灯台を目指して
とても不思議な体験をしました。
今から七〇年以上前の話です。あの頃、私はまだ幼い少年でした。あの日はよく晴れていて、季節は確か夏だったはずです。
その日、私は風邪をこじらせて、居間に敷かれた布団の上に横になっていました。頭の中は深い霧でもかかったようにぼんやりとしていて、自分が今起きているのか、それとも眠っているのか、それすらよくわからないような状態でした。すると突然、廊下の方からどたばたと誰かが走ってくる音がしましたのです。私は何事かと思い、伏せていた瞼をぱっと見開きました。
するとそこにはもう、見慣れた自分の家の景色はなく、ただただ真っ青な青空が、ゆらゆらと自分の真上でゆれていました。それは気味の悪いほど真っ青な空でした。
私はてっきり、どこかから爆撃機が飛んできて、家の屋根をすべて吹き飛ばしてしまったのだと思いました。しかしよく見てみると、その青空の中には、普通ではありえないものが飛び交っていたのです。
「何だこれは!」
私は思わず叫びました。空を飛んでいたのは爆撃機などではなく、無数の魚たちでした。
時間が経つにつれ、私の頭はだんだんと冴えてきました。そして、自分が今いる場所は水中であることに気がついたのです。そのことに気がついたとたん、思い出したかのように突然息苦しさがこみ上げてきて、私は夢中で酸素を吸おうともがきました。水面から顔を出して、肺いっぱいに空気を吸い込みました。辺りを見回してみると、私はどうやら海の中にいるようでした。少し遠くに小高い丘があって、その上には白くて細長い灯台がありました。
とにかく、岸に上がらなくてはと思い、その丘を目指してカエルのように泳いでいきました。泳いでいる途中、自分の腹の真下を大きなマンボウが泳いでいるのが見えました。マンボウは私に言いました。
「灯台を目指しなさい」
私は彼に何か言おうか迷いましたが、考えているうちにマンボウはゆらゆらとどこかへ消えてしまいました。
やっとのことで浜辺にたどり着いた私は、マンボウの言った通り、灯台へ向かうことにしました。何故だか、そこへ行けばなんとかなるような気がしたからです。
私が浜辺をとぼとぼ歩いていると、一人の老人に出会いました。老人は、両手に大きなカジメや真っ赤なテングサをぶら下げていました。そして彼は私の姿を見るなり言ったのです。
「小僧、こんなところで何してる。早いとこ帰らんかい」
私は言いました。
「でも、帰り方がわからないんです。ここがどこなのかも」
すると老人はむすっとした顔でこう言いました。
「灯台を目指しなさい」
「だけど――」
「そうしなさい。お前さんは、もうとっくに家にいるんだ。素直に案内に従って、真っ直ぐに扉を目指すといい。そうすりゃ、悪い道にはそれやしない」
「でも――」
「灯台を目指しなさい。お前さんは、もうとっくに家にいるんだ」
私が言葉を挟もうとするたび、老人は同じ台詞を繰り返しました。本当に同じことしか言わないので、私は薄気味悪く思い、足早にその場を離れました。
またしばらく歩いていくと、錆にまみれた小さな看板が立っているのを見つけました。看板には、「とうだいはこっち」という文字と、その方向を示す赤い矢印だけ書かれていました。幼い子供が書いたような拙い文字でした。
矢印の方へ進んでいくと、じきにまた同じような看板が姿を現しました。看板には、「あとすこし」とだけ書かれていました。私は看板の案内に従って歩き続けました。途中、道の脇にある茂みの中から、誰かに見られているような気がして、とても恐ろしかったのを覚えています。時折、私を呼ぶような声も聞こえたような気がしました。
「こっちへおいで」「一緒に行こう」と。
しかしそんな声には耳を貸さず、私は灯台を目指しました。彼らの言葉を聞き入れてしまったら最後、二度と家へは帰れないような気がしてならなかったのです。
やがて、私の目の前に真っ白な灯台が姿を現しました。入口と思われる扉には、何故か「出口」と書かれていました。他に入口があるのかと、周りを見回してみましたが、扉はその「出口」と書かれたものだけでした。
私はその扉に手をかけ、ゆっくりとドアノブを回しました。ここから先の記憶はありません。私があの灯台の中で誰に会い、何を見たのか、どうしても思い出すことができません。
気がつくと私は居間に敷かれた布団の上にいました。左腕にちくっとした感触が走り、目を向けるとそこにはしわくちゃな顔の医者がいました。医者は、私の母と何やら話し込んでから、「熱は大分下がってきましたが、念のためまた来ますよ」と言って出て行きました。
私は何が何だか訳がわかりませんでした。自分が見てきたものはすべて夢だったのか、どうしてあんなわけのわからない夢を見たのか、一体何の意味があったのか、考えても考えてもわかりませんでした。