忘年会
あれ、と思うことが増えた。
確かに提出した筈の書類が受理されず、その催促さえも来ない。こちらから訊ねてやっとそれが判明する。手続きは手間を増やしていく。
会議や飲み会の出欠も、確かに出した筈なのに自分の名前がない。
──こんなにツイてないことも、あるもんだなぁ。
二木宗治郎はこの所の事態をそう捉えていた。
しかし、どうにも納得がいかないことが起こったのは、学生時代のメンバーで恒例の忘年会をしようとなった時だった。
メッセージアプリで連絡を取り合い、店を予約し、出向いた居酒屋で通された個室の襖を開け、二木はその中の光景に足を止めた。
中に居た見知った顔が皆、二木を訝しげに見つめ、その中の一人鈴木武志がハッと目を見開く。
「……宗治郎?」
「うん……もう、始めちゃってたんだ」
皆既にビールのジョッキをそれぞれの前に置き、乾杯を済ませていたようだ。突き出しも、コース料理のつまみとサラダまでもがそれぞれの小皿に取り分けられている。
六人席の掘り炬燵に納まった旧友五人は、二人と三人に分かれて座り、二人の側は微妙に空いた隙間に荷物が置かれていた。
二木は特に待ち合わせに遅れた訳ではない。
いつもなら仕事等の都合で遅れてくる者も居るし、交通手段だって絶対ではない。休みの数人が時間通りに集まり、その時々で先に始めることもある。
だが、今日二木は休みであったし、遅れる旨を連絡する必要もなかった。
それなのに──。
二木の中で、嫌な予感がぐにゃりと不快感を伴って渦巻いた。
──俺が、無神経だったのか?
昔から、二木の友人からの評価は「おおらか」悪く言えば「図太い」「大雑把」。多くの場合良い意味で言われていたが、時を経て、その点が目に付いたのかもしれない。
それよりも、扉を開けた瞬間の皆の視線が妙に心に残った。
まるで、初対面の相手を見るかのような、何の親しみもない瞳。まさか、付き合いの長い友人からそのように見られるとは思ってもおらず、不意の痛みだった。
反応から見ても、冗談を言っている風ではない。それは、付き合いが長いからこそ判る。
だから、どう反応をしたらいいのかが判断出来なかった。
その場で見つめ合うこと、ほんの数秒だったろう。
「後ろ失礼します」
二木の背後を店員が抜けていく。広くはない通路で僅かに体が擦り合って、二木は個室に踏み込んだ。
その瞬間、鈴木がパッと立ち上がり、二木の腕を掴んだ。
「ごめん、宗治郎……俺達、なんで先に乾杯なんか」
鈴木の顔は酒を飲んだというのに青褪めている。後ろに座る友人達も、信じられないといった風にテーブルの上を見回していた。
「宗治郎、こっち、座れよ」
羽鳥が荷物を退け、早坂との間の席を開けた。早坂がおしぼりでテーブルの上を拭き、佐藤が「すいません、小皿とおしぼりと箸お願いします」と言うと、店員は一瞬だけ不思議そうな顔をして、個室の中に目を向けてから「かしこまりました」と下がっていく。
「あ、あとビール! 宗治郎の! ──ビールでいいよな?」
進藤が言うのに二木がコクコクと頷くと、佐藤が慌てて「あとすんません、ビールも!」と人差し指を立て、手で丸を作ったりしながら通路の先の店員とやり取りをした。
「いや、その……」
騒然とする中、鈴木が気まずそうに、それでいて非常に戸惑ったように口を開いた。皆の顔を見回せば、誰もかれも酷く動揺しているようだった。
二木は、小さく笑みを作ってから、冗談めかして言った。
「いやぁ、てっきり俺の無神経さが誰かを怒らせたのかと思ったよ」
「いやいやお前は無神経じゃないって。無神経なのは、俺達だって」
鈴木の言葉に、皆深刻な顔で頷いている。
「でも、何で先に乾杯したんだっけ」
進藤が言うと、皆難しい顔を浮かべた。
