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そんな日々が続いた甲斐があったのか、私の心には平穏が戻りつつあった。
腹が立つことに変わりはないが、済んでしまったことをいつまでも言っても仕方がない。
駄々をこねたところで時間を戻すことはできないし、元の世界へ帰ることもできないのだから。
むしろこれからどうするかが重要なのだ。
これから先に待ち受けていることを考えると、正直滅入りそうではあるけれども。
テネブラエは何を思ったのか、私の元を訪ねる時に本を持参するようになった。
これはまた便利というか、私はこの国の文字を読むことが出来たので、それを素直に受け取る。
国の成り立ち・王族の系図といった歴史から始まり、地理や政治経済、外国語に至るまでと内容は幅広い。
学ぶことは嫌いではないが、その膨大な量に少しうんざりする。
これは彼なりの復讐なのだろうかとも思ったが、テネブラエは丁寧にわかりやすく解説してくれるのだ。
さらに彼の声は、私にとって低すぎず高すぎず非常に心地よい声。
そのためか内容がスッと私の頭に入ってくるので、実のところあまり苦痛ではなかった。
大学受験の時に是非ともテネブラエが欲しかった。
そんなどうでもいいことを考えつつ彼を見ていたら、分厚い前髪越しに目が合ったような気がした。
するとテネブラエは形のよい薄い唇の両端を緩やかに上げ、私に優しく問う。
「どうしました?」
「…ううん、なんでもない。ね、ここはどうしてこうなるの?」
「ああ、これは―――」
開け放たれた窓からは爽やかな風が入り、小鳥の鳴く声が聞こえてくる。
休憩時間には侍女さんたちが美味しいお茶とお菓子を用意してくれ、彼女たちも交えながら楽しくおしゃべり。
こんな穏やかな日が続けばいいなと願った。
もちろんそれはありえないとわかっていても。
ある日、私はついに王様に呼ばれた。
もう何か月も放置されていたので私のことなど忘れたかと思っていたが、そうでもなかったようだ。
いっそ私のことは忘れていて欲しかった。
そうすればテネブラエや侍女さんたちとの穏やかな日々が過ごせたのに。
私の中ではすでにテネブラエは欠かせない存在になっていた。
当初は一番憎い人だったはずなのに、今ではすっかり一番頼りになる人となっている。
彼の為人のせいなのかそれとも狙ってやったことなのか定かではないが、それが事実だ。
私は彼と離れたくなかった。
王子様の花嫁となったら、彼以外の男―――テネブラエを側におくことは可能なのだろうか。
残念ながら、そこに邪な関係がなくても却下されそうな気がする。
テネブラエはまだ20代半ばの若い男だ。
王子妃ともなろう女の側に、醜聞のネタになるような者は決して近づけないはずだ。
テネブラエと過ごす日々も昨日で終わりだったかと肩を落とした。
彼は昨日会った時何も言っていなかったが、知っていたのだろうか。
知らなかったのならまだいいが、知っていて何も話さなかったのなら、テネブラエにとって私の存在はその程度だったということなのだろう。
そういえば私が無理やり付き合わせていたことなのだと思い出し、さらに落ち込む。
私の背後では侍女さんたちがああでもないこうでもないと嬉しそうに私の衣装を揃えている。
私も女なので着飾ることは好きだが、今は到底そんな気分になれなかった。
王様の横にはもう1つの椅子が用意されており、そこには1人の見知らぬ男が座っていた。
私の予想とは裏腹にあの王子様ではない。
否、正確に言うと色彩的には非常に見覚えがある。
茶色の髪に青い瞳、不健康な白い肌。
綺麗な青い瞳と視線がぶつかり、私はデジャビュを覚えた。
「……―――テネブラエ?」
「そうですよ」
恐る恐るかの人の名を呼ぶと、男はにっこりと微笑んで頷いた。
本当にテネブラエだ。
私が彼の声を聞き間違えるはずがない。
うっとおしかった前髪を後ろに撫でつけ、すっかりおでこ全開だ。
思っていた通り整った顔をしており、あの王子様にも決して負けてはいない。
華やかさでは少々劣るが、上品で落ち着き払ったその姿は貫禄さえ感じる。
だが、状況がつかめなかった。
どうしてテネブラエがその席に座っているのか。
王様の横に並んで座われるのか。
彼はそれに相応しい地位にいるということなのだろうが、それに見合うものと言ったら―――
「ナギ殿。貴女にはこの不肖の息子、テネブラエの花嫁となっていただきたい」
「……はい?」
私はテネブラエから一旦視線を外し、王様を見た。
王様はまだ混乱している私に申し訳なさそうな顔をして、自ら説明してくれた。
テネブラエはなんとこの国の第一王子だという。
てっきり最初に会った王子様がそうだとばかり思っていたが、よくよく考えてみれば誰も彼を第一王子だと呼んでいないことに気付く。
テネブラエは政にはあまり興味がなかったので一線を引き、第二王子で弟であるルーメン(最初に会った王子様)にほとんど権限を譲っていたそうだ。
なんでも魔力に長けていたので、そちらの方面に力を注いでいたのだとか。
白い皆さんと同じ格好をしていたのもそのためだ。
なので政に関しては滅多に口を挟まないのテネブラエだが、今回のことは我を通した。
私を自分の花嫁にすると。
異世界からやって来た女を花嫁にする権利は王族の男子にあるわけであって、何も王位を継ぐ王子に限ったことではないはずだと主張したらしい。
王様は今までの様子を全部静観していた結果、テネブラエの主張を受け入れた。
その方が私の為にも良いだろうと考えてくれたそうだが…
部屋に戻ってきても、急展開なことで俄かに信じられない私をテネブラエが不安そうに見つめてくる。
椅子に私を座らせると、彼はその隣に腰を下ろしそっと私の手を握った。
「私が相手では嫌かい?ルーメンの方が良かった?」
沈んだテネブラエの声に私ははっと意識を戻すと、盛大に首を振って否定した。
彼が嫌だなんてとんでもない。
「まさか!ただ突然のことに驚いているだけ」
「私のことは嫌ではない?」
「もちろんよ!最初はなんて人だと思ったけど…今は違うもの…」
テネブラエの目を見ながら話していたが、徐々に恥ずかしさを覚えて俯いてしまう。
彼の目があまりにも優しかったうえに、言葉にすることで自分の想いをより自覚してしまったのだ。
私の手を握る彼の力が強くなる。
「…それは…期待していいのかな?」
熱が籠った声に、私はおずおずと顔を上げた。
涼しげなはずのテネブラエの青い瞳も声と同じで、私の体は一気に熱くなる。
きっと顔は真っ赤なはずだ。
私はそれ以上想いを口にすることが出来ずただコクンと小さく頷くと、大きな温もりに包まれた。
ひょろひょろで頼りないとばかり思っていたテネブラエだが、こうしてみると案外がっしりしている。
やはり男の人なのだと思うと、ますます熱が高まる一方だ。
嬉しいがそろそろこの状態から逃れたかった。
このままいくと私はパンクしてしまいそう!!
だが、テネブラエは私に止めを刺した。
私の耳に唇を寄せると、あの声で囁いたのだ。
「ナギ、私の愛おしい花嫁。……逃がしはしないよ」
恋愛にほとんど免疫のない私はここで完全にショートし、何も考えられずテネブラエに全てを委ねる。
だから彼が最後に言った言葉の意味をこの時正しく理解することは出来なかった。
ひとまず凪視点はここまで。
次のテネブラエ視点で完結です。