太陽の少女
この物語はフィクションです
僕は、とある画家のアシスタントをしている。中々有名な先生で、最近ファンの数も少しずつ増えてきているようだ。
来週、先生の三度目となる展示会を開かれる事となった。そのため、今日、僕はこうして先生のアトリエに足を運んでいる。今日は今回の展示会のメインとなる絵を見せてくれるというので、僕は少しウキウキしながら先生の部屋の前にやって来ていた。
「先生、アシスタントの高橋ですが、入ってよろしいですか?」
扉越しに先生に声をかける。
「ああ、構わないよ」
先生の返事があったのを確認して、僕は扉を開けて部屋へと入った。今日運ぶ絵が最後になるので、部屋の中はもうすっかり片付いている。先生は部屋の真ん中にある小さな椅子に腰を下ろしていた。
「先生、お疲れ様でした。今日で今回の展示会の絵は最後になります。残りは全て会場の方へと運んでありますので」
とりあえずアシスタントとしての仕事をこなすべく、最低限の報告を済ませる。何を隠そう、僕も先生のファンの一人だ。正直なところ、仕事なんかより早く先生の絵を見たかった。
「すまないね、無理を言って。一枚だけ後にするなんて、大変だったんじゃないかい?」
先生が苦笑いを浮かべながら言う。
「大丈夫です。満足いかない作品を展示するよりいいだろう、って言ったら、向こうのスタッフも納得してくれました」
「そうか。そいつはよかった」
先生はほっとしたようにそう言うと、目の前にある布のかかったキャンパスに視線を移した。
「それですか?」
「ああ。見てみるかい?」
「はい、是非!」
僕の嬉しそうな顔に、先生はまた苦笑いを浮かべて、そっと布を取った。
「おぉ……」
それを見た瞬間、僕は思わず声を漏らした。中央には、天に向かって両手を広げる一人の少女。その両手から、一羽の小鳥が、輝く太陽に向かって飛び立とうとしている。そして、それらを照らす太陽の暖かな光。それは、写真では絶対に表現出来ない、現実感のない美しさだった。
「素晴らしい作品ですね。僕は先生の作品をいくつも拝見させて頂きましたが、この作品は今までの中でも一番すごいんじゃないかと思います。こう……僕みたいな素人ではうまく言えませんが……」
どうこの作品に対する感想を述べたらいいのか戸惑う僕に、先生は言った。
「それはそうだろう。この絵は、私がこれまで何十枚と描いてきた絵だからね」
「何十枚? これと同じ絵をですか?」
「ああ」
先生が頷いて答える。先生の言葉に、僕は首を捻った。
「何故、何枚も同じ絵を? 納得のいく出来ではなかったのですか?」
「私はこの絵を描いて納得のいった事など一度もない。私の胸に焼き付いているあの時の風景は、紙には表わせないのだろうね」
「あの時の風景? これは先生が実際に見た風景なのですか?」
僕が先生にそう尋ねると、先生は一つの昔話を僕に聞かせた。
お父さんが出張に行ってから、もう一ヶ月が経っていた。『いつ帰ってくるの?』お母さんにそう尋ねても、お母さんは何も答えてくれなかった。
そんなある日のこと、夜中に目が覚めた僕は、トイレに行くために寝室を出た。その時、居間からお母さんの声が聞こえてきた。電話で誰かと話をしている。声が低かった。お母さんは知らない人と話すときは、声が少し高くなる。だから、電話の相手がお父さんだと、僕にはすぐにわかった。
何を話しているのか気になった僕は、ばれないようにそっと居間に近づいた。次第に声がはっきり聞こえてくる。その時、お母さんはこう言った。
「あの子は私が育てます! 二度と父親面をして現れないで!」
それから数日後、僕の通う小学校のホームルームの時間に、先生が言った。
