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 白いシャツ、モスグリーンのスカート、紺色のエプロン。

 左手にはパレット、右手にはペインテイングナイフや筆。


 キャンバスを見つめる彼女の真剣な瞳が、こちらを見たことは未だにない。



「今日は何を描いてんの?」


 彼女がいる美術室は、本校舎から離れた位置にある平屋の校舎の中にあった。音楽室や書道室も同じ校舎の中にあるが、美術室だけグランドに面している。

 サッカー部の休憩時間、瀬戸口翔(せとぐちしょう)は美術室の窓枠に顎を載せ、熱心に絵を描き続ける彼女に声を掛けた。


「……昨日のと同じ。県美展に出す絵」


 落ち着いた声で答える彼女・桐野佳澄(きりのかすみ)は、絵を描く手は止めなかった。

 その様子に翔はつまらなく思い、口を尖らす。


「それは聞いたけどさ、どんな絵を描いてるのかは教えてくれないの?」


「……自画像です」


「へえ、見せてよ」


「大きいし、動かしたくない。中に入って勝手に見ればいいじゃん」


 佳澄はこっちには目もくれずに黙々と筆を滑らす。

 その真剣な表情を、翔は飽きもせずに眺めていた。


 彼女の存在を知ったのは数日前、練習で大暴蹴したボールをここまで拾いに来た時だった。

 誰もいない美術室で、一人キャンバスに向かう佳澄が目に入り、気になって声を掛けた。

 それ以来、部活の休憩時間にここを訪れることが日課になっていた。訪れるといっても、窓から彼女の様子を眺めているだけなのだが。

 佳澄は口数が少なく、翔の質問に答えてくれても、彼女から会話をするということはほとんどなかった。


「あのさ、美術部員って桐野さんだけ?」


「ううん、来てないだけで何人かいる。まあ、私以外は幽霊部員ってこと」


 佳澄は筆でパレットから絵の具を取り、キャンバスへ運ぶ。


「ふぅん、寂しくない?」


「別に。絵を描くの好きだし、静かな方がはかどる」


「……それって遠回しにおれが邪魔って言ってる?」


 翔が寂しそうに眉を下げると、佳澄は一瞬手を止めて「そうかもね」と小さく呟いた。

 ガクリと大袈裟に肩を落とした時、グランドからホイッスルの音が聞こえて翔は頭を上げた。


「あ、休憩終わりだ。じゃあね桐野さん、また明日来る」


 踵を返したのと同時に佳澄が微かに頷いたのが聞こえ、翔は何だか嬉しくなった。


 翔が美術室までやって来ることに、佳澄は嫌がる素振りは見せなかった。

 まあ彼女にとっては邪魔なのかもしれないけど、話をするだけだし、気分転換になるのかも。等とポジティブに考えておく。

 浮き足立ちながらグランドへの階段を駆け下り、サッカー部員の群れに紛れた。



 佳澄と部活のあの時間以外で話すことはなかった。

 クラスも別々で、たまにしか顔は見なかった。

 いや、美術室で絵を描く彼女を見る以前は、名前すら知らなかった――名前は直接聞いた――から大きな変化だ。


 でも最近は廊下ですれ違う度に、つい目が追いかけてしまう。もちろん、彼女は目を合わせてはくれない。

 キャンバスに向かっている時の、涼しげで凛とした眼差し。あの視線でこちらを見てほしい。

 それにまだ笑った顔も、怒った顔も見たことがない。どういう風に佳澄が表情を変えるのか、今はそれが気になっていた。



 次の日の放課後、部活が休憩に入ったため翔はいつも通り美術室を覗きにやって来た。しかしキャンバスはイーゼルに立てられているものの、佳澄の姿がなかった。

 少しばかり落胆しながら、翔は窓枠に腕を置いて彼女が戻るのを待つことに決めた。

 くすんだ色をしたキャンバスの裏面をぼんやり眺め、思考を巡らせる。


 今日は何の話をしよう。佳澄のことは何も知らないから、どんな話なら楽しんでくれるか分からない。というか自分の話題が佳澄に通用するかどうか疑問である。

 自分はサッカー馬鹿と自覚するぐらいサッカー馬鹿だし、佳澄も絵を描いている間は他のことには目もくれない。

 お互い極端な場所に立っている気がするのに、分かち合える話題なんてあるのだろうか。


 なにか絵に関する知識が自分にもあれば、もう少し彼女に近付けるのに。

 そう考えて、ふと佳澄が描いている絵がどのようなものなのか、急に興味がわいてきた。


 見せてと頼んでも彼女は見せようとはしなかった。でも勝手に見ていいとは言っていた――はずだ。

 翔は窓枠に手を掛け、身軽によじ上って美術室に進入する。


「あっ、靴靴」


 土足厳禁なのを思い出し、慌ててスパイクを脱いで外に放る。

 そしてワクワクしながらキャンバスの表へ回り込んだ。


 そこには膝を抱えて座っている佳澄の姿が描かれていた。上手いか下手かは翔には分からないが、想像していたよりも繊細な絵だった。

 顔は僅かに俯いていて、それでいて少し笑っているようで。淡い色彩でまとめられているその絵からは、少女特有の儚さが溢れていた。

 そして最後に目に写ったのは、足元に転がっている、描きかけのサッカーボール。


(サッカーボール?)


