8 現在(3) ほんの少し未来
「もうこれ以上貴方と話すことはなさそうね」
彼女は、そう言って椅子から立ち上がった。もうすっかり日は傾き切っているので、パトリシアの顔にはもう光は当たらなかった。
「ごきげんよう。もう二度と会うこともないでしょう」
「どうぞお元気で。………母上」
パトリシアの言葉に、彼女の顔から淑女の笑みが掻き消えた。
彼女は血縁上は伯母だが、戸籍上では母になっている。今まで一度もそう呼んだことがなかったが、思っていた以上にスルリと言葉が紡がれた。ずっと、血縁上の母よりも母らしかった彼女。きっと嫌悪感を示されるだろうが、嫌悪でも彼女の記憶に深く刻まれたかった。
彼女は表情を消して、一歩ベッドに近寄った。
もしかしたら怒りのあまり叩かれるかもしれない。それならそれで良いとパトリシアは覚悟を決めたが、彼女は妙に長い間そのまま見下ろしている。一分の隙もなく纏められた艶やかな黒髪に、透明感のある青い瞳。自分と似たところが一つも見つからない。かつて学園で遠目に見た異母兄は、彼女に良く似た黒髪で、それが視界の端に映る度に理由も分からず心がざわついた。
彼女がゆっくりとかがみ込んで、手を伸ばして来た。そして、そっとパトリシアの右肩に触れた。その肩から先が無くなってしまった場所を、優しく慈しむように。初めて触れられたその手は、驚く程小さくて華奢だった。
「ごめんなさいね」
低く呟いた彼女の声は、聞いたことがない程細く弱々しいものだった。本当に目の前の彼女は本物なのだろうかと、パトリシアが目を見開く。その視界の先で、彼女の青い瞳から一粒、光るものが落ちて、パトリシアの着ているものの肩口に小さな染みを一つ作った。
何か耳元でカサリ、と音がしたと同時に、彼女はサッと立ち上がって、そしてもうパトリシアを一瞥もしないまま病室を出て行った。
彼女がいなくなった病室は、残り香だけがそこに彼女が確かにいた現実を静かに告げていた。
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しばらくパトリシアは呆然としていたが、急に涙が溢れて来て顔をクシャリとさせる。
唐突に、彼女の最後の言葉の意味を理解してしまった。
最後まで分からないままだった、偽の指導官にお膳立てをした人物。
それはきっと異母兄だったのだ。
誰もがパトリシアを殺そうとはしていなかった中で、唯一本気の殺意を向けて来た。彼女はそれに気付いたのだろう。彼女の全てを教え込まれた異母兄だから、彼女も真っ先に理解したのだ。だから、全て自分が泥を被って、グレッグ領と伯爵家を異母兄に残す為に去って行くのだ。
(最後まで、貴女の息子にはなれなかった…)
当然分かり切っていたことなのに、それがひどく悲しくて、パトリシアは声を上げて泣いた。多分それは、記憶のある中では初めてのことだった。
やがて泣き疲れたパトリシアは、枕元に何かの数字が書かれたメモが置いてあったことにやっと気付いた。
彼女の手蹟で書かれたメモは、数字が並んでいるだけだったが、きっと何かの意味があるものだと思って長らく大切に保管していた。
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それから数年後、その数字がギルドの口座番号だと教えられて確認したところ、それはパトリシア名義の口座で、幼い頃処分されていたグレッグ伯爵からの贈り物を売り払った金額がそのまま入金されていた。
それがその時には既に亡くなっていた彼女の残してくれたものだと知って、パトリシアは記憶にある人生2度目の声を上げて泣く行為をギルドのど真ん中でやらかしたのだった。
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結局、アレクサンダーは事実を公表してパトリシアが罪に問われるのを良しとせず、そのまま自ら不名誉を受けると承諾した。真実は婚約者にも告げられたが、気丈にも「今は不名誉を負ったとしても、必ずそれを払拭出来る騎士になると信じている」と言い切って彼女の方から背を押したそうだ。
パトリシアもこうなっては彼らの気持ちを素直に受け取ることにして、グレッグ伯爵家から縁を切って、リハビリ後に「第五騎士団」に入ることになった。嫡男ではないとは言え片腕両足を失った令息をあっさり切り捨てたとして、グレッグ伯爵家の評判は落ちてしまったそうだが、そこは優秀な異母兄がどうにかすればいいとパトリシアは一切フォローを入れなかった。
「パトリック・ミスリル、ですか」
「何だ、その嫌そうな顔は」
「嫌と言いますか…また貴族になると思っていなかったんで、率直に申し上げて面倒くさくて厄介だと思っただけです」
「遠回しに嫌と言ってるようなものだろうが」
その言い回しが既に貴族だ、とブツクサ言いながら、レナードはサインを入れて返された書類を確認した。
その書類には「養子縁組承諾書」と書かれている。
「その顔と魔力量で平民だと言うと、却って厄介ごとを呼び込むと言っただろうが。何らかの罪を犯して平民落ちした貴族にしか見えん。痛む所だらけの腹を探られたくはないだろう」
「それは、そうなんですけどね…」
