笑いなさい
私は滅多な事でもない限り、笑うことはない。
世の中の人間は事あるごとに愛想笑いを浮かべ、皆でニコニコ歯を出して笑うことがマナーなのだと思っている。私が一番気に入らないのは、いつも狂ったように笑っている営業の女。名前を笑実という。彼女は、私の同僚だ。
笑実は笑顔を何よりも大切なものと考えているらしく、私にしょっちゅうニコニコ笑顔を強要する。そのせいで、いつの間にか周りの人間も私に対して笑うことを要求するようになっていった。
「三崎さん、もっと良く笑ってみて。絶対に素敵だから!」
「そんな顔ばかりしていると不幸になってしまうよ」
「ねえ、もしかして怒ってる?」
「そんな顔でお客様の前に出ないでね」
なんて余計なお世話なのだろう。何を根拠にそんなことを言う。二つ目に至っては訳がわからない。面白くもないのに笑えるわけがない。お客さんの前では別だが。私がそんな彼らの言葉を無視していると、ほら、やっぱりやって来た。あの女だ。
「三崎さん、あなたが笑顔が苦手だって話は前に聞いたけど、苦手と言う前にちゃんと努力はしたの?皆、あなたがいつも仏頂面だから話し掛けづらいって言ってるの。あなた自分が愛想が悪いって言われてること知らないの?別に無理強いはしないけど、大人の社会で生きていくんだから、愛想笑いくらいマナーとして身に付けるべきじゃない?」
自分がこの世の心理であるかのように彼女は語る。私は言った。
「誰にだって出来ないことはあるもんですよ笑実さん」
彼女は良く笑うので下の名前で呼ばれることも多いのだ。
「出来ないんじゃなくてしないんでしょ。笑えない人間なんて、この世にはいない。これはあなたの将来のために言ってるの。だって皆陰気な人とお仕事してたら、自然と暗くなっちゃうでしょ?」
ーー陰気
私は自分の口の中を噛んだ。鈍い痛みと共にじわじわと口の中に鉄の味が広がった。
笑実は知らないのだ。私が笑わなくなったきっかけが、彼女であることを。
「私は人を見るとき、その人の見た目や雰囲気なんかで判断せずに、人生で判断したいと思ってるの。その人の人生っていうか、生きざまっていうか、偏見を持たずにちゃんとそういうところで判断するようにしてる」
入社してまもない頃、彼女はそんなことを語っていた。いつも華やかな笑顔を浮かべていて、世の中にはこんなに素敵な人がいるのかと感心したのを覚えている。どんなに嫌なことがあっても笑顔を絶やさず、いつでも前向きな発言で周りの空気を和ませていた。
ある日のことだ。私は非常階段の側で笑実ともう一人の同僚が何やら話しているのを聞いた。
「あのハゲ、本当に役に立たないよね。こっちがニコニコしてれば調子に乗ってさ、側に来ないでほしい。まじで鏡見ろよって思うわ」
「ねえ、聞こえるよ」
「大丈夫、誰もいない。あいつ今出てるし」
耳を疑うような内容だった。あの心優しい彼女が、人の容姿を貶していた。
「それから三崎。あいつも無理。あいつ歯並び悪くね?何あの糸切り歯?あ、八重歯?笑うと汚いよね。可哀想」
「ねえ、それは流石に可哀想だから」
もう一人の同僚はへらへら笑っている。私は口の中を噛んで沸き上がる感情を押さえ付けた。
「それにあいつ、日本人じゃないでしょ」
「ああ、何かそんなこと言ってたよね」
「日本人のふりしてるけどバレバレだから。ああいう人種とは関わらない方がいいよ」
今すぐ物陰から飛び出して、彼女を階段から突き落としてやりたくなった。だが体は硬直して動かず、私は最後まで黙って話を聞いていた。
夢を見過ぎていた。前に聞いた素敵な言葉と笑顔は、すべてまがい物だったのだ。
そしてその日から、私は会社で笑うのをやめた。だが彼女は変わらず問いかける。
「三崎さん、どうして笑わないの?」
ちゃんと見ろ。これが私の本心だ。
笑顔なんて、所詮他人を説得するためのツールだ。汚ないものを隠す、ゴミ箱の蓋のようなものだ。
その日から私は、絶対に彼女のようにはならないと心に誓った。