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「これでも、学園では毒草に付いても学んだんですよ。かつて貴族女性が好んで摂取したという、若さを保つ毒花の蜜、とか」
「今は禁制となった品のことかしら。わたくしの母の世代ではずいぶん流行していたと聞いているけれど。禁制になっても影で手に入れようとした夫人は多かったようね」
一時期、貴族女性の間で肉体の老化を遅らせる効果を持つと言われる蜜を使った砂糖菓子が流行した。蜜自体甘みが強く、林檎の花のような香りがすることから手軽な嗜好品としても当時は誰もが一度は口にしていた程だった。
しかし毒花から採れるそれは、自らの肉体に大きな負荷をかけて成長を遅らせる為に一時的に老化が止まったようになるだけで、その効果と引き換えに無惨な死を誘発すると分かり禁制となった。だが禁制となった後も、自らの命と引き換えにしてでも若さを求めて秘密裏に蜜を入手しようとする者は絶えなかったと言われている。
かつて父が訪ねて来る度に、手ずから食べさせられていた特別な砂糖菓子。それは花の香りがして、舌が痺れる程甘い味がした。寝る前に乳母が差し出してくれた甘いミルクも、同じ花のような香りがしていた気がする。
「その蜜の唯一の解毒剤になると言われている薬草が、別邸の庭に群生していましたよ。あれは口が曲がりそうな程苦いの、ご存知でした?」
「雑草を口にするなど、下賎な者はこれだから」
「伯母上が紹介した侍女が、毎日僕に飲ませていたんですよ。おかげで好き嫌いが無くなりましたが、あれはひどい嫌がらせでした」
「ふん。死ななければ何をしても良いと申し付けていたけれど、存外捻りのない単純な嫌がらせだこと」
扇で隠されて彼女の目元しか見えず、眉間の皺がますます深くなっているので不機嫌さに拍車がかかっているようにしか見えなかった。けれど彼女のその青い目は、青空のように澄んで美しく見えた。
「ずっと、僕は貴女に守られていたことに気が付いたのは、ずいぶん後でした。それまでは、僕は伯母上に憎まれていると……あんなに分かりやすかったのに」
「貴方が死ぬとあれが煩くなるから、せいぜい死なない程度にしていただけよ。わたくしに好かれてるとは思わないことね。気色が悪い」
学園に入学して、犯罪の歴史、毒や呪詛などに詳しかった教師に師事して得た知識で、幾度心が折れそうになったか知れない。
父のグレッグ伯爵が贈っていたドレスや靴は、ふんだんにレースなどが使われた可愛らしいものだった。勿論自分に似合っていたとパトリシアは自覚はしているが、それ以前にサイズが小さく、足を丸めなくては入らない靴、硬いコルセットで締め上げるドレスなど体に負担のかかるデザインのものばかりであった。本来なら高位貴族の令嬢であっても、成長期には絶対に避けられるものだ。それは一部の特殊な嗜好者が、愛玩用の奴隷を成長させずに少女らしさを保つ為に強制的に身につけさせる違法な拷問具の一種と記載されていた。
かつて持っていた装飾品に、隷属や洗脳などの効果が付与されていたと伝わる品とよく似た櫛も文献の中で見つけた。それらの装飾品は、見つかると全て彼女に処分されていたので本物だったかは定かではない。
そんな物に知らずに囲まれて過ごしていたのかと思うと、今更ながら背筋が冷えるようだった。
その贈り物を次々と処分して、彼女はお下がりと称して動きやすい男物の服や乗馬服を与えてくれた。彼女が連れて来た乗馬や剣術の教師達の厳しい指導も、学園に入ってからだけでなく、学園卒業後に騎士の道を開いてくれる助けともなった。