 首を捻った時、背後でカタンと音がして翔は振り返った。

 そこには驚いた表情の佳澄が佇んでいて、彼女の視線が真っ直ぐ、翔を射ている。


 初めて目が合った。初めてこんな近くで彼女を見つめた。

 揺らぐことのないその瞳を意識するだけで、不思議と胸の奥が熱くなる。


「ごめん、勝手に見ちゃった」


 決まり悪くなって、翔は頭を掻いた。


「……別にいいけど」


 佳澄は手にしていた小さな紙袋を机に置いた。


「桐野さんってサッカー好きなの?」


 彼女の絵のサッカーボールを指差しながら翔は尋ねた。すると佳澄はふるりと首を振る。


「そこまでは。ただ何かモチーフを入れたかったから」


「何でサッカーボール?」


「……何となく」


 佳澄はそっけなく答え、肩をすくめた。


 それからしばらく、沈黙が続く。

 先に口を開いたのは、珍しくも佳澄の方だった。


「あの」


「ん?」


「今日、調理でカップケーキ作ったんだけど……食べ、ます、か」


 照れ臭そうに、佳澄は机に置いた紙袋を再度持ち上げた。

 翔はこくこくと何度も頷く。


「食べる食べる、やった、腹減ってたんだよね」


「……そっか、よかった」


 佳澄がふっと、安心したように笑った。


 あ、こういう風に笑うんだ。

 少しぎこちなくも見えるが、自分に向けられた笑顔が無性に嬉しかった。


 紙袋を開いてカップケーキを取り出す彼女に、翔は近寄る。


「ねえ、今度一緒に美術館行かない?」


「え……行かない。私、美術館は一人で行きたいタイプなの。ごめん」


 甘い香りのするカップケーキを手渡しながら、申し訳なさそうに佳澄は謝った。しかしそれでもめげずに、翔は続ける。


「じゃあサッカーは? サッカー観戦」


 カップケーキ片手に更に詰め寄ると、佳澄は一瞬宙を仰いで小首を傾げた。


「私サッカーよく分からないよ?」


「おれが教える! それにサッカー分からなくてもスタジアムで観るの楽しいよ」


「……それなら……行く」


 佳澄が小さく頷くのを見て、翔は笑みを浮かべた。それから心の中でこっそりガッツポーズをする。

 かぶりついたカップケーキが予想以上に美味しかったのは、佳澄から貰ったものだからというのと、幸せな気分になっていたからというのが合わさったせいだと思う。

 窓の向こうからホイッスルの音が聞こえたが、翔は気にせず食べ続けた。


「あの……部活、大丈夫なの?」


 佳澄が心配そうに首を傾げる。


「うん、せっかく貰ったんだし、食べてから行く」


「……そっか」


 カップケーキをもう一つ取り出し、佳澄も食べ始めた。


 それから二人は、佳澄が描いた絵を静かに眺めていた。


* * *


「じゃ、また明日。あ、サッカー観戦の日にち決まったら教えるね」


 そう告げて翔が窓の向こうに消えるのを、佳澄は見送った。それから、へたり込むように椅子に腰掛ける。


「びっくりした……」


 まさか本当に彼がこの絵を見に、美術室に入ってくるとは。

 その上、まさか彼からお誘いを受けるとは、思ってもいなかった。


 心臓が、やけにうるさい。


 数日前、翔に初めて話し掛けられた時は、平静を装うのが精一杯だった。ううん、今日だってそう。カップケーキをあげられたことは、奇跡に近いんじゃないだろうか。


 だって、今まで翔は自分のことなんて知らなかったのだから。いくら自分が目で追っても、彼と視線が重なることなんてなかった。


 佳澄は熱くなった頬を擦りながら、描きかけの自分の絵を見つめた。

 この絵のタイトルを教えたら彼は驚くのかな。

 想像してみて、恥ずかしくてたまらなくなる。両手で顔を覆い、蹲って奇妙な声を発した。


 一人で絵を描くことは自分にとっては普通のことだった。

 絵は自分の心を表すものだと思っているから、一人で向き合っている方がいい絵になるような気がする。しかし不安な気持ちが押し寄せてくることもあって、たまに苦しくなるのだった。


 でも最近は、翔と話すようになってからは、楽しい気持ちで描いている。


 こんな幸せな機会に巡り会えたのだから、一人ででも絵を描き続けてよかったと、心から思えた。


 とりあえず、帰ったらサッカーのことを調べてみよう。クラブチームのことだけでなく、ルールすらもいまいち分かっていない。

 自分にサッカーの知識が少しでもあれば、会話が広がるような気はするのだ。


「よし」


 佳澄は身体を起こしてキャンバスに向き合った。

 そして筆を取り、また静かに描き始めた。

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