「辞めれば良かったのに」
つい昨日、高校時代の友人が自殺未遂をした。私が病院に駆けつけた時、彼女ははっきりと意識があり、だがぼんやりとした、虚ろな双眸をこちらに向けていた。
私が近づくと、彼女――名前を波瑠というのだが――は小さく手を振った。その手首には包帯が巻かれている。
私は彼女にかける言葉が見つからず、しばらくの間病室に沈黙が流れた。
「……ごめん」
ぽつり、と彼女はどこか遠くを見たまま、小さな声で一言そう言った。そして、はっとしたように私と視線を合わせ、やや早口で喋りだした。
「なんか恥ずかしいね。自分でもなんでこんなことしたんだろうって思うよ。あの時の記憶があんまりないっていうか、夢を見てるみたいだったっていうか、そうだね。どうかしてたんだと思う。今は大丈夫。ちゃんと生きてるし。ちゃんと落ち着いてる。やっぱりあの職場に戻るのは嫌だけど、多分なんとかなると思う。大したことじゃないし、よくある一時の気の迷いっていうか……ね?」
私は黙って聞いていた。
「大変だったね」
そんなことしか言えなかった。
波瑠は短大を卒業してから、とあるテーマパークで働いていた。幼いころからの夢だったそうだ。しかし、そのテーマパークはいわゆるブラック企業であり、大いに彼女を苦しめた。朝から晩まで作り笑顔で働き詰め。猛暑により体調を崩そうが、客からクレームを付けられようが、仕事のし過ぎで彼氏との関係がこじれようが、それらはすべて自己責任。有給なんてもってのほか。名指しでクレームを付けられれば即首が飛ぶ。そんな世界だ。更にそれらに加え、社員同士の間でも陰湿な嫌がらせやいじめが横行していた。自分の立場を守るために、社員同士での潰し合いが行われていたのだ。そして、彼女もついにその犠牲者となった。
以前から、電話で「仕事に行くのが辛い」との相談は受けていた。しかし私の方も決して暇だったわけではなく、大学のレポートと卒業研究のことで頭がいっぱいだった。波瑠の方も、話し方はいたって明るく、そこまで思い詰めているとは思えなかった。私はただ、「そんなに辛いなら早くやめたほうが良い」「ちゃんとした機関に相談するべき」「お母さんとも相談してみれば」などといった決まり文句を繰り返しただけだった。
そんなことを続けるうち、彼女の方からも相談を持ち掛けることはほとんどなくなり、ある時ふと気になって仕事はどうかと尋ねてみると、「大丈夫。ちゃんと生きてるから」と一言言うだけで、すぐに話を逸らされるようになってしまった。その言葉が、「生きてさえいれば働ける」あるいは「生きているなら働かなければいけない」という意味を持っていたことに気付いたのは、彼女が生死の間を彷徨った後になってからだ。
「……ごめん」
彼女はもう一度ぽつりと呟いた。やはり、どこか遠くを見ている。その言葉が私に向けられていないことは明白だった。
私は、波瑠に尋ねた。
「そんなになるまで、どうして辞めなかったの?」
一瞬、彼女の顔が強張った。
「何? やめる?」
殺される寸前の小動物のように、両目が泳ぎ、声が震えだす。この時点で、私は嫌な予感がした。
「そうだよ。命が一番大事なんだから、生きてさえいれば――」
この時、自分が不味いことを言ってしまったとわかった。生きてさえいればなんとかなる? 本当に?
「生きるために、すぐにでも辞めれば良かったの……?」
波瑠の拳にこれでもかというほど力が入る。包帯を巻かれた手首がどうしようもなく痛々しかった。
「他の人も頑張ってる。親にはちゃんと就職すると約束した。いくつも面接を受けた。気が狂うほどね。大学の教授や先輩にも迷惑かけた。辞めたところで、ほかに行く場所もない。稼がないと生きていけない。どこも怪我してないし、病気にもならない。なんでか知らないけど私はずっと元気だし……本当はね、風呂場で手首なんか切らなくてもよかったの。まあ、偶然彼氏が見つけてくれなかったら、どうなってたかはわからないけど。でもね、心の底から死にたかったなら、線路にでも飛び出してたと思う。それとも、職場のロッカールームで首を吊ったほうが良かったかもしれない。あいつらに見せつければよかったのかな。まあどちらにしろ、私には本当に死ぬ覚悟なんてなかったんだよ。でも死にたくないのに死のうとするって何?……辞めれば良かった? そうだね。それが正しい答えだよ。だって、みんな打ち合わせしたみたいに口を揃えてそう言うし。『自業自得』だって。例え親しい人たちを裏切ったり、親に迷惑をかけることになったとしても、夢をあきらめることになったとしても、ニートになって知らない誰かから蔑まれることになったとしても、自分のために逃げなきゃいけなかったんだよね! そうすればこんな風に人生に汚点をつくったり、彼氏との関係も悪化することなんてなかったもんね!」
最後の方はほとんど怒鳴り声だった。波瑠の目は爛々と輝いていた。どういうわけか彼女は、今まで見たなかで一番生き生きして見えた。先ほどの虚ろな目とは違う、生きた「人間」の目をしているのだ。それが、何よりも辛かった。
怒鳴り声を聞きつけたナースが、心配そうに廊下からこちらをうかがっていた。私はナースに向かって軽く頭を下げた。なるべく穏やかな顔をするよう心掛けて。
「ごめんね」
私は波瑠の方に向き直った。今度は私が誤った。彼女は小さく首を振った。
「ううん。私は夢に執着しすぎた。賢くなれなかった。あんたや、他のみんなみたいに。なんで職場のあいつ等が、私にあんな仕打ちをするのかも、どうすればそれを回避できたのかも、考えてみたけどわからなかった。正解がわからなかった。何が本当に正しいのか、全然――」
私は波瑠の包帯の巻かれた方の手を軽く、本当に軽く握った。
「本当に正しい答えなんてものがあったとしたら、どんなに楽だったか。小さいころからずっと目標にしてきたことがあって、ようやくその目標を達成しても、思わぬところに罠があって、赤の他人から居場所を取り上げられることがあるけど、それがどんな気持ちなのか、正直私はまだよくわからない。私は勤めたことがないから。でも、私もそうなるのかもしれない。てっきり、波瑠はプライドみたいなものがあったせいで、辞められないのかと思った。ごめんね、それは私の勝手な勘違いだった」
仲間同士での潰し合い。過酷な労働。プレッシャー。社会人としての責任。ようやく叶えた幼い頃からの夢。それらが人間の精神にどんな影を落とすのか、私はまだ理解していない。それを本当の意味で理解できるのは、波瑠のような人間だけだろう。彼女は何故、死にかけるまで頑張り続けたのか。
私は、切り抜けられるだろうか? 電話で彼女から相談を受けた時、「私だったら即辞めるのに」と何度か思った。しかし、それは彼女に対して、あまりにも無責任な言葉だったのかもしれない。同じような状況に置かれたら、私も潰されるかもしれない。
きっと、ああいった場所には一度足を取られると自力では二度と起き上がれない、恐ろしい「何か」があるのかもしれない。
「痛い?」
私は尋ねた。波瑠は落ち着いていた。自分の思いを吐き出したせいかもしれない。彼女はにっこり笑いながら答えた。
「そうだね。いたいよ」