ただ甘い蜜を与えて蕾のまま花を腐らせるだけだった乳母や父。厳しいながらも正しく必要な物を与え続けてくれた彼女。彼女のその態度から好かれていたとは決して思えないが、そこには憎しみではない何かしらの感情があったように思えた。
その事実にようやく辿り着いた時、パトリシアの中に微かではあるが絶望の中に光を見つけたような気がした。
「伯母上」
「何です」
「貴女に聞いてみたいことがありました」
「言ってごらんなさい。それに答えるかどうかは分かりませんけれど」
「貴女の妹は、どんな人でしたか?」
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グレッグ伯爵には、幼い頃から決められた婚約者がいた。それがパトリシアの母と伝え聞いている。
その婚約者には姉がおり、その姉も別の相手と婚約していたのだが事情があって破棄となった。そして姉は強引に妹との婚約を解消させて新たにグレッグ伯爵と自分との縁を結ばせたのだった。
しかし、政略とは言えグレッグ伯爵と元婚約者の妹は互いに深く想い合っていた。引き裂かれた形になった妹はどこかに嫁ぐことを嫌がり修道院に入ることを選んだのだが、諦め切れなかったグレッグ伯爵が修道院から彼女を密かに連れ出し、領地の奥に匿った。
グレッグ伯爵は姉の方とは正妻として後継だけもうければいいと義務的な婚姻を交わし、真実の愛を誓った妹の方を寵愛した。だが、皮肉にも姉妹はほぼ同時に身籠り、姉の子が産まれたたった1週間後という僅かな差で妹の子が産まれた。
その際の難産が祟ったのか、妹はそのまま儚くなってしまった。
さすがにその時点で修道院から行方不明になっていた元婚約者の存在は明るみになり、伯爵家と姉妹の実家の侯爵家、両家とも騒動になった。特に正妻であった姉の怒りは凄まじかったが、末娘であった妹を可愛がっていた侯爵は、忘れ形見である妹の子供の将来を憂いた。侯爵家の令嬢だったとは言え第二夫人でもなく、勝手に修道院から連れ出して愛人として囲っていた女として扱われる立場の母親であるため、彼らの感情がどうであれその子供は庶子であり貴族として認められることはない。
グレッグ伯爵は一計を案じ、産まれたのは女児であり後継は正妻の産んだ長男であるからと説得し、領地で育てて将来的には修道院に入れ表舞台には出さないという約束を交わした。そして正妻の双子の片割れとして認知させることを承諾させたのだった。
それが、パトリシアの知る一方的な母の話だ。
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パトリシアの質問が余程意外だったのか、彼女はポカンとした表情になって顔を覆っていた扇が下がっているのにも気付いていないようだった。丸見えになった顔は、いつもの皮肉な笑みも忘れていた。
「伯母上?」
パトリシアが怪訝な顔で見つめると、彼女は慌てて扇で顔を隠した。
「そ、そのようなもの聞いてどうしようと言うの」
「…ただの興味本位です。僕はグレッグ伯爵の立場から見た母しか知りません。伯母上の、姉の目から見た母を知りたい」
ちょうど角度が変わったのか、部屋に差し込む白い光がサッとオレンジに変わる。光を遮るように背にしている彼女の顔の影が濃くなり、表情がよく見えない。
「……よく、知らないわ」
長い沈黙の後、彼女はポツリと呟いた。
「知らない、ですか…?」
「そうよ。本当に知らないの。別に貴方に嫌がらせをしているわけじゃなくてよ、これに関してはね」
そのまま黙り込んだ彼女に、パトリシアもそれ以上聞けなかった。部屋のオレンジの光に少し暗い色合いが混じり出す。
更に長い沈黙を経て、彼女はポツリと呟いた。その目は、この病室のはるか彼方を見ているかのように遠かった。
