第40話:虚空の猟犬
グルオオオオオオオッ!
漆黒の魔狼――虚空の猟犬が、僕たちに向けて、威嚇の咆哮を上げた。
その風圧だけで、足元の石畳がビリビリと震える。
双頭の竜とは、また質の違う、純粋な殺意とプレッシャー。僕の体は、恐怖で完全に竦み上がっていた。
「トオル様、お下がりください!」
エリナが、僕をかばうように前に出る。
その手にした剣は、震えていなかった。幾多の死線を乗り越え、彼女は、もはやただの駆け出しの冒険者ではない。一流の戦士としての風格すら、漂わせていた。
《マスター、冷静に。相手のステータスをスキャン……いえ、解析不能です。しかし、その行動パターンから、弱点を推測することは可能。戦闘を回避するという選択肢は、もはや存在しません。やるしかありません》
あいりの声が、僕の思考を現実に引き戻す。
そうだ。僕が、しっかりしなければ。
僕は、司令塔なのだから。
「エリナ、奴は速いぞ! 正面からの攻撃は避けろ!」
「はい!」
エリナは、僕の言葉に頷くと、床を蹴って、虚空の猟犬の側面へと回り込もうとする。
しかし、虚空の猟犬は、エリナの動きを完全に読んでいたかのように、その進路を塞ぐ。
その動きは、まるで、影が滑るかのようだ。
「くっ……!」
エリナの剣が、虚空の猟犬の漆黒の鎧に叩きつけられるが、甲高い音を立てて弾かれるだけ。傷一つ、ついていない。
逆に、虚空の猟犬の鋭い爪が、エリナの肩を掠めた。
「きゃっ!」
エリナの鎧が、紙のように切り裂かれ、鮮血が舞う。
「エリナ!」
《マスター、落ち着いて! 傷は浅い! しかし、このままではジリ貧です!》
あいりのリアルタイム分析が、僕の視界に表示される。
敵の攻撃速度、リーチ、そして、次に来るであろう攻撃の予測。
それは、未来予測ではない。目の前の敵の、一挙手一投足を、超高速で分析し、導き出した、最適解。
「エリナ、後ろに三歩跳べ! 次は、尻尾による薙ぎ払いが来る!」
僕の叫びに、エリナは、完璧なタイミングで反応する。
彼女が後ろに跳んだ、そのコンマ数秒後。
鋼鉄の鞭のような尻尾が、彼女がさっきまでいた場所を、薙ぎ払った。
「はぁ……はぁ……」
エリナの額に、汗が浮かぶ。
僕の指示と、彼女の剣技。その二つが、かろうじて、この絶望的な戦いを、成り立たせていた。
しかし、これでは、勝てない。防戦一方だ。
何か、何か、この状況を打開する一手は……。
僕の脳裏に、あの双頭の竜との戦いが、フラッシュバックする。
僕自身の意志で、放った、あの光。
「あいり! あの時のように、光で目くらましは……!」
《無意味です! この魔物は、視覚ではなく、マナの流れと、匂いで我々を捉えています!》
僕の浅はかな考えは、一瞬で否定された。
くそっ、どうすれば……!
その時、僕の視界の隅で、エリナの胸元にあるペンダントが、淡く、光を放っているのが見えた。
そうだ。あれしかない。
あれが、僕たちの、唯一の希望だ。
「エリナ!」
僕は、叫んだ。
「そのペンダントの力を、使うんだ!」
「え……? でも、私には、まだ、この力を、うまく……」
「大丈夫だ! 僕が、あいりが、君をナビゲートする! 君は、ただ、僕の言葉を信じて、力を解放することだけを考えろ!」
僕の力強い言葉に、エリナは、一瞬、ためらったが、すぐに、覚悟を決めた顔で、頷いた。
《マスター、危険な賭けです。しかし、成功すれば、勝機はあります!》
あいりの声が、僕の決断を後押しする。
「エリナ、ペンダントを強く握り、僕が言う言葉を、心の中で唱えろ!」
僕は、あいりが導き出した、古代の「聖女」が使ったとされる、マナを増幅させるための、祈りの言葉を、エリナの脳に、直接、送り込んだ。
エリナは、ペンダントを握りしめ、目を閉じる。
すると、彼女の体から、黄金色の、神々しい光が、溢れ出した。
《マスター、今です! 彼女の解放したマナを、剣に収束させます! 詠唱は、『ホーリー・ブレード』!》
「――ホーリー・ブレード!」
僕の叫びと同時に、エリナが、目を見開いた。
その瞳は、黄金色に輝き、その手にした剣は、まばゆい光の刃と化していた。
彼女は、虚空の猟犬に向かって、その光の剣を、振り下ろした。