パトリシアは退院後、グレッグ伯爵家と縁を切ると同時に彼はレナードの遠縁の養子に入ることになった。彼の魔法と魔力量は、体が不自由でもいくらでも使い道はあるし、多少成長したと言ってもまだまだ未成年の美少女と言って通用する容姿だ。それが平民となればちょっかいを掛けて来る者は間違いなく存在する。
そこでレナードが、侯爵家で継ぐ者がいなくて幾つも余らせていた爵位の一つを継がせる形で養子縁組をしたのだ。領地のない子爵位ではあるが下位貴族でも当主ともなれば、ある程度身を守るくらいのことは出来るだろうし、縁戚に侯爵家がいるのであれば後ろ盾としては充分すぎる。
「何か、団長に恩を売りつけられると後々扱き使われそうで…」
「そこは、否定しないが」
「やっぱり…」
女性名のパトリシア改め、男性名にしたパトリックは深々と溜息を吐いた。親しい者からの「パット」呼びは変わらないように配慮してくれたのだろう。
「我が家には似たような事情で縁戚になった人間が…8人?くらいいるからな。みんなよく働いてくれる」
「高位貴族はこれだから…」
渋い顔でパトリックが出された紅茶を飲んでいると、更に追加して書類が前に置かれる。
「これは?…魔動義肢使用嘆願書?なんです、魔動義肢って」
「魔力で操作可能な義肢だ。まだ開発途中の魔道具でな。試作品を使う人間を捜していて、お前の話をどこかで聞いたらしくて送りつけて来た」
紅茶のカップを少々勢いよくカチャリと置いてから書類を手にする。まだ利き手ではない左手だけで色々済ませるのは慣れていないため、動きがどうしても雑になる。
そこには、複数の属性の魔石を利用した義手の説明書があった。自身の魔力を利用して義手内部の魔石に動作補助をしてもらい、本物の手と変わらぬ動きが出来るようになる、と書かれていた。
「まだ試作段階なので、使用する魔力量の消費も多く操作も煩雑らしく、問題は山積みなものだそうだ」
「僕をこの実験台にしたいと?」
「有り体に言えばそうなるな。それは義手だが、義足の試作品もある。出来ればお前のような両方同時使用する人間の詳細を調べたいそうだ」
パトリックは義手の細かい仕様の書かれた設計図に目を落とした。騎士よりも魔法士としての勉強を長くしていたので、魔道具の構造なども多少は学んでいる。専門ではないのでそこまで詳しく読み取れないが、随分と繊細で複雑な魔道の回路が引かれているのは分かった。
「これは確かに無駄に魔力食いますね。回路も繊細だから魔力操作を誤るとすぐに壊れそうだ。第一、魔石の使用量が多い。単純にすごく重いですよ、これ」
「さすがに多少は分かるようだな。お前が実験に参加してくれると開発者…というか、周辺の助手達は泣いて喜ぶと思うが。何せ開発者が試すと言って自分の体を切ろうとするらしくてな。まあ、断って構わんぞ。これに頼らなくてもお前の体は聖女殿が元に戻すことになっているからな」
「再生魔法ですか?そんな高額な治療費…はっ!それを僕の体で支払わせようと養子縁組を…!」
「誤解を招く言い方をするな」
もともと瀕死の重傷を負わせる予定だったので、その治癒を聖女が担当することになっていた。その為に最初から腕の一本や二本は犠牲になってもらう予定だったとレナードに告げられて、パトリックは思わず顔が引きつった。
「最初からお前の怪我は全て治療するという契約だったしな。別に再生部位が増えたところで追加料金は発生せんよ。まあ聖女殿から激しく文句はいわれるだろうが」
「激しく文句を言う聖女様ですか」
「お前、聖女殿をなんだと思ってるんだ。聖魔法が強いだけのただの人間だぞ。食事を粗末にしたらレードルでしばいて来る食堂のシェフと同じだ」
「はあ…そうですね…認識をアラタメマス」
パトリックは改めて魔動義肢の設計図に目を落とす。もっと高価でも魔力が通しやすい素材であればもう少し回路が減らせるのだろうが、使っている素材は一般的に手に入りやすいものばかりであることに気が付いて、この開発者が目標としているところを察して思わず微笑んだ。おそらくこの魔動義肢は、最終的に平民でも手が届くくらいのところまで落とし込むことを想定しているのだろう。
「…再生魔法ではなく、こちらを使って第五で仕事をすることは可能でしょうか」
「それはお前次第としか言えんな。これがどこまで実戦向きになるのか、そしてお前がそれを自分の体と寸分違わぬところまで使いこなせるようになるのか。それだけだ」
表向きの、現役の騎士達の後方支援をする仕事であれば問題はないだろう。だが、彼は裏の「影」として期待されている身だ。そちらの精度が下がるのであれば、認められることはない。
「再生魔法と合わせてリハビリと実地訓練込みで3年程度はお前の教育に充てる予定ではいる。そこから考えて…1年くらいは義肢を試してみるくらいは余地をやろう」
「ありがとうございます!」
「ただし、それが使えないとしたらその後の訓練は覚悟しておくように」
パアッと明るい顔になってお礼を言うパトリックに、レナードは少々意地の悪そうな笑顔でそう言った。
「それでも嬉しいです。パパ、大好き」
「娘と思い込みさえすれば、まあ及第点だな」
「チッ」
意趣返しとばかりに「パトリシア」の顔で小首を傾げながら甘い声で仕掛けてみたが、レナードにはサラリと躱されてしまった。パトリックは表情を一変させて舌打ちをする。そのクルクル変わる表情に、彼には気付かれない程度にレナードは少しだけ頬を緩ませたのだった。
<第1部・了>