「確か、いつも通りに集まって。今日は皆早く集まれたなーなんて話しながら乾杯したよな」
早坂が言う。
「宗治郎居ないのに、なんか全員揃ったってテンションで始めたよな」
佐藤が首を捻りながら言った。
「というか、確かにテーブルの上に六人分あったわ、箸とか。でも邪魔だからビールが運ばれてきたときに片付けて貰ったんだよ」
羽鳥が言うと、シンと沈黙が落ちた。
その時、襖を開けてビールや小皿を持った店員が入って来て、それらをテーブルの上に置いた。鈴木が大げさに笑顔を浮かべ、二木の前に置く。
「本当、ごめん。どうかしてた。改めて乾杯しよう」
「うん、そうだな。皆ももう気にしないでくれ。今日は忘年会だ」
「……だな!」
佐藤がニッと笑い、「じゃあ乾杯! 一年お疲れさまでした!」と音頭を取る。皆ジョッキが音を立てて重なる頃には、笑顔を取り戻していた。
他愛もない話をしながら、コース料理の続きを堪能する。とびきり上手い訳でもないが「これ旨いな」などと話し合いながら、二木は忘年会を楽しんだ。
「そういえばさー、この間友香ちゃんと再会したわ、俺」
進藤が顔をニヤけさせながら言った。
「友香ちゃんって、三組の? そういえばお前ずっと好きだって言ってたよな」
鈴木の言葉に、佐藤が訳知り顔で進藤の言葉を待っている。
「そう、俺のガチの初恋。そんでさ、今フリーらしくて、今度飯行くことになった」
その場がわっと色めき立つ。
しかし、二木はどうにも複雑な想いを抱かざるを得なかった。
進藤と佐藤は幼馴染で、このメンバーの中でも特に仲がよい二人だった。二木達が知らぬこともお互い話しているだろうし、それは当然のことだろう。鈴木も、昔から皆のことに気を回しているから、それぞれの事情を知っていてもおかしくはない。
だからこそ、知っている筈だ。
友香が二木の元恋人だということを。
二木は別れを切り出された時、あまりのショックで数日寝込んでいたのだ。それを鈴木は知っている。そして、友香と付き合っていたことをこのメンバーは皆知っている筈だった。
今、友香に何らかの恋愛感情がある訳ではない。だが、進んで聞きたい話でもない。
当時の感情がじわりと蘇り、二木は思わず俯いた。
「何だ、もしかして宗治郎も友香ちゃんが好きだったのか?」
と笑った佐藤が、ハッとして顔を曇らせる。それは、瞬く間に皆に広がった。
「お、俺達……何で……」
羽鳥が震える声で言った。羽鳥は友香に振られ、意気消沈している二木に〝デカいハンバーガー〟を奢ってくれた。それだけで、あの当時は少し元気づけられたものだ。
それを、羽鳥は今の今まで忘れていたというのだろうか。
忘れてしまえる程の記憶だったのだろうか。
自分の存在は、その程度だったのだろうか。
際限なく沈んでいきそうになる意識の中で、二木は息を呑んだ。
気まずそうな顔を浮かべる皆を見回し、知らず乾いていた唇を舐めてから話し出した。
「最近、こういうことが続くんだ。俺のことが忘れられていく。確かに話した筈のことが忘れられるし、取引先のわりと仲良くしていた人も、一瞬俺のことを初対面みたいな顔で見るんだ。そこまで深く考えてなかったけど……お前達もそうなら、何か、あるのかな」
「忘れられる……?」
鈴木が繰り返すのに、二木は違和感を覚えていた最近の出来事を語った。
周りの喧騒とは対照的に、二木達の一間はシンと静まり返った。
「……なんか、きっかけ、とか」
進藤が切れ切れに言うのに、二木は首を振った。
ただ、変わらぬ毎日を送っていただけだ。朝起きて仕事に行き、帰って寝る。休みには出掛けたり、家でダラダラと過ごしたり。
きっと、世の中の多くの人間がそうして日々を過ごしている。
二木は、ふと思いついて、ふっと笑った。
