夜の訪問者(ホラー)
八月十七日の蒸し暑い夜のことだった。時計の針が午前一時を過ぎた頃、老人は自分の家の扉が叩かれる音を聞いた。山奥にあるこの家は、もう何年も来客など来ていない。ましてやこんな真夜中に来るものなど山奥でなくてもいるはずがなかった。
奇妙に思った老人は静かに玄関の前まで歩いて行った。なるべく足音をたてないように、慎重に。
「すみません。こんばんは」
女の声が聞こえた。若そうな女の声だった。
「誰かいますか?」
老人は恐る恐る戸を開けた。立っていたのは、三十代くらいの茶髪の女だった。
「ご迷惑だということは十分わかっています。ただ、山の中で迷ってしまって、偶然この家を見つけたので......」
女は言った。老人は少し奇妙に思った。
「山で迷った?あんたどこの人だ?なんで山の中になんかいる」
老人は女に尋ねた。女は少しばかりバツの悪そうな顔をしてから、小さな声でこう言った。
「死ぬ場所を、探していました。山の中で。でも死にきれなくて、山を下って偶然ここにたどり着きました」
この辺りの山では、自殺をしようと街の方からやってくる人間も少なくはなかった。現に、見知らぬ人間が杉の木にぶら下がっているのを老人は幾度か目にしたことがあった。
「馬鹿かあんたは。どうやってっこまで来た」
老人は呆れたように言った。女はうつむいたまま答えた。
「向こうの山の下にダムがあるでしょう?そこの橋の近くに車を停めてきました。そこからはずっと歩いてきました」
老人は女の足元に目を向けた。女は靴を履いていなかった。蒼白い足には血がにじんでいた。
「あんたは大馬鹿者だよ」
老人は呟いた。そしてこの女を元きた場所に送り届けるため、家の中に車の鍵を取りに行った。
しかし、老人はその間に考えた。あれは本当に人間なのかどうか。しっかりとした二本の足が有り、その足からは赤い血が出ている。どうも死人のようには見えないが、何かが引っかかる。
老人は女を助手席に乗せ、真っ暗な道を走った。車ならば大した距離ではないはずなのに、ぞっとするほどその時間は長かった。途中、何度も隣の女の存在を確認した。気がついたら消えていた、なんてことのないように。
しばらくすると、ダムの上にかかる橋の上に、一台の赤い軽自動車が見えた。ドアは開け放たれていた。老人は車を停めて女を降ろした。
「ありがとうございます。本当にありがとうございます。おかげで助かりました」
女は老人に向かって何度も頭を下げた。
「もう二度と来るんじゃないぞ」
老人は車から降りずにそう言った。そして、もときた道を引き返していった。後ろの女の姿は一度も見なかった。
家まで戻ってきた老人は、とても眠る気にはなれなかった。気を紛らわすためにテレビをつけ、珈琲を淹れ、色々と考えを巡らせた。
あの女は、本当に裸足で山の斜面を降ってきたのだろうか?
どうして明かりの点いていない家を見つけることができたのだろうか?
靴は一体どこへ置いてきたのだろうか?
あの女はまだ、生きているのか?
やがて夜が明けた。今まで生きてきた中で、一番長い夜だった。気の遠くなるような、長い長い夜だった。
どこかでパトカーのサイレンが鳴っていた。