って本当にボクの事なの? 世界に何人『ウラ』がいるのかわからないけど、これはボクの偽名だし……お前の言うウラがボクである保障なんてないだろ」
「それは……っ。 それは、そうなんですが……。 では、私の探すウラはどこに……?」
途端に悲しそうな表情を浮かべ、途方に暮れるレヴィ。 迷子になった子供のように不安を隠そうともせず、落ち込んだ様子でボクを見る。
そんな顔をされたらまるでボクが悪い事をしているみたいじゃないか。 なんだかこちらとしてもあまりいい気分ではなくなってくる。
苦し紛れにじいさんに目をやると、じいさんはボクを見ていなかった。 俯いて作業台に腰掛けるレヴィを見つめ、なにやらとても真剣な表情を浮かべていた。
「ウラよう。 ワシにはあいつがただのロボットであるようには見えん。 まるで本当に生きているみたいだ。 あんなに生き生きとした動きの出来るロボット、この世に存在しねえだろうよ」
じいさんには珍しく、感心しているようだった。 同じく機械を齧る者として思うこともあるのだろう。 確かにボクにもわかる。 これが人の手で創られたものならば、紛れもなく芸術作品と呼ぶに相応しい存在であるという事が。
自分で考え、判断する。 それくらいはAIなら出来て当たり前だろう。 でも、『迷い』や『不安』といった感情を再現する事は出来ない。
だから見れば見るほど、知れば知るほど、それは不自然な存在だった。
「ふうむ……。 ウラ、レヴィとは本当に初対面なんだな?」
「さっきも言ったでしょ? FRESのコンテナ――そう、なんか棺桶みたいなのから出てきたんだって」
「棺桶!? そりゃ、本当か?」
「えっ? う、うん」
「そうか……。 棺桶か……」
腕を組み、じいさんはなにやらぶつぶつと独り言をつぶやきはじめる。
ボクもレヴィもその間じいさんの事をずっと見つめていた。 じいさんの一人思考が終了したのか、一人で勝手にうんうん頷いて何かに納得してみせると、レヴィの肩をポンと叩く。
「レヴィ。 お前さんがどんな『ウラ』を探していて何をしようとしているのかはわからんが、一先ずはこの『ウラ』でガマンしてやってくれんか?」
「じっ、じいさん!」
「お前は黙ってろいっ!! とにかく、レヴィの事はよく話し合って、よく考えて判断しろ。 いいなっ!? 勝手に追い出したら承知しねえぞっ!!」
気づけばじいさんは完全にレヴィ贔屓になっていた。
こうなると二対一の図面になり、ボクの圧倒的不利は揺るがない。 ため息を漏らし、とりあえずその場は引き下がる事にした。
二階に上がっても、じいさんが下で作業をしている音は些か衰えていなかった。 二階も一階と変わらず散らかりまくっている。 洗濯していない衣類が乱雑に床に散らばり、テーブルの上には空き瓶や空き缶、食べかけのスナック菓子やらが放置されている。
工房の鉄くささは相変わらず付きまとい、工房で火を吹くバーナーの熱気も届かないここは、唯一の利点である暖もない。
そんなぼろっぼろの、女性なんて一度も入れたことのない男やもめもいいところの部屋のベッドの上に彼女はちょこんと腰掛けていた。 ボクは壁によりかかり、何度も目を擦る。
幻ではない。 当然だ。 面倒くさくて片付けずに居た部屋がだんだんと恥ずかしく思えてくる。 彼女はそれくらい、この薄汚い部屋には似合わなかった。
「あの」
「な、なにっ?」
声が裏返りそうになる。 彼女はベッドの上で何故か正座してボクを見ていた。
「貴方の話を聞かせて頂けませんか? 話を聞けば、私が探している『ウラ』が貴方なのかどうか、判るかも知れません」
言われてみればそうだ。 彼女が探す『ウラ』の情報が僅かでもあるのであれば、ボクと照らし合わせる事により何らかの光明が見えてくるかもしれない。 とちらにせよ彼女から情報を引き出さねばならないと思っていたところだ、渡りに船である。 何故って? ああ、女の子から個人情報を引き出すなんて、やったことがないからだ。
こっちが洗いざらい話したら、向こうだって話すだろう。 それは楽観的な考えだろうか? 少なくとも、今のボクには判断出来ない。
「そうだな……。 何から話そうか」
腕を組んで天井を見上げる。 洗いざらい、となると本当に最初の最初から語るべきなのだろうか。
「ボクは、気が付いたらここにいた。 じいさんと暮らしてて、機械いじりを覚えてた。 いつからかトレジャーの仕事が儲かると知ったボクは、そっちのほうを優先するようになった。 今はじいさんの仕事を手伝いながら……まあ、ジャンク屋みたいなことだけど……ここと、仕事場を行き来しながら生活してる」
ちらりとレヴィに視線をやる。 真剣な眼差しが焼ききらんとばかりにボクに向けられている。 まだ足りないのか? 再び思考を過去へ。
「年齢は、じいさんいわく十四……見てのとおり男。 ていうかトレジャーってわかる? あの、結構悪い事なんだけど」
「違法手段による情報売買とその仕入れですね」
「あ、うん。 ボクそっちの世界では結構名前が売れてて……あ、ウラって名前じゃないんだけど。 とにかく、ボクの人生は……こんなものだよ」
特別なことなんて無い。 今のボクを語るなら、本当にトレジャーと機械いじりくらい。
それ以外、何もしてこなかった。 だからそれだけは負けまいと必死にやってきたけれど、振り返ってみれば自分の空虚な過去が漠然と広がっている。
これから先どんな明日へ向かうのか。 夢も目標もなく、けれど生活できない事は無い。 誰とも関わらない、閉鎖的な日々。 匿名の心地良さ。 多分きっと、そんな毎日。
