Yesterday
父の書斎からはドアーズの「LIGHT MY FIRE」が聞こえてきた。イントロのピアノの音の流れが印象的だからすぐにそれと分かった。このイントロを作ったピアノ担当の男はジョン・コルトレーンを意識した、とか言ってたが僕はそうは思わない。
「またお父さんたらレコードの音おっきくして」
台所で食器を洗いながら母が迷惑そうに言う。母が許せないのはレコードの音じゃなくて、食器を洗ってくれないことに対しての苛立ちみたいだった。
「久し振りに休みみたいだし、たまにはいいんじゃない?自分の世界に浸らせてあげれば」
父は警視庁に勤めているそこそこ地位の高い人だ。担当は海外からの有名訪問者を警護することで、忙しくなると何日も家に帰らない日が多くなる。
「まったく。洗濯物ぐらい干して欲しいわよ」
それきり母はまたガチャガチャと食器を洗い出した。僕は税金控除の関係で父に在学証明書を渡す用事があったことを思い出し、自分の部屋のバックからそれを取り出し、書斎に向かった。
静かに扉を開けると父は長イスに腰を深く掛け、目を固く閉じていた。寝ているのだろうと思い物音を立てないように証明書の入った封筒をテーブルの上に置いた。気配を感じたのか、父は目を薄く開いた。
「お、どうした?」
「頼まれてた在学証明書もらってきたよ」
「おお、すまんな」
父は上半身を起こし封筒を手に取って表紙の文字を確かめた。
「寝てたの?」
「ちょっとな、このところ忙しいもんで。ハンブルクから親善大使が来てて、やっと帰ったところなんだよ」
「ハンブルクねぇ」
僕は親善大使のことより、回っているレコードの方が気になった。
「警視庁に勤めてる人間がドアーズなんて聞いてていいの?」
僕が冷やかすと、父は笑って、
「昨日の帰りにレコード店に寄って買ったんだけど、詩がいいんだよ。なかなかシュールで。まあお前には英語の歌詞の良さなんて分かんないだろ」
父は有名大学の英文科卒業で英語は堪能だった。だから例の部署に配属されたのだ。
「ジョン・レノンが殺されたんだってな」
「うん…ニュースで見たよ」
父と僕の間に沈黙が流れた。今日もテレビはその事ばかり放映している。僕は父に次に発言すべき言葉を慎重に選んでいた。それは父が大のビートルズ好きだと言うことを知っていたからだ。
「ジョンの曲かけないの?。追悼記念に」
「うーん。何か嫌じゃないか?」
「どうして?」
「だって、みんな忘れかけていたのに、死んだとたんにファンづらするなんておかしいだろ」
「でも、父さんだって忘れかけてたんじゃないの?」
「そうだったかもしれないな」
父は小さく笑うと、イスから立ち上がり棚を開けた。中にはたくさんのレコードがしまってある。数ある名曲の中から、一体父はどのレコードを出すのだろう。
「これにしよう」
父はレコードを一枚引き抜き、ドアーズのLPと入れ替えた。僕は流れてくる曲を楽しみにして、あえてレコードの表紙は見ず、耳に集中しようと目をつぶり壁により掛かった。スイッチを入れると、父も元の長イスに腰掛けた。流れてきたのは優しくギターをはじきながらボーカルが一気に高音に駆け上がる「Yesterday」だった。しかし僕は、はたと思って父を見た。これってポールの曲でしょ?と父に投げ掛けようと思ったが、父は眉間に皺を寄せ深く考え込んでいる風だったので僕は口ごもった。きっとあの時のことを思い出しているんだろう。酒に酔うと父がいつも僕に語り出すビートルズとの出会いを。
それこそ昨日のことのように。
「武道館にロックバンドが来るっていゆうんで、日本は大きく揺れたよ。まず保守的な人間は嫌がってたね。日本の伝統的な武道場でロックなんて罰当たりだって。『BEATLES GO HOME』なんて横断幕を掲げて、デモをしてたな。当時は学生運動も混じってたからひどい騒ぎだった。自由や愛や平和の象徴からビートルズを聴く学生デモもいれば、ビートルズは文化を汚す悪者だと嫌う連中のデモもいる。要するにビートルズなんてただダシにつかわれてるだけなんだけどさ。
俺の部署はそりゃあ忙しかった。何千何万という警察官を統治して、警察の威信をかけてでもビートルズと国民を守らなきゃならなかったんだから。何かあったら国際問題にだってなりかねないし、当時はケネディ暗殺なんかもあって、情勢はあまり良くなかったからな。しかし俺は正直なところビートルズなんて興味はなかったし、いい印象も持っていなかった。警察の人間は剣道やったり、書道したりする国粋主義の人間が多かったからな。英語がしゃべれるといっても、俺も海外文化を毛嫌いするその一人だった。
