「はなれない」
くそ……ッ、何故なんだ。
何故お前は、はなれてくれないんだ。
もう何度も何度も何度も何度も、腕を上下に大きく振って。
何度も何度も何度も何度も、掌を底に強く打ち付けているのに。
どうして……お前はそんなにも頑なに、そこからはなれてくれないんだよ……!!
――ガチャ。
その時リビングルームの扉が開き、一つ下の妹が、空色のタンクトップに白のショートパンツと実に夏らしい格好で顔を覗かせる。
そして、俺の顔を見るなり眉間に皺を寄せ、腰に手を当てると仁王立ちで一言。
「あのさぁ、アンタさっきから何やってんの? 五月っ蠅くてしょーがないんだけど」
五月蠅いって、仕方ないだろ。気合入れてんだから声ぐらい出るよ。
それよりもお前こんなにも疲労困憊してる兄を見て、なんだこう労りの言葉とか頑張ってとか、そういう台詞は出て来ないのか?
俺は冷房の良く効いたリビングの中で、ぼたぼたと顔から大量の汗を流し、はぁはぁと肩で大きく息をしながら。くっきりと円状の跡が付き真っ赤に腫れた右の掌を妹に突きつけそう言う。
しかし彼女からの返答はたった一言「一切ない」だった。……あれ、何か目から水みたいなものが。いやいや、汗だよなこれ。
……気を取り直し、逃げるように俺は妹からさっと視線を逸らすと深呼吸を1つ。右手に持ったままのソレをキッと睨み付けると、鷲掴みにし再び大きく腕を振り上げる。
うっかり落とさぬよう最初は皿をテーブルの上に置き、腕も肘から下だけを小さく振っていたが、それでは勢いがどうしても足りない。だから俺は、食器棚から大皿を持ってきて、それをテーブルではなくリビングの床に置いたんだ。
俺の身長が大体170センチメートルだから立ち上がれば結構な高さになるし、ここから腕を振りおろせばかなりのスピードが出るだろう。直径が約1メートルもある大きな皿だから万が一にも取りこぼしはないし、準備は既に万端だ。……っていうか、こんなデカい皿よく家にあったよな、何に使うんだコレ? ……まぁいいか。
……ゴクリ。腕を上げたままの状態で俺は唾を飲み込むと大きく息を吸い込む。
今度こそ、今度こそ、俺は……やるぞ!!
うおおおおおお――――!!
「……あのさぁ」
ガクッ、
叫びながら今まさにソレを振り下ろさんとする俺を、妹の淡白な一言が止めて。俺はバランスを崩しそのまま床に倒れ込む。
お、お、お、お前……っ、せっかく俺が全身全霊をかけた渾身の一撃を放とうとしていたのに……!?
しかし、床の上に転がり驚愕の表情で震える俺を見ても妹は全く微動だにしないまま。
音もなく俺の前にやってくると、俺の前にちょこんと座り、俺の右手からひょいとソレを奪うと口元をニヤリと歪ませる。
「……アンタ、相当なバカでしょ。……コレはこうやって、容器の裏に付いてる小っさい棒みたいなやつを折れば簡単に中身を取り出せんのよ」
……プッチン。
フフンと鼻を鳴らし、心なしか俺を見下げているような目の妹がそう言った直後、妙に小気味良い小さな音がして。
この数十分間、ずっと俺を苦しめ続けていたクリーム色の悪魔――プッチンプリンが、一瞬にして床に置かれた白い大皿の中央にぷるんと揺れる。
…………なるほど。鳩が豆鉄砲を食らったような顔、っていうのは多分、今の俺の顔みたいな感じなんじゃないだろうか。
「……ぷっ、あはははははっ、アンタって本当マヌケなんだから! あっははははは!」
そんな俺が可笑しかったのか、俺の顔を指さしながら妹はとびきりの笑顔で、それも本当に楽しそうに笑っている。
むぅ、悔しいような、腹の立つような、だけどちょっと嬉しいような。
……あれっ、っていうか今更だけど、夏休みだし今日こいつ友達と遊びに行くって言ってなかったっけ? 何で家にいるんだよ。
「あ~、笑った笑った、もうプリン一生分笑ったわ」
プリン一生分って何だそれ意味分からんが。
すると、ふいに笑いを止めた妹はすっと立ち上がり、プリンの大皿を前に両手を付き固まる俺のすぐ隣に座り直すと、俺の肩に寄りかかるように頭を乗せて、それから上目遣いで見上げてくる。……何故だか、ヒヤリと冷たい感触がした。
「やっぱり、あたしがいないと駄目だねぇ兄貴は。……これからもずっとはなれないからね」
……うん? どうしたんだ、急にそんなこと言うなんて。
もう高2だし一応年頃なんで、この先彼女とか出来た時のために俺としては少し距離を取ってくれると助かるんだけど――。
……その時、俺の携帯が着信を告げて。
携帯電話越しに、俺は母さんから、ついさっき、妹が車にはねられて死んだことを知らされた。