レヴィに聞かせるような事なんてない。 少しだけ、寂しい気持ちが胸の中で揺れていた。 もう一度視線を向けてみると、じっとこちらを見つめ続けていたらしいレヴィと視線がばっちり衝突してしまった。
「一つ答えていただけますか?」
「何?」
「その……ハンドルネームは?」
ハンドルネーム。 ネット上で使う、仮の名前だ。 現実でも仮の名前を使う今の世の中、ハンドルネームなどただの記号ですらない。
それでも、そこには名前があり、意味がある。 ボクという個人が、数知れない同じハンドルネームの中に紛れ込み確かに存在するために必要なもの。
「Ash」
自分で考えた名前ではない。 でも、それは今はボクのものだった。
「Ashっていうんだ。 でも、それがどうしたの?」
「Ash――それが、ウラの本当の姿なのですか」
途端、彼女は立ち上がった。 正座の状態から途端にどうやって立ち上がったのかは謎だ。
とにかく、飛び出すような勢いでボクの前に立つと、両肩を掴んで顔を近づける。 猛然としたその勢いはイーターを倒した時と同じ尋常ではない動きで、ボクは反応さえ出来なかった。
「私には、よくわかりません。 ただ、貴方は恐らく私の探している『ウラ』です」
彼女はとても興奮していた。 つい先ほどまで『人間と同じ程度に力を抑えていた』のに、ボクの話を聞いた途端そのセーブが利かなくなった。
表情が変わらなくてもわかる。 彼女はとても喜んでいた。 とりあえずボクの目の前にすっ飛んできて、ぎりぎりとボクの両肩を締め上げるくらいには。
「ですが――不明な点があります」
途端に両手から力が抜ける。 肩が砕けるかと思い始めていたボクは思わず安堵する。 彼女の表情は、困惑しているように見えた。
「私の中にある『マスター』の記憶は、確かに『ウラ』――――そう、貴方で間違いないのです。 トレジャーで生計を立てている。 ハンドルネームは『Ash』。 それで間違いはない。 けれど、相違があります」
「それは?」
「年齢です」
一歩身を引き、ボクの頭の上に手を載せ、彼女はいたって真面目な表情で語り始めた。
「今のウラは、こんなに小さい」
余計なお世話だ。
確かにボクの背は高くはない。 子供なんだからしょうがないだろ。 レヴィはボクよりも一回り以上大きいのだから、易々と頭に手は届いていた。
その手のひらを、大きく背伸びしながら自分の頭よりも30センチほど高い位置まで伸ばし――背伸びする必要はなかったようだが――ボクを見下ろす。
「私の記憶にあるウラは、これくらいの大きさです。 つまり、子供ではありませんでした」
「大人だったってこと?」
「はい。 ウラはウラで、九割間違いはないのですが――年齢だけが、大きく異なっています」
年齢が違ったら一割の相違なのだろうか。 ボクに言わせれば五割は違うと思う。 いや、もっとか。
それにしても、レヴィより30センチ。 今からどれだけ大きくなればそんな大きさになるのだろう。 180は悠に超えている。 190くらいあるだろうか。 今のボクにはとてつもなく遠い世界だ。
「結論からして……。 一先ず、貴方を私の探すウラと仮定する事にします」
「勝手にするなよ……。 そもそもその、『ウラ』の記録に確信はあるの?」
「あります」
即答で豪語するレヴィは自らに額を人差し指で軽く叩き、顔をボクの目の前に近づける。
「私の記憶回路に確かに刻まれています。 実際に『マスター』から私は命令を受領したのです。 マスター……つまりウラ、貴方から」
「ボクがあ……?」
「貴方は確かに言いました。 『人間になりたければボクを探せ。 本当のボクを見つけた時、お前を人間にしてやる』――と」
「ちょ、ちょっとまってよ!? ボク、そんなの知らないし! レヴィとは初対面だろ!?」
「しかし、この記憶は何者にも改竄出来ない根本的なものです。 ロボットには絶対的に遵守すべき命令がいくつか存在します。 私にとってはそれと同格です」
ロボット三原則、というやつだろうか。
それに匹敵する命令なのだとしたら、確かに容易に改竄は出来ないだろう。 しかし、すごい自信だ。 機械なんてその気になれば人間は簡単に制御できてしまうのに。
「というかやっぱりお前、機械なんじゃん」
「むう! ですから機械ではありません!」
機械って自分で言ってるじゃん!
というか機械だろう。 何がどうなれば機械じゃなくなるのか誰か教えてほしい。 教えられるものなら、ね。
結局会話は平行線。 彼女はボクを『ほぼマスター』と認識するようになり、ボクは相変わらずわけのわからない状況に流されていた。
FRES社に問い合わせるべきだという当たり前の事に気づく頃には、レヴィは部屋の片づけを始めていた。 部屋の隅に壊れかけのパイプ椅子を置いてボクはその様子を眺めている。
当たり前のように仕事を進めるレヴィ曰く、『これくらいは自分の仕事。 居候なのだから当然だ』との事。
居候? ていうかお前ロボットなんだし、居候なんて立場も過ぎるんじゃないか?
そんな事は言えなかった。 何故なのかはわからない。 ただ――少なくとも一生懸命に仕事をするレヴィの姿は、ただのロボットなんかにはどうしても見えなかったから……。
そうしてボクがのんびりしている間に、街では沢山の出来事が起こっていた。
とっくに動き出していた様々な運命が自分に無関係なものではないという事をボクが知るのは、随分と先の話だった。