「あの子が産まれたのは、わたくしが10歳の時。母が、もう子供は望めないと言われて、わたくしが跡取として教育を受けていた…」
歴史だけはある貧乏侯爵家。両親はとにかく優秀な後継を育てて返り咲こうと必死で、それこそ寝る間も与えない程に後継教育に熱を入れた。しかし10年後、奇跡的に子供を授かった。それも男女の双子。長男は嫡男に相応しく賢くあれと教育しつつ、より良い条件の妻を迎えられるように社交の為の教育も時間もたっぷり与え、次女は幸せな婚家に嫁げるように可愛らしく愛されるようにと甘やかされて育てられた。まるで最初の失敗と同じ轍は踏まないと言わんばかりに。
「わたくしは、跡取として厳しく躾けられて、頭の固いだけの何の面白味も可愛げもない小賢しい女にしかなれなかった。だから両親は妹を柔らかくてふわふわして甘いものだけで育て、妹もそのように育った。ただただ愛らしくあれば良い、と。妹が8歳でお茶会デビューとなった時、それに付き合わねばならないわたくしは何をすれば良かったのかしらね?話も通じない相手に?」
8歳と18歳では好みも会話の内容も違う。跡取として後継教育を厳しく受けて来た姉と、ただ愛らしくあれと花と菓子と御伽噺だけを与えられて育ったような幼い妹。交流など始めから無理で、その場にいるだけが彼女の許容範囲だったのだ。しかしその場に居た人間には、姉が幼い妹を無視して虐げているかのように映った。
「グレッグ伯爵…当時は後を継いでいなかったけれど、彼が妹を見初めた。まだ健在で当主だった義父は、妹の様子を見て教育に不安を覚えたのでしょうね。早めに次期当主の妻として馴染んで欲しいからと言ってすぐにグレッグ家の領地に連れて行った。……それ以降一度も顔を合わせたことはありませんのよ」
しかし、おそらく妹は当主の妻として相応しいレベルにはなれなかったのだろう。グレッグ伯爵の父であった当主は、基礎教育を施した両親に猛抗議をした。爵位だけで言えば伯爵は下だが、財力と権勢は貧乏侯爵家で太刀打ちできる筈もなかった。そして既に嫁ぎ先が決まっていた優秀な姉を寄越せと圧力をかけたのだ。
面白味のない女と最初の婚約者から疎まれていた為、相手方も僅かな和解金をグレッグ伯爵家が支払うとあっさりと破棄して来た。
「せめてもう少し長く義父が生きていれば変わったのかもしれませんけどね。…いえ、変わらなかったでしょうね、あれは」
妹がその後の伯爵家でどういう状態だったのかは分からない。ただ精霊か女神かと言われる程に美しく育ったと聞いてはいたので、どこか財力のある下位貴族や成金辺りなら血筋と美貌だけで引く手数多だった筈だ。
しかし両親は妹の傷心を慮って修道院に入れることにした。その後すぐに、妹は修道院に押し入った盗賊に攫われ、消息不明になった。だがそれは表向きで、実際はグレッグ伯爵の手引きで元婚約者の息子の元で愛人として囲われていた。
「それが誰がどこまで関わっていたかは、義父も両親も死んでしまったから分かりませんわ。まあ、誰がどう関わっていようとも、わたくしを随分と馬鹿にした話には変わりありませんけれど」
妹が行方不明になった直後に義父が急逝し、グレッグ家を継いですぐに婚姻して夫となった男には、元婚約者とは真実の愛で結ばれた相思相愛の仲だったのにお前のせいで引き裂かれた、と寝物語代わりに聞いてもいないのに語られた。
そう言う割に捜索に必死になっている様子もないので、薄々妹の居場所は察してはいた。だがそれならば自分には関係のないことだと、それ以上は関わらないと決めた。
あの夢見がちな幼い妹のまま育ったのなら、神に仕える身でありながら攫われ愛人として囲われて、世間では醜聞とも言われる立場にいたとしても、有名な児童書の囚われのお姫様と真実の愛を誓った騎士様の御伽噺のようだと喜んでいたかもしれない。