「学校で飼っている小鳥が大きくなったので、放してあげようと思います。賛成の人は手を挙げて下さい」
周りの生徒達が皆手を挙げる。手を挙げなかったのは、僕だけだった。
「中野君は反対?」
「………はい」
先生が僕に尋ねる。他の生徒達が白い目を向けてきたけれど、それでも僕ははっきりとそう答えた。
「どうして?」
「……かわいそうだから……」
「何言ってんだよ! 鳥かごに入ったままの方がかわいそうじゃねぇか!」
「そうだそうだ!」
皆が口々に僕の事を非難する。僕は何も言わず、黙って下を向いていた。結局、反対したのは僕だけだったので、多数決で放課後に鳥を放してあげることとなった。
放課後、校庭に生徒達が集まって鳥かごを囲む。先生がゆっくりと鳥かごの扉を開いた。小鳥がゆっくりと鳥かごを出る。そして、羽をはばたかせて、地面を飛び立った。生徒達から拍手が起こる。でも、それは一瞬だった。
次の瞬間、小鳥は突然空中でバランスを崩して失速し、地面にぽとりと落ちた。生徒達が驚いてその様子を見る。小鳥はもそもそと起き上がったが、もう一度飛ぼうとはしなかった。
「だから言ったのに……」
僕はぽつりと呟く。皆が一斉にこちらを向いた。
「空の高さを知らなければ、大空を飛ぶ夢を見ていられたのに……」
その言葉には、生徒達だけでなく、先生も沈黙した。
「そんな事ないよ」
だが、その時、その沈黙を破って、一人の少女が言った。
「飛べるよ、あの子は」
そう言って、少女がゆっくりと両手で小鳥を抱え上げる。そして、ゆっくり、ゆっくりと、その手を太陽に向けて掲げた。
「大丈夫」
少女が小鳥に向かって小さく呟く。
「空には、あんなに大きな目印があるから。だから、それを目指して、ゆっくり飛んでいけばいい。誰でもない、あなたのスピードで」
少女が言葉を言い終えたのと、ほとんど同時だった。小鳥は翼を大きく広げると、少女の両手から颯爽と飛び立った。どこまでも、太陽に向かってはばたいていく。その様子に、再び生徒達から拍手と歓声が巻き起こった。
「それじゃあ、これはその時の?」
「ああ。あの時カメラを持っていなかったのを、私は今でも後悔しているよ。あの風景は、私の中にしか残っていない。その記憶を色あせないようにするために、私は何十枚もこの絵を描いているんだ」
先生はそう言って、キャンパスの絵を手に取った。
「題名は『太陽の少女』だ。会場までよろしく」
「はい」
僕は先生からそれを受け取ると、落さないようにしっかりと両手で抱えた。
「ところで先生、一つ聞きたい事があるんですが」
「なんだい?」
「その女の子の名前、覚えていますか?」
僕がちょっとした好奇心でそう尋ると、先生は三度苦笑いを浮かべる。
「いや、小学生の頃だしね。もう忘れてしまったよ」
「そうですか……」
少し残念な気持ちになりながら、僕は言った。もし覚えていたら、是非この絵を見てもらいたかったからだ。
「先生、もう一つだけいいですか?」
「ん?」
僕はもう一つの疑問を先生にぶつけた。
「そんな大切な絵なのに、どうして今まで発表しなかったのですか?」
「……この絵は、ずっと私の心の支えだった。家族の写真や尊敬する人の写真を展示会に飾る人はいないだろう?」
「では、何故今回の展示会で?」
僕の質問に、先生は何も答えなかった。
その時、僕はキャンパスの裏に何かが貼り付けられているのに気が付いた。新聞の切り取りらしい。僕は何気なくその記事を読み上げた。
「覚せい剤取締法違反の容疑で太田陽子容疑者を逮捕……?」
その言葉を聞いた先生は、キャンパスに描かれた少女を見ながら、ぽつりと呟いた。
「知らなければ、夢を見ていられたのにな……」