また明日
九月五日、台風が過ぎ去った午後。雨ばかりが降り続いていた薄暗い空は真っ青に透き通り、じめじめした風は爽やかな秋の風へと姿を変え、金色の稲の間を吹き抜けていた。
「あーあ。やっぱり稲、みんな倒れちゃってる」
私は愛犬のマメのリードを引きながら田んぼの畦道を歩いていた。マメは私が小学生のころ、父が保健所から貰ってきた雑種犬だ。
強風のせいで田んぼの稲はほとんどがなぎ倒され、辺り一面に秋の匂いを漂わせていた。蝉たちの声も一月前より大分小さくなり、代わりに草の中でコオロギが鳴いている。
「今日は小学校の方に行ってみようか」
私はマメに話しかける。マメはわかったような顔をして尻尾を振りながらぐいぐい進んでいく。
大学四年の夏休みが終わるまで、あと十日。就職先は未だに決まっていない。私よりよっぽどいい加減な学校生活を送っていた人達から順に、就職先が決まっていく。
彼らより、自分の方が優秀だと思っていた。真面目で、常識的で、勤勉に違いないのだと。でも、それは違ったのだ。
何もかもがどうでも良くなり、淀んだ現実から必死に逃げる日々。過去の自分や思い出に固執し、独りぼっちで何度も何度も記憶の中を行ったり来たりしている。そんな日々は普段の何倍も速い速度で過ぎ去り、まるで夢を見ているかのようだ。
今のこの瞬間も、そんな夢の一部にしかならないのだと思っていた。思いがけない人物と再会するまでは。
丘の上に、かつて私が通っていた小学校がある。眺めのいい場所で、周りには山と田畑しかない。学校の子どもたちは授業中なのか、裏門の前まで近づいても誰の声も聞こえてこない。ただ虫たちの鳴き声と風の音だけが耳に入ってくる。
「けいちゃん?」
突然、明らかに虫でも風でもない声が飛んできた。
「やっぱりけいちゃんでしょ? 久しぶり~」
思いがけない出会いだった。一瞬、時が止まって見えた。そこにあったのは保育園、小学校と同じクラスだった過去の親友姿だった。
「弥生ちゃん……どうして?」
「離婚してね、こっちに戻って来た。暇だから思い出をなぞる旅にでも出ようと思って、来た」
「はぁ?!」
弥生ちゃんはなに食わぬ顔でさらっととんでもない事実を告げた。
彼女は二十歳の時に中学の同級生だった男の子と結婚している。それを機に、過去の些細なケンカが原因でただでさえ切れ掛かっていた私と彼女の縁は完全に切れたのだ。あれからたった二年。まさか離婚することになるとは……
「……子どもは?」
私は恐る恐る尋ねた。
「いないよ。だからこんなところにのこのこやって来られる」
弥生ちゃんはそう言うと、マメの頭をこね回すようにわしわしと撫でた。
「この学校に通ってた時はよちよち歩きしかできない子犬だったのにね。マメももうおじいちゃんかぁ。信じられないなー」
弥生ちゃんがそう言った時、私は彼女の離婚の話について追及するのはやめようと思った。なんとなく、話題を逸らそうとしているような気がした。
「ねえ、ここにいるのもあれだし、中に入ってみない? マメがいるから校舎の中は無理だけど、職員室に行って『ここの卒業生です』って言えば、校庭に入らせてもらえるんじゃないかな。もちろん、生徒が帰った後でだけど」
私がやや早口でそう言うと、弥生ちゃんは一瞬口をぽかんと開けて、それから噴き出すように笑いはじめた。
「なんで笑うの?」
「いや、なんか、めっちゃ、気ぃ使われてるなと思って。うける」
「いや、だってさ……」
「いいよ、気ぃ使わなくて。離婚切り出したの私だし、まだ若いからいくらでもやり直し効くしね。それに暫くの間仕事しないし。私も一足遅れて夏休みを取ることにするよ。いい機会」
――仕事。私が今一番聞きたくない言葉。私が必死に仕事を探す一方で、弥生ちゃんは仕事を手離している。しかも自分の選択を悔いている様子もない。私とは全く逆の立場だ。
「そうだ。仕事で思い出した。けいちゃんもう就職決まった? これから?」
自分の肩がビクッと震えるのがわかった。それとほぼ同時に子どもたちの話し声が校舎の方から聞こえてきた。
「あ、もう学校終わったのかな」
私は誤魔化すようにそう言うと、弥生ちゃんの言葉を無視して裏門から校庭の方へマメを引いて歩いていった。裏門と言っても、入り口を遮る柵などは一切なく、入ろうと思えば誰でも入ることができるのだ。都会の学校ではまずあり得ない。平和な田舎だからこそできることだろう。
ランドセルを背負った子どもたちと次々にすれ違った。何人かは元気に挨拶をし、何人かは不思議そうな顔をして私たちの方を見た。マメは嬉しそうにずっと尻尾を振っていた。
