車輪の下
いつもより暖かかった、二月の朝。私は駅へ急いでいた。
走っている最中、スマホが鳴った。見なくてもわかる。駅で待ち合わせしている美佳からのLINEに違いない。きっと私がいつもの時間に来ないので、心配しているのだ。
私は息を切らして走り続けた。運動不足のせいで両足はうまく動かず、喉の奥からは変な味がする。普段とは異なるねばついた唾液が喉の奥に絡み付いている。とても気持ち悪い。
ようやく駅が見えてきた。と、そこへ私が美佳と乗る予定の電車がやって来た。
「凛ー! はやくー!」
走ってくる私に気がついた美佳が、人目も憚らずホームから叫んでいる。田舎の駅なのですべてが丸見えだ。この電車を逃がせば三〇分は何もない駅に取り残されることになる。
Suicaを乱暴にタッチさせた瞬間、足がもつれ、盛大に転んだ。直後に電車のドアが閉まり、情けなく地面に倒れた私を改札口に残したまま、発車した。
「うわぁ……」
私は何とも言えない声を出し、暫く息を切らして地面に横たわっていた。
スマホが震動し、手に取ってみると美佳から電話が来ていた。呼吸を整え、通話ボタンに触れる。
「もしもしぃ!?」
馬鹿にでかい美佳の声が耳に痛い。電話越しに電車の走るガタンゴトンという音が聞こえてくる。
「うるさいな。ちょっと待って」
スピーカーに切り替え、駅の階段を登る。
「ごめんね、待っててあげられなくて。でも私遅刻常習犯だからさー。凛ははじめてだから許してもらえるって」
凛はそう言うとゲラゲラと笑い出した。
「っていうかさ、転けたよね。さっき!」
「見なかったことにして……」
私がそう返事を返した時、電話の向こうで警笛の音が鳴り響き、ガタン!という大きな音がして、突如会話が途切れた。
幸い通話は切れていないようで、人々のざわめきが微かに聞こえてくる。何かあったのだろうか。
数秒ほどして、美佳の声が戻ってきた。
「もしもし? ちょっと、一端切るね。画面割れちゃった……」
「何かあったの?」
「わからない。急に電車止まった。何か踏んだみたいだけど……ああ、画面がなんかおかしい」
美佳はそう言い残して通話を切った。
なんだかとてつもなく嫌な予感がしていた。自分の腕を見てみると、鳥肌が立っている。おそらく、寒さのせいではないはずだ。
私は階段を降りてホームにあるベンチに腰を下ろした。ホームには私以外の人間はいなかった。
やがてまたスマホが震動し、美佳からLINEが来た。電話でなく、メッセージだった。
『やばい。人轢いた』
『いま真下にいる。』
冷たい汗が滲み出た。全身の毛穴が開き、心臓が圧縮されたように感じた。
『うそ。ほんとに人なの? 前みたいにイノシンじゃなくて?』
私は信じたくなかった。
『人だよ』
『窓から見えたって人が騒いでる』
『気分わるい』
返事はすぐに帰って来た。不快そうに顔を歪める美佳の様子が目に浮かぶ。
それから暫く連絡が途絶えた。だが一五分ほどたった頃、また連絡があった。
『警察とか救急車とかめっちゃきた。ブルーシートかけてる』
『野次馬もきた。なんか写真撮ってるんだけど。趣味悪すぎだわ』
Twitterにでも載せるのだろうなと私はぼんやり思った。
『車輪の下とか言ってる』
『何かが見つからないって』
『何が見つからないの? 怖いんだけど』
『何か言ってよ凛』
私は何と返せば良いかわからなかった。おそらくもう、轢かれた人は死んでしまったのだろう。どうやら身体の一部がどこかへ飛んでいってしまったようだ。
『どのみち遅刻だったね』
私はそう返した。返事はすぐに返ってくる。
『ほんとそれ。ふざけんなって思うわ』
『なんか周りの人もイラついてる』
『しかもここN駅だし、あの病院の患者じゃないの?』
あの病院とは、T病院のことだろう。T病院は数年前にN駅の近くにできた心療内科だ。心療内科なんてこの田舎町には長いこと存在しなかったこともあってか、皆奇妙なものを見るような目で見ている。実は、私には馴染みのある場所だけれど。美佳はそれを知らない。
私は何気なくTwitterでN駅を検索した。
案の定、ブルーシートの掛けられたホームの写真が投稿されている。「なるほどな」と、冷静に思った。今さら疑問なんて湧かなかった。
『早くしてくれないかな』
また美佳からLINEが入る。私はそれを無視して、スマホをポケットに突っ込んだ。