第50話:軍師の休息と新たな盤上
次に僕が目を覚ました時、鼻をつく悪臭は、清潔なリネンの香りに変わっていた。
全身を包むのは、硬い石畳ではなく、雲のように柔らかい、高級なベッド。
窓から差し込む柔らかな日差しが、部屋を優しく照らしていた。
「……ここは?」
《アシュフォード公爵家の、賓客用の寝室です、マスター》
僕の脳内に、あいりの、落ち着いた声が響く。
《あなたは、丸一日、眠り続けていました。極度の肉体疲労と、精神的消耗からの、回復プロセスです。バイタルは、完全に正常値に戻っています》
「そうか……丸一日……」
僕は、ゆっくりと、体を起こした。
不思議なほど、体は軽かった。公爵家の優秀な治癒魔術師が、治療を施してくれたのだろう。
コン、コン。
控えめなノックの音と共に、エリナが、部屋に入ってきた。
彼女も、すっかり元気を取り戻したようで、その顔には、血の気が戻っていた。
「トオル様! お目覚めになられたのですね!」
彼女は、僕のベッドのそばまで駆け寄ると、心の底から、安堵したような表情を浮かべた。
その瞳が、少し、潤んでいる。
「ごめんなさい……私、また、あなたの足手まといに……」
エリナは、俯いて、唇を噛みしめた。
金庫室での、最後の攻防。彼女は、自分が、力を使い果たして倒れたことを、悔いているのだろう。
「何を言ってるんだ」
僕は、彼女の頭に、そっと、手を置いた。
「君が、あの化け物を、命がけで引きつけてくれたから、僕は、勝機を見つけることができた。君がいなければ、僕たちは、今頃、あの冷たい金庫室の中だ。君は、僕の、最高のパートナーだよ」
僕の、心からの言葉。
それを聞くと、エリナは、顔を上げて、僕の目を、まっすぐに見つめた。
その瞳から、大粒の涙が、ぽろぽろと、こぼれ落ちる。
しかし、その表情は、悲しみではなく、どうしようもないほどの、喜びと、そして、僕への、深い信頼に満ちていた。
その日の午後、僕は、アシュフォード公爵の書斎に、呼ばれていた。
公爵は、机の上に、あの黒い帳簿を広げ、厳しい顔で、それを眺めていた。
「……トオル殿。君が、命がけで持ち帰ってくれた、この帳簿。その中身は、我々の想像を、はるかに超えるものだった」
公爵は、静かに、語り始めた。
「違法な武器の密輸、禁じられた魔道具の取引、そして、敵国である帝国への、横流し……。これは、もはや、ただの不正ではない。国家に対する、反逆行為だ」
その言葉の重みに、僕は、息を呑んだ。
ゼノス宰相の闇は、僕たちが思っていたよりも、ずっと、深く、黒い。
「しかし」
公爵は、続けた。
「この証拠だけでは、奴を、断罪することはできん。奴は、王宮と、軍の内部に、あまりにも深く、根を張りすぎている。下手に動けば、逆に、こちらが、反逆者の汚名を着せられ、潰されるのがオチだ」
「では、どうすれば……」
「奴を、白日の下に晒すための、『舞台』が必要だ。誰にも、文句を言わせることのできない、絶対的な、舞台がな」
公爵は、窓の外に広がる、王都の景色を見つめながら、言った。
「――一月後、この王都で、『王立魔法大会』が、開催される」
王立魔法大会。
それは、国王陛下の御前で、国中から集まった、腕利きの魔術師や、騎士たちが、その技を競い合う、この国、最大の祭典だ。
「この大会で、優勝すること。それは、ただの栄誉ではない。国王陛下への、絶対的な発言権と、民衆からの、熱狂的な支持を、意味する。その力を手にして初めて、我々は、この証拠を、突きつけることができるのだ」
そして、公爵は、僕に向き直り、その鋭い瞳で、僕を見据えた。
「トオル殿。君に、再び、力を貸してほしい。この大会で、我がアシュフォード家を、優勝へと導くための、『軍師』として」
僕たちの、新たな戦いの舞台が、決まった。
それは、薄暗い、遺跡や、下水道ではない。
王都中の人々が見守る、光り輝く、闘技場。
僕たちの、本当の戦いは、まだ、始まったばかりだった。