職員室は外から二階へ続く階段があるので、わざわざ校舎の中に入らなくて済んだ。入り口のすぐ近くにいた先生に声をかけると、校長先生を呼んできてくれた。この校長先生は私たちが五年生のころにこの学校にやって来人で、それから十年以上ずっとこの学校の校長を努めている。
校長先生は私たちのことを覚えてくれていたため、私たちは校庭を見て回ることを許された。担任だったわけでもないのに、十年も前の生徒のことをよく覚えていられるものだ。
「木戸さんはねぇ、作文のコンクールで何度も表彰されていたし、藤谷さんは陸上大会で大活躍したから、特に記憶に残っているよ」
校長先生はそう言うと嬉しそうににこにこ笑っていた。私の作文コンクールのことを覚えてくれていたことが異様に嬉しかった。当時は誰も関心を持っていないような気がしたのだ。
それに比べて弥生ちゃんの陸上大会での活躍は、もはや伝説になったと言ってもいいくらいだった。
校長先生と話終わってから、マメを連れて弥生ちゃんと校庭に出た。十年前と比べて、何もかもが一回り小さい気がした。ブランコやぐるぐる回るひし形の遊具にはビニールテープが巻かれ、『使用禁止』と書かれている。
「最近多いよね。こういうの。危ないから撤去しろってクレーム入れてくる親でもいるのかな。昔はそんな事言う人いなかったような気がする」
私は思わずそう言った。
「私ブランコからダイブして捻挫したことあったけど、まあ、危ないものをすべて取り除いても、子どものためにはならないかもね」
弥生ちゃんは頷きながらビニールテープを人差し指でばちばち鳴らした。その時の横顔が、夕日と重なってやけに切なく見えた。
「昔の方が良かったって思うの、歳とった証拠なのかな……」
気づけばそんなことを口走っていた。
「まだ二二歳でしょー?」
「それでも、最近思い出に対する執着が酷いんだよね。楽しかった思い出だけが心の支えで。ぐるっと回ってここに戻ってくるって言うか……この学校の近くにはしょっちゅう一人で来てたし、何か逃げ出したいことがあると、過去の記憶を反芻しないと落ち着いていられない」
「あれか、就活か。さっき話逸らしたの、バレてるからね」
突然言い当てられ、またビクッと肩が震える。
「……私は、何て言うか、真面目な生活を送ってきたが故に自惚れてたみたいで、今は就活が楽な時期だって言われてるのに、もう何十社も落ち続けてる。周りのいい加減な友達はなに食わぬ顔で内定貰ってるのに」
「私はそれなりにいい加減に生きてきたし、今では職と結婚相手を手離して気分爽快なのに、なんか皮肉な話だね」
「結婚か、就職しないとまず叶わないよね。ババアになる前に一度は両方手に入れとかないと。周りから馬鹿にされそう」
「だからまだ二二歳でしょって!」
「いや、でもさ、最近は二十歳過ぎたらもうババアとか言い出す人いるじゃん」
「もしそれが本当なら、私のお母さんやおばあちゃんはもう人間超越して妖怪だから。その話を成立させるためには、全国平均寿命を今の半分くらいにぶった切らないといけないよ」
「すると四五歳くらい? うーん……」
くだらない話をしているうちに、気がつけば辺りは薄暗くなり、私たちは同じ所をぐるぐると歩き回っていた。マメが困惑した顔でこちらを見ている。
「でもまあ、安心しな! ね?」
弥生ちゃんが突然そう言って、私の肩を力強く叩いた。力いっぱい叩いたので、肩がビリビリする。
「今の私は独身のニート。それでも、清々しく生きてる。独身のニートになって田舎に帰ってきたからこそ、けいちゃんと再会できた。けいちゃんも過去に逃げて来たから過去の親友と再会できた。昔ケンカして疎遠になったとは思えないほど仲良く話せたでしょ。私は今日が来るまで、何年ももやもやしてたんだよ。けいちゃんもそうじゃない? だから、時間が動き出すのはこれからだと思うよ」
「……そう。ありがとう。なんか……うん、ありがとう」
私が若干引いているのもお構いなしに彼女は続ける。
「それに、もし仮に就職先決まらなかったら、こっちでなんとか出来ないこともないでしょ? 私調理師免許持ってるし、古民家カフェとかできそう」
「まあ、確かに古民家なら腐るほどあるね。この田舎には……」
私は腹の底から笑いが込み上げてきて、それからずっとニヤニヤしていた。
帰り際、弥生ちゃんが小学生用の鉄棒で逆上がりしようとして盛大に頭を地面にぶつけた時に、ついに私の笑いの堤防は決壊した。
随分と久々に笑った気がした。もしかしたら私はこのまま、無事に現在に引き戻されてゆくのかもしれない。
それから私たちは狂ったように笑いながら、「また明日」と言ってそれぞれの家に帰っていった。