月足らずで息子を産んで儚くなったと聞かされたが、葬儀も領地で済ませてしまったので顔も見ていないし、どこに埋葬したかも聞いてはいない。自分も産後1週間で寝付いていた頃で、動くことも出来なかったのだ。嫡男の誕生には立ち会いもしなかった夫が葬儀を終えて王都に戻って来て、まだ朦朧としていた枕元で「お前が呪ったせいで彼女が死んだ」と喚いていた記憶しかない。呪うも何も、妹の行方さえ知ろうとも思わなかったのだから、何をすると言うのだ、と言い返す気力もないままただ心で思うだけだった。
「わたくしが床から離れられるようになった頃に、調べたら何故か双子を産んだと届けが提出されてましたわ。大方たっぷりとどこかにお金を弾んで手を回したのでしょうけれど。さすがに届け出で性別はごまかせなかったようでしたが、わたくしだけには内密にするように箝口令を敷いたと筒抜けでしたわ」
彼は義父が亡くなって監視の目がなくなったのを良いことに、領地に匿った妹を寵愛するあまり伯爵家を継いだ後も領地から殆ど戻って来なかった。その間に、彼女は王都の屋敷で実権を掌握していた。面白味も可愛げもなくても執務能力には関係ない。領地での情報は数日で包み隠さず彼女の元へ届いていた。
妹が亡くなった後、グレッグ伯爵はようやく王都を拠点に暮らし始めたが、既に伯爵家の実務は彼女がこなしているも同然だった。
「そのまま貴方が母親に似ずに育っていれば、そのうちあれも忘れて放置したのでしょうけれどね」
幸か不幸か、産まれた子供は母親に生き写しだった。赤みがかった柔らかな金髪に、潤んだような翡翠の瞳。薔薇色の頬に形の良い小ぶりな唇。華奢な手足と蕩けるような微笑みはまさに本人そのものだった。
誰がその亡き令嬢の面影を惜しんだのかは分からない。少しずつその子供に少年の兆しが見え始めた頃、いつの間にか乳母が少しずつ子供に成長を阻害する毒を与え始めた。もう既に禁制の品として国から禁じられていた毒を、一介の乳母が継続して手に入れられるとは思えない。
誰にでも愛くるしい微笑みをばらまき、誰からも愛された妹に執着していたのは、グレッグ伯爵家や実家の侯爵家の者達だけでなく、他家にも多数存在していた。徹底的に調査すれば入手先も分かっただろうが、彼女はそこまでする必要も感じなかった。
もし子供が毒で死んだとしても、それは妹に執着した人間が招いた結果で自分は何とも思わない。夢見がちな人間達が好きにすれば良い、とさえ思っていた。
「幼い頃は、あれもただ妹の子供として可愛がっていたのだと思うわ。でも、貴方が初めて出会った頃の妹の姿に近付いて行った頃から、あれの見る目が変わった」
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伯爵家の後継として幼い頃から抑圧されて育って来た夫が、初めて自ら望んで手に入れたと言った妹。あの誰にでも平等に微笑みを振りまく妹に心奪われた瞬間から、もう既にまともな思考ではなかったのかもしれない、と彼女は呟いた。
出会った頃の美しい思い出の中に溺れるように、グレッグ伯爵はパトリシアに異様な程執着した。年に幾度も領地に向かい、尋常ではない高額な品を貢ぐようになる。品物の割に高価すぎる貢ぎ物の目録を密かに取り寄せると、この国では違法とされる付与の付いた宝飾品などがズラリと並んでいてさすがに目眩を覚えた。
「わたくしがあれの後について別邸を訪問したのは、そこまで似ているのかと興味を持っただけ。でも実際会って驚いたわ。全然似ていなかったのですもの」
「…似て、いなかった?僕はそっくりとしか言われたことはなかったのですが」
