1-1.離婚
「アンナ、離婚してほしい」
夜が更けたシュルツ伯爵邸の書斎に、重苦しい沈黙が流れた。
夫のモーリスは書斎の扉に立ったまま、アンナの目を見なかった。
酒の匂いがした。モーリスは今しがた都から戻ったようだ。旅の埃をまとった外套を羽織っていた。三十二歳になった夫には、かつての華やかさはない。どこかうつろな疲弊が滲んでいた。
アンナは五年前にシュルツ伯爵家に嫁いだ。結婚当初から夫であるモーリス・シュルツ伯爵は領地経営に無関心だった。領地の管理をアンナに任せ、狩りと賭け事と宴席を愛するモーリスは、年間のほとんどを王都の別宅で過ごした。
領地の管理を任されたアンナは、領地をくまなく巡回し、泥にまみれて畑を検分し、収穫量を計算し、領民の陳情に耳を傾けた。久方ぶりに領地に帰ってきたモーリスに、アンナが報告書を差し出すと「君に任せている」と微笑み、翌朝には王都へ発った。モーリスにとって、領地はただ金を生む財布に過ぎなかったのだ。
五年間、アンナはこうしてシュルツ伯爵領を守り続けてきた。
呆れを通り越して、アンナはいつしか諦めを抱くようになった。モーリスに領主としての自覚を目覚めさせるより、目の前の領民と向き合うほうが、アンナにとって意味があった。
その夜もアンナは、書斎でシュルツ伯爵領の管理簿を開いていた。侍女が持ってきた領民からの報告を目で追った。小麦の収穫量、農民への貸付金の残高、修繕が必要な水車の数。時間はいくらあっても足りなかった。
「ケイト・ブラックソーン男爵令嬢を、正妻として迎え入れたい」
アンナは羽根ペンを置いた。
モーリスから離婚を告げられ、胸の奥がわずかに疼いた。それは傷心ではなく、ついにその日が来たか、と感じただけだった。
モーリスと夫婦になって五年。子はできなかった。シュルツ伯爵家の存続に関わることであるから、離婚の理由としては尤もである。
それに、モーリスがケイトの名を口にしたのも、さほど驚きではなかった。
王都の別宅に送った大金を、モーリスは湯水のごとく使った。モーリスの浪費を、家人から何度も耳にした。王都で頻繁に連れ歩いている若い令嬢がいる。その令嬢の名がケイトだった。
「……ケイト様ですか。彼女がこの領地の管理をできると、本気でお考えなのですか?」
「管理など、誰がやっても同じだ。君は少し出しゃばりすぎた。これからは私が管理する。君は実家に戻るがいい」
アンナは静かに管理簿を閉じた。シュルツ伯爵家を去ることに未練はなかった。
五年間、アンナはシュルツ伯爵家を守るために尽くした。領地経営を立て直し、領民を守り、周辺貴族と良好な関係を築いた。水路の工事が完了すれば、小麦の収穫量は安定するだろう。領民が飢えることなく暮らしていければ、それでいい。
「わかりました。ただし、条件があります」
「何だ?」
「私の実家、ウィンストン子爵家からの持参金を全額返還してください」
シュルツ伯爵家への持参金は、深刻な豪雨被害にも関わらず父が用意してくれた。アンナのために親族に頭を下げて、かき集めた大切なお金だ。これだけは譲れない。
「わかった」
モーリスは目を細めた。アンナが泣き崩れることを期待していたのだろう。不快そうに鼻を鳴らした。
「では、引き継ぎの書類を用意します。農民への貸付の返済スケジュール、次の冬に補修が必要な箇所の一覧、水車の管理記録。後任が困らないよう、準備しておきます」
もう十分だ。実家に帰ろう。アンナは机の羊皮紙に視線を移すと、羽根ペンを走らせた。
翌朝、アンナは荷をまとめ、住み慣れたシュルツ伯爵邸を去った。
馬車の窓の外には、アンナに仕えてくれた家人が頭を下げていた。モーリスは見送りに来なかった。正門を出た後、アンナは一度も振り返らなかった。




