マワル。
「なん、で──」
怪我は大丈夫なのか? いや、そんなはずはない。あの時、確かに透は見たのだ。血の海に沈む彼女の──。
(一体どうなってるんだ……)
鮮明に思い出せる程クリアな夢? ならば、鉄臭いあの臭いはどう説明する?
(それに……)
目の端に香澄の姿を捉える。若干の幼さを残した横顔は何年も前から見てきたものだ。しかし──
(この違和感は一体……?)
「何よ?」
「……何でもない」
透の視線を察した香澄が訝しむように見つめ返す。
(どこにも怪我は無い、か)
香澄の白い肌には擦り傷の一つも見当たらない。記憶の通りであれば重症を負っていてもおかしくは無いはずだ。
「透──?」
香澄は黙ったままの透の視線の先を追って、何かに気が付いたようにハッと息を呑んだ。
透の視線は胸に固定されていた。
「……変態ッ!!」
身を捩って胸を隠す香澄。何とも乙女な仕草だが、鋭い踵落としを腹に撃ち込みながらでは台無しである。
(……お手上げだ)
透は腹と口を同時に抑えると思考を中断した。どうやら、状況を整理するのが先決のようだ。
「俺達はどうしてここに?」
「どうして……ですって?」
その瞬間、透は自らの失言を覚った。
香澄は漫画ばりの青筋をたててズンズン近付いて来ると、更に顔を近付けて声を張り上げた。
「文化祭の準備に決まってんじゃない。実行委員のア・ン・タが忘れてどうすんのよ!!」
「ごめんなさいごめんなさい、つい!! ──待った。今、何て?」
「はあ!? アンタ、実行委員って自覚無いわけ? それともまだ寝惚けて──」
「そこじゃない、その前。文化祭の準備だって?」
香澄の表情が一変した。怒りを通り越して、といった風に盛大な溜め息を吐く。
「はぁ……。もう、しっかりしてよ。『このままのペースじゃ間に合いそうに無いから』って夏休み返上で準備を進めるって言ったのはアンタでしょ?」
少しいい加減過ぎない? と付け加えて腰に手を当てる香澄。心底呆れた様子で、とても嘘や芝居には見えない。けれども、
「夏休みってお前、今は十一月──」
溜め息混じりに壁に掛けられた日捲りカレンダーに視線を移し、絶句した。
「なんで──」
確かに毎朝捲っていたはずだ。なのに、どうして、
どうして、八月になってる──!?
「透?」
ハッとして見れば、“夏服姿”の香澄が心配そうに彼を見つめている。
よく観察すると、幾らか陽に焼けている。健康的な肌が寧ろ気味の悪いモノに感じられた。
「何が……」
(──どうなってる?)
「大丈夫? 気分、悪いの?」
額を抑えたのを勘違いしたらしい。心配そうに彼の顔を覗き込んでいる。
「すまん、香澄……先に行っててくれ。俺は大丈夫だから……」
「それは良いけど、本当に大丈夫?」 「ああ、すぐ追い付くから」
「……分かった。それじゃあ先行ってるね」
彼女が学校へ向かったのを部屋の窓から確認すると、透は再び思考の海へと潜る。
(通行人も皆半袖や薄地の服ばかり……という事は、今は本当に夏だと考えるのが適当)
壁に掛けられたカレンダーの前に立つ。
(やはり今年の物だ……)
新しく用意した可能性も0では無いが、誰がこんな手の込んだ悪戯を仕掛けるだろうか?
(終わったはずの文化祭の準備……過ぎたはずの八月……まさか)
馬鹿な、有り得ない。しかし──
弾き出された答えを、ゆっくりと口にした。
「──過去に戻ってる?」
返事は無い。ミーンミーンと、ただ蝉の鳴き声が部屋を覆った。