「そうね、外側だけは似ていた。でも、同じように甘やかされて真綿で包まれるように育てられた筈なのに、貴方の目には妹にはなかった知性の光が見えた」
自分を見る目には怯えがあったが、その奥で自分に向けられる悪意を避ける為に全力で知略を巡らせている様子が見てとれた。かつてお茶会のデビューに付き合わされた妹と同じくらいの年な筈だが、乳母や夫が少しずつ摂らせている成長を阻害する毒が効いているのか、思っていたよりも小さく幼く見えた。しかし人の悪意など全く想定してないただカラッポでキラキラしていただけの妹とは違い、彼の目の中にはもっと様々な感情が渦巻いている。
そこに、パトリシアの並々ならぬ才と、微かな希望を見たのだ。
「それに…何となく、貴方には強い魔法の才を感じたわ。その時は漠然と、もしかしたら良い手駒になるかもしれない、と思ったのよ。わたくし、昔からそういう勘は当たりましたの」
まず夫からの貢ぎ物は全て処分した。違法取引の品が多数あったので、これが明るみに出れば伯爵家ごと国から処罰される危険もあったからだ。
そして魔法の才だけでなく他にも使える能力はないかと測る為に、厳しいが必ず才能を伸ばすと評判の教師を手配した。結果、パトリシアはどの分野にも驚くほどの才を発揮し、強力な攻撃魔法を有した優秀な魔法士として身を立てられるほどの実力を開花させ、更に騎士団長から直々に騎士団にスカウトが来るほどの剣術をも身に付けた。
「ははっ。僕は伯母上の手の中で随分と守っていただいていたようだ。僕の存在を表沙汰にして、無事に学園に通えるように手を回したのも貴女でしたね」
次々と貢ぎ物を処分する彼女にグレッグ伯爵は抗議はしたものの、彼女が凍てつくような目で「女性の教育は女性に限ります。何か異論でも?」と言い切ると黙る以外になかった。グレッグ伯爵はすっかり彼女を騙し果せていて、ずっと妹の子供を女だと偽っているのをバレているとは思っていなかった。
しかし、いよいよグレッグ伯爵が己の欲望を果たす時期が訪れたのか、彼女に内密で彼を別邸から連れ出し、彼女も知らない秘密の場所に囲い込もうとした。さすがにそれは丹念に準備されたらしく、彼女が辛うじて阻止できたのは幸運としか言いようがないタイミングであったと聞かされた。
強引にパトリシアを奪い取り、わざと階段から突き落とした。そこで意識を失った彼を、国が運営している治癒院へ担ぎ込んだのだ。そこに入院させて記録を作らせることにより、領地で静養して慎ましく暮らしている幻の令嬢が実は令息であり、体は未成熟であっても学園に通うことは可能であると知らしめたのだった。
一応正妻の子として国には届けられているが、実際は正妻の妹の子で男だということは調べれば簡単に分かってしまう。後継争いを避ける為に表向きは令嬢として育てたという言い訳は、伯爵家の多額の寄付金でどうにか通用させた。
しかしこのまま病弱なふりをして、貴族であれば必ず通わなくてはならない学園の入学もごまかそうとしていたグレッグ伯爵の思惑は白紙になった。
更に治癒院の院長が不審に思ったことにより、パトリシアの体内の毒が判明したことで国から目を付けられた。ただこの件に関しては、今はどこにいるかも分からない乳母の責任ということで一旦は終息している。
これ以上無理に領地に留まらせては最終的に最愛の女神の忘れ形見自体を失うと、グレッグ伯爵はパトリシアを学園に通わせる為に外に出すことを仕方なく認めた。グレッグ伯爵は入学前に学園の事務方に多額の寄付金を出して、実家に送る書類等はパトリシアの性別を一切記載しないように手を回し、正妻にはパトリシアが男だと知られないように工作した。もうとうに彼女に知られているのでその努力は全て無駄になっているのだが。