あるとき会議の場で研修の為にビートルズのコンサートの映像を見せられたんだよ。びっくりしたね、あの群衆のファンの狂乱には。まるで自分の声を彼らに聞いて欲しいように叫ぶんだ。そして自分を押さえきれずに突進していったり。見てるみんなは苦笑してたね。上役は目を丸くしてポカンとしてたな。映像が次のフィルムに移った時のことだ。一人だけギターを腕つ手が逆の男がいて、そいつ以外のメンバーは舞台袖に引っ込んだんだ。小さなスポットライトを浴びて、一人中央に立ってね。ギターをぽんぽんと優しくはじきはじめて歌うんだよ。それが良い歌詞なんだ。悲しい歌でさ。思わず隣にいた若い男に題名を聞いたよ。『Yesterday』だって。帰りに初めてレコードショップに行ったよ。でも俺はレコードの機械なんて持ってなかったから試聴だけした。何度もね。ああ良い曲だなって。口惜しかったけど、ビートルズが愛される理由がよく分かったよ。
そしてとうとうビートルズが羽田にやって来てね。ハッピを着てて、なかなか感じの良さそうな青年達だったね。何台もの車で彼らの乗った車を警護の為に後からついていくとその先々の交差点でファンが集まってて、悲鳴が聞こえるんだ。日本でもやっぱりすごいな、と思った。それは俺たち警察の不安を煽ったよ。開演日になると武道館の周りはやはり群衆が渦巻いてたね。子供が日に何百人も補導されて、機動隊の装甲車まで備えられてた。それから武道館内は騒いだりする人間を出さないように座席から立つことを禁止にしたんだ。そして少しでも変なことをしようものなら写真を撮った。威嚇だな。そういえば武道館のコンサートには、ドリフターズも前座やってたんだぜ。司会者が『続いては、ザ──』と言ったとたん観客がわーっとなってね、司会者の声も、演奏してる音なんかも聞こえなくなった。でもすぐに収まったよ。ザ・ドリフターズをザ・ビートルズと勘違いしてたって。
ビートルズが出て来ると、観客の反応は凄まじかったね。一発目は『ROCK AND ROLL MUSIC』。まさに日本の60年代の自由さを開拓する象徴だったね。それから途中で例の左利きのギター弾きが『Yesterday』を歌ったんだ。前に見た映像に比べて随分手を抜いていたようにも感じたが、良い曲だった。つい聴き入ってしまったね。それから観客やファンに対して怒りを感じたね。お前等の中にこの歌詞の本当の良さが分かるヤツが何人いるか、何人のヤツが英語を日本語のようにすんなり読解して聞き取れているかってね。その時からだ。よし、お前等よりも理解のあるファンになってやろう、ビートルズの本当の素晴らしさを感じてやろうって意識したんだ。日本公演は無事に終わったよ。俺たち警察の、特に下の人間が体張って頑張ったおかげで、大きな事件にならなかった。ビートルズと関係者にも嫌な思いをさせなくて良かったしね。そういえば、アルバムの『リボルバー』っていう題名はポールが日本で警官が身に付けていた銃を見て思いついたものらしいぜ。きっと俺たち警備への恩返しだろうよ」
レコードの針が空を擦ると、ざーという雑音も消えた。父は顔を上げて僕を見た。
「この曲はさ、ジョンが唯一認めた歌なんだよ(その意味を僕は暫くして、ジョンの解散後のソロアルバム『イマジン』の『HOW DO YOU SLEEP?』を聴いて理解した)。最後にジョンに聴かせる歌はかつての最高のパートナーの最高の作品を送ってやりたくてさ」
父は涙を目に溜めて熱く語ったが、そこにはジョン・レノンへの真の悲しみは見られなかった。僕等と彼らの住む世界が違うから実感がないのだ。ジョンは死んだけれど、レコードは潰れずに残っているからだ。ジョンが死ぬことよりもレコードが潰れて曲が聞こえなくなる方が悲しいのだ。父はビートルズにすっかり染まってしまって気づいていないかもしれないが、僕はそこに存在する音楽の魔力に不気味ささえ感じていた。ジョンを殺した犯人は父さんだったかもしれないのだ。
「ジョンもきっと天国で喜んでくれてるだろうね」
僕は父に話を合わせようと乗った。しかし父は笑いもせずに言った。
「いや、ジョンはそんなものは信じないよ」
書斎を出て、自分の部屋に戻る途中、「I SAW HER STANDING THERE」が聞こえてきた。今日一日で一体何曲ビートルズを制覇するつもりなんだろう。
父が守ろうとした彼らの命が一つ消えてしまった。皮肉な話だ。
(完)