タカマル。
8月末日、陽は既に傾き今にも沈まんとしているが、暑さが太陽と共に隠れる様子は無い。クーラーでもつけて家に籠もりたくなるような天気だが、今日ばかりは特別だ。それは透に限った話ではない。
耳を澄ませば遠くで太鼓と笛の音が聞こえる。地面に落としていた視線を上げれば決して少なくはない人々が、大名行列のように一様に同じ方向へと向かう姿があった。
夏の風物詩、お祭りである。
こうして透が公園の椅子に腰掛けているのは待ち合わせをしているからだ──約束の時間はとっくに過ぎているのだが。
その時間、なんと一時間である。彼女がルーズである事と、幼馴染である事を差し引いても遅すぎる。流石に痺れを切らして電話を掛けようと透が携帯を取り出した所で、ようやく待ち人は現れた。
「ごめーん、待った?」
「一時間くらいな」
「そこは『ううん、今来たところ』でしょうが!」
「それはお前の方だろうが」
「今来たところ」
「……」
顔を向けると、少し息を弾ませた浴衣姿の香澄の姿があった。いつもはおろしてる髪を一つにまとめており、白い項が露わになっている。そして何より、ほんの少し乱れた胸元と紅潮した頬が透の目を釘付けにした。
「エロいな」
「死ね、変態」
軽い冗談のつもりが物凄い目で睨まれた。怒りたいのはこちらの方だ、と内心ムッとする透であったが先程の言葉は不味かった。どうやら彼女の逆鱗に触れたらしい。何とかしなければ、と透は頭をフル回転させる。こういう時は誉めて誤魔化すのが一番だ。
「まあでも、うん。良いと思うぞ」
「……」
「その浴衣」
「……死ね」
「すまん」
反射的にそう返した透を、香澄はゴミでも見るかのような目でバッサリ切り捨てた。落ち込む透を尚も般若の形相で睨む香澄だったが、その様子から言葉の意図を汲み取ったらしい。あのねえ、と口を開きかけ再度思案するように言葉を切ると、代わりに短く溜め息をついた。
「リンゴ飴で勘弁してあげる」
やれやれ、といったように首を振って告げる彼女の声には先程までの剣幕は無かった。
◇◇◇
そんなこんなで時は過ぎていき、辺りはすっかり暗くなっていた。屋台の前に立つ人々の姿も疎らだ。時間を確認して透は花火の開始が近付いている事を悟った。
「香澄」
名前を呼ばれた香澄は返事の代わりに小さく頷くと、透の手をとって早足に歩き出した。
まだ用件を伝えていないにも関わらず香澄は透に確認する素振りも無い。彼の言わんとする事を理解した上で動いているのだ。
「いつもの所だよね?」
「ああ、よく分かるな」
一足飛びの質問に首肯した透に、当然といった様子で香澄は答えた。
「──幼なじみだからね」
一瞬の間を置いて香澄は笑ってみせた。透には何故かそれが哀しげに映った。
「香澄──」
大きな瞳が透を見つめ返す。何時も自信に満ちた瞳が儚く揺らいでいた。
「──早くしないと花火始まるわよ」
透の視線から逃げるように彼女は駆け出す。
「待てってば!」
透の静止を振り切って香澄は駆けて行く。浴衣を着ているにも関わらず、驚くほどの速さだ。
懸命に走って、どうにか香澄に追いつくと彼女の腕を掴んだ。
「離して……痛いってば」
「嫌だ、離さない」
尚も振りほどこうとする香澄に、透は語気を強める。
「どうしたんだよ香澄?」
何か気に障るような事したか、問いかけようと口を開いて気付いた。彼女の肩が小刻みに震えている事に。
「え、おい、香澄?」
狼狽えながら彼女の顔を覗き込むと、泣いていた。
花火を反射して、さながら宝石のような輝きを放つ瞳に吸い寄せられるように、否、惹き合うように──。
人生2度目の“ファーストキス”は、今度もリンゴの味がした。