そしてパトリシア当人の許可も得ないまま、強引に誓約魔法で学園卒業後は領地に戻って自分の補佐をするように縛り付けた。精神に作用する誓約系の魔法は、掛ける者と掛けられる者同士の許可がないまま結ぶと術者への影響が大きい為に強引な誓約は法で禁じられている。しかしグレッグ伯爵は違法と分かっていても強引に実行させた。その際に数名の魔法士が行方不明になっているが、表沙汰にはなっていない。
「守ったつもりは全くなくてよ。あの時は怪我で済みましたが、死んでいてもおかしくなかった。結果的に貴方が生き汚かっただけですわ」
「あのままグレッグ伯爵にどこかに連れて行かれていたら、僕は死んだも同然でした。心が死んだまま人形のように生きていたと思います」
溜息混じりにパトリシアが言うと、彼女は妙な顔をして動きを止めた。
「……貴方、幾つになったのかしら」
「?今年20になりますが」
何故そんなことを突然確認するのだろうと、パトリシアも怪訝な顔で彼女を眺めた。
「…まあ、とっくに成人も越えていますし、そこまでトラウマにはならないかしら」
「何のことでしょうか」
「貴方、あの時のあれが何をしようとしたか存じませんでしたの?」
「…ええと『病を治療してくれる医師が見つかった』とか『手術が必要』とか何とか…僕は、体を女性に変える為の処置をするもの…だ、と…」
後に予測したおぞましい考えを口にしたのだが、彼女の表情がどんどん憐憫が深くなって来た事に気付いて、パトリシアはとうとう言葉を切った。
「聞きますかしら?」
「……はい」
「医師とは良く言ったものね。……正確には『剥製師』よ」
「……あンの変態親父」
「あの頃の貴方は、初のお茶会に参加した時の妹の年頃に見えたわ。良い思い出として永遠に手元においておきたかったのかしらね」
自分の最悪だと思っていた予想を越える最悪を提示されて、思わず片手で目を覆う。今更ながらどっと冷や汗が出て来る。
その様子を見て、彼女がパサリとハンカチを放り投げて寄越した。顔の上に落ちたそれは、彼女の香水と同じ香りがした。
「…恐れ入ります」
「返さなくてよろしくてよ」
「はい」
「使ったら捨てなさいね。お前にわたくしの私物を持っていられるかと思うと虫酸が走るわ」
「…はい」
少しだけ浮かんでしまった笑みを隠そうと、パトリシアは投げられたハンカチで口元を覆う。彼女の香水はきつめだが、常にキリリと表情を引き締めて凛とした様子で立っている彼女にはよく似合っている。そして必ず救われたと思う記憶と共に紐付けられている為、不思議とその香りを嗅ぐと落ち着く気がした。
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「もうわたくしは行きますけど、他に聞きたいことはありませんの?」
「今日は随分大盤振る舞いですね」
「もう二度と会うこともないのですもの。変に執着されても困りますから、全部片付けてしまいたいのよ」
「ああ、このまま侯爵家に戻られるのですね」
彼女はグレッグ伯爵とは離縁して、実家に戻ると聞いていた。
「戻った後、どうなさるおつもりです?」
「貴方が気にする必要はなくてよ」
実家の侯爵家は、彼女の両親は既に亡くなって弟夫妻が後を継いでいる。そこに彼女が帰ったところで居場所はないだろうし、領地に隠居か修道院へ送られるかだろう。
「異母兄上の為に伯爵家に残ると思いました」
「それはなくてよ。あの子は一人でも充分にやっていけるようわたくしが全てを教え込みましたもの。わたくしの手を離れられないほど低能ではないわ」
「学園での成績は揮わないようでしたが?」
「あら?興味のない振りをしてあの子の成績もしっかり確認していたのかしら。イヤらしいこと。でも惜しかったわね。あの子の成績は上から見るのではないわ。下から数えたら全教科同じ順位になるようにわざと調整していたのよ。全く、あの子らしい遊び心ね」
