第49話:泥まみれの凱旋
冷たい水が、意識を現実に引き戻す。
悪臭が鼻をつき、全身が、ずぶ濡れの不快感に包まれていた。
「……エリナ!」
僕は、腕の中で意識を失っているエリナを、必死に抱きかかえる。
彼女の体は、冷え切っていた。
《マスター、落ち着いてください。まず、エリナの生命反応を確認。バイタルは安定していますが、極度の疲労と、マナの枯渇状態です。一刻も早く、安全な場所で休息させる必要があります》
あいりの冷静な声が、パニックに陥りそうな僕の思考を、正常に戻してくれる。
《次に、証拠物件の確保を。その帳簿が、我々の唯一の戦果です。水濡れによる損傷を、最小限に抑えてください》
僕は、言われるがまま、懐から、あの黒い帳簿を取り出した。
そして、濡れていない、服の内側の布で、それを、何重にも、きつく包み込む。
「……これから、どうするんだ」
僕は、暗闇が広がる、下水道の中を見回しながら、尋ねた。
《敵は、我々が金庫室で死んだと思っているか、あるいは、この下水道に逃げ込んだと読んで、捜索隊を差し向けてくるでしょう。どちらにせよ、ここに長居はできません》
あいりは、僕の視界に、下水道の、詳細なマップを表示した。
《アシュフォード公爵の屋敷まで、最短ルートを算出しました。しかし、道中には、危険な魔物が生息している可能性も高い。戦闘は、絶対に避けてください。今の我々に、戦う力は残されていません》
僕は、エリナを、再び、背負い上げた。
ずしりと重い。しかし、その重みが、僕に、前に進む力を与えてくれた。
僕たちは、あいりのナビゲートに従い、暗く、不気味な下水道を、進んでいく。
時折、遠くから、不気味な鳴き声が聞こえたり、水面が、何者かによって、不自然に波立ったりした。
その度に、僕たちは、息を殺し、物陰に隠れた。
「……なあ、あいり」
歩きながら、僕は、尋ねた。
「あの、声の主……。僕たちのことを、『天才軍師』と呼んだ、あの男は、一体、何者なんだ?」
《……分かりません》
あいりの答えは、意外なものだった。
《彼の戦術は、私の予測を、完全に上回っていました。彼は、私の論理的な思考そのものを読み、それを逆手に取った。まるで、チェスで、数手先、いや、数十手先を読んで、罠を張るように。彼は、私と同じ、あるいは、それ以上の、『軍師』です》
あいりの声には、初めて、自分以外の知性に対する、警戒と、そして、かすかな好奇心が、混じっていた。
ゼノス宰相は、僕たちと同じような、切り札を、隠し持っていたのだ。
どれくらい、歩いただろうか。
僕の体力も、もう、限界に近づいていた。
その時、あいりが、言った。
《マスター、前方、50メートル。行き止まりです。しかし、その壁の上部に、隠された、出口があります》
僕たちは、壁の前にたどり着く。
そこには、錆びついた、鉄の梯子が、壁に、かかっていた。
僕は、最後の力を振り絞り、エリナを背負ったまま、その梯子を登る。
そして、重い、マンホールの蓋を、押し上げた。
そこは、見覚えのある、場所だった。
アシュフォード公爵家の、広大な庭園の、隅にある、倉庫の中だった。
公爵が、万が一のために、用意してくれていた、秘密の脱出ルートなのだろう。
倉庫から出ると、屋敷の者たちが、駆け寄ってきた。
彼らは、僕たちの、泥まみれの姿を見て、驚きの声を上げたが、すぐに、僕たちを、屋敷の中へと、運び入れてくれた。
そして、僕は、アシュフォード公爵の前に、再び、立っていた。
「……よく、戻った。トオル殿」
公爵は、僕の、ずぶ濡れの姿を見ても、何も言わずに、ただ、その労をねぎらってくれた。
僕は、懐から、大切に守り抜いた、あの帳簿を、取り出した。
「……これが、証拠です」
僕が、その帳簿を、公爵に手渡した、その瞬間。
僕の意識は、ぷつりと、途切れた。
限界を超えた体は、もはや、立っていることすら、許してはくれなかった。




