未練 とトラウマ
突然起床ラッパが鳴り響き、彼は顔を上げた。だが意識は朦朧としており、一向に起きようとする気配がない。
「遅いぞ貴様! 早く起きろ!」
先輩の怒号が部屋の中に響き渡る。彼はすぐに飛び起きて身支度を済ませ、勢いよく部屋を出た。しかし、なにかおかしい。
部屋を出た途端、周りには誰もいなくなっていた。しんと静まり返った校舎。寝室、食堂、武道場、校庭、どこを見に行っても同じだった。生徒の姿も上官の姿も見えない。校舎はもぬけの殻だ。彼は不思議に思ったが、どうすることもできないので、暫くその場に突っ立っていた。そしてなんとなく軍帽を脱いだ時、ある違和感に気が付いた。
――髪の毛。
丸刈りだったはずの頭にはふさふさとした髪が生えそろっている。彼は、はっとして声を上げた。それとほぼ同時に、背後で聞き慣れた声がした。
「何をへばりつく必要がある! お前はもう関係ないんだ!」
10月17日。冷たい小雨の降る午後。銀座の喫茶店。もちろん特殊喫茶ではない。珈琲を頼もうとして、彼はためらった。味自体は好きなのだが、珈琲はどうも腹を壊していけない。珈琲に含まれているカフェインとかいう物質が、自分には合わないのかもしれない。最初はそう思った。しかし、紅茶や緑茶を飲んでも腹痛は起こらない。これは一体どういうことか。
彼は紅茶を頼んだ。彼が座っているソファの隣には麻袋がある。中にはスケッチブックと鉛筆、がちがちに固まった水彩絵の具が入っている。今日は午後から外に出て、街並みをスケッチするつもりでいた。やっといいポイントを見つけたと思った瞬間、冷たい雨が降り出した。ここのところ、こんなことばかりである。こう雨ばかり降っていると、一々余計な事を考える。余計な事ばかり考えていると、いつの間にか眠ってしまう。そうすると、今のような、妙な幻を見ることがあった。
ふと、窓の外に目を向ける。小雨はまだ降り続けている。カーキ色の軍服を着た男がこちらに向かってくるのが見えた。この喫茶店に入って来るんじゃないか思うとぞっとした。彼は冷め切った飲みかけの紅茶を飲み干すと、荷物をまとめ、金を払って店を出た。
1年前、幼年学校を中退した。自分の意志で辞めたのだ。実に腹立たしい場所だった。しかし、あの場所を出てからというもの、彼の人生にはぽっかりと穴が開いていた。閉鎖的。縦社会。捨て駒。言いなり。そんな言葉を頭のなかで呪文のように唱える。
わかってはいる。後悔はない。あの場所にいたおかげで、随分と融通の効かない人間になってしまった。わかってはいるのだが――
彼は雨脚が強まるのを感じると、小走りで自宅へと急いだ。どういう訳か、あの軍人が背後から自分を撃ち殺そうとしているような気がしてならなかった。