さすがにポカンとした顔になったパトシリアに、彼女は軽く笑い声を漏らした。
「あの子には、わざと低能な振りをして、侮って利用しようと近付いて来た奴らは容赦なく叩き潰しなさいと教えて来たわ。だから手始めにあれを潰したのよ」
そう言って扇を外して微笑んだ彼女は、ゾッとするほど妖艶で美しかった。
補足的裏話
毒花の蜜は、危険性も不明なまま大流行して、当時はほぼ高位貴族女性全てが摂取していたような状態でした(若さを求めた訳でもない令嬢も、菓子の大半に使用されていた為に無意識で摂取してました)。その影響かは不明ですが、伯母上の母世代で貴族の出生率が激減しました。その頃は男子継承が定められていましたが、結婚相手どころか後継もいない貴族が続出したため、国は女性も継承可能の法を急遽制定。ただ法が先で教育などの整備は後回しにされ、これまでは淑女教育と後継教育が完全に分離していたので女性を後継にする為にはどちらも教育が必要という、伯母上と同年代の女性にはものすごい負担のかかる詰め込み教育直撃世代でした。
伯母上も知りませんが、10年後産まれた双子は実は異母弟妹。侯爵夫人は男子を産めなかったことを引け目に思う世代だったので、仕方ないと割り切って実子として認めたものの、侯爵が「跡取はもっと社交的になるように、最初の失敗を教訓に育てる」と言ってしまった為に夫人に夜叉降臨。双子の母(実は乳母です)はどちらかと言うとお花畑思考の人で「真実の愛のおかげで神様が可愛い子供達を2人も授けてくれた」と夫人の前で堂々と発言していたこともあり(そのお花畑思考故に親戚一同から第二夫人に据えることを猛反発された経緯あり)、夫人は妹の淑女教育を完全に放置。侯爵はお花畑タイプが元から好みだったこともあり「(自分の)理想のお姫様に育っている」と疑問に思わず。結果的に妹は自覚ありと自覚無しの「優しい虐待」で、誰にでも優しいけれど頭のネジやら倫理観やらがゆるふわ令嬢に育ってしまいました。ある意味彼女も被害者です。伝わってはいませんでしたが、夫人は実の娘の伯母上には愛情はあったのだと思います。
グレッグ伯爵も伯母上とほぼ同世代なので、彼も唯一の後継としてプレッシャーをかけられ過ぎたタイプ。褒められた記憶のないまま育ったので、ニコニコして優しい言葉をかける妹に簡単に陥落してしまい、それが他の人間にも同じように愛想を振りまくものだから彼女に対して嫉妬と独占欲でおかしくなって行きました。彼女を修道院から攫ったのは先代伯爵主導でしたが、それは侯爵家も承知済みでした。修道院に入れることにしたのは、成人前の未婚なのに既にお手つきになっていた為、余所へ嫁がせることが出来なかったから。成人後に第二夫人として届ける予定でしたが、成人前に死亡。この国の法律では成人前の婚姻は受理されず、婚姻前に産まれた子供は庶子扱いとなって一切の相続権を持ちません。その為、パトリシアは強引に姉(伯母)の子として届けが出されました。
頭おかしい人しか出て来ないぞ。
因みに伯母上の最初の婚約者は当時の第1王子でしたが、それこそレッドリストに載るレベルで貴重な血筋も頭も良い令嬢を勝手に伯爵家に下げ渡してしまった、と断罪されて、第2王子が王太子になりました。王家的には伯母上自身を引き込みたかったので、通常の婚約解消なら他の王子に嫁がせたかったのですが、気が付いたら伯爵家に奪われて手遅れでした。第1王子は現在は王兄殿下として、小さな離宮で地味に暮らしています。何せ極端に同世代が少ないので将来性のない彼に嫁ぐ令嬢はおらず、まだ若いのに好々爺のような生活です(一番マシかもしれませんが…)