「思い当たることはないけど、知らない内に何かしてたのかもしれないな。俺、大雑把だし」
つい愚痴っぽく言うと、羽鳥が身を乗り出して首を振った。
「そんなことないって。悪いように言えば大雑把とも言えなくもないけど、俺らはそういう所に助けられてきたんだって、なぁ?」
羽鳥が問いかけると、皆一様に頷き返した。
「なんか、お前をハブるみたいなことしちゃった俺らが言えることでもないかもしれないけど、色々助けられてきたよ。あの高三の時もさ──」
佐藤が真剣な顔で昔話を始める。
それは、二木がちゃんと存在している、二木の記憶と乖離のない昔話だった。
自分は確かに友人の過去に存在していて、そしてこの関係を続ける意思が友人達にはあるのだと、二木はそう感じて内心でホッと息を吐いた。
昔話から花が咲き、様々なことを話し合って、結果いつも通り盛り上がった忘年会の帰り、それぞれの道に分かれていく時、羽鳥が言い出した。
「お前のこと忘れたりなんかしないって証明する為に、明日連絡するよ」
あ、俺も、と皆が笑顔を浮かべる。
「いや、なんか悪かったな」
「それは、俺達の台詞だって。なんかその忘れられるってやつ、原因調べたりするんなら俺らも協力するし。協力って言っても何が出来るのか判んねぇけど。なんか超能力? 的なやつか?」
早坂が言うと、皆首を傾げてから、その仕草に笑い合う。
「おう、その時は頼むわ。まぁ、今日は楽しかった。またな!」
二木が手を振ると、皆それぞれ手を振って道を分かれていく。
楽しく飲んだお陰で足取りは軽い。
きっと、偶然嫌なことが重なっただけだ。多少忘れられたとしても、また思い出して貰えばいい。相手の中から自分という者が全て消え去ってしまう訳ではないのだから。
次の朝。
休みの日は昼近くまで寝ていることが多い二木は、枕元に置いていたスマートフォンの画面を覗いた。
時刻は十一時五十分。
そろそろ起きようと、体を起こす。
──そういえば、連絡くれるって話だったけど、アイツらも寝てんのかな。早坂は仕事だって言ってたっけ。
顔を洗い、鏡を覗く。
見慣れた顔が静かに見つめ返してくる。
久々に友人達に会えたからか、何処か感傷的な気分になった二木は、雑誌などを詰め込んでいる棚から卒業アルバムを取り出した。
随分前に卒業アルバムの話になり、実家から持ってきたまま棚の隅に眠ってたものだ。
──こういう風にアルバムって眺めるもんなのか。
パラパラとページを捲り、まだ幼さの残る友人達の顔写真を見ながら小さく笑う。当時の記憶が蘇り、感傷的な気分も相まって何処か胸が苦しくなる。
ある写真で目を止め、僅かに顔を歪めた。
──友香。
進藤が長いこと想いを秘めていたという友香。近いうちに食事に行くという。
──次に友香に会うのは、進藤との結婚式だったりしてな。
ページを捲るうち、違和感に手を止めた。
──あれ、俺の写真って何処だっけ。四組だよな。
確かに四組のページを開いたが、自分の写真を見つけられない。名前順に並んだ写真を、丁寧に一人目から確認していく。
相川……会田……稲垣……。
そうして自分の名前の辺りまで過ぎた所で、ハタと気が付いた。
──名前。
自分の名前が思い出せなかった。そんな筈はない。寝起きとはいえ頭はハッキリとしている。
スマートフォンを取り上げる。
まだ誰からも連絡はない。アイコンの横に並ぶ自分の表示名は『S・N』。
S・Nと唱えながら、アルバムを捲る。
──居ない。何処だ……俺は、何処だ⁉
アルバムを放り出し、鏡に向かう。
見慣れた顔を確認しに。
鏡を見る。
「……誰だ?」
そこには見知らぬ顔があった。戸惑いに顔を青褪めた、見知らぬ顔だった。
「俺は……誰だ?」
男は、絶望の滲んだ声で、そう呟いた。




