切符売りの老婆
「切符ぅ、切符ぅ、切符はいらんかぇ」
今や無人駅となったのはずの最寄り駅。その駅のホームに切符売りの老婆はいた。
老婆はしわがれた声を絞り出すように、昔見た童話の一場面よろしく切符を売っている、つもりらしかった。
師走だのなんだのと忙しく仕事をして、あっという間に新年を迎え、一月も半分が過ぎた。
今年は暖冬だと言われているが、それでも夜、特に外となると、ぐっと寒さは増す。
スーツの上にコートを着ていても肌はさわさわと鳥肌が立つようで、スマホを操作する指は手袋の中にあっても痺れたように動かしにくい。ぎりぎりまで残業して終電に乗って、あとは歩いて帰宅するだけ、のはずだったのだが。
「婆さんもう夜だよ。家に帰りな」
見ず知らずの他人なら無視したいところだが、そうもいかない。老婆は自分が子供の頃からよく知っている隣家の家主だ。
ここ最近、老婆が徘徊老人になったというのは町内でも有名な話。夜中に時々家の近所を歩き回っては警察や近隣住民に保護されている。早朝に新聞配達員が見付けて警察に連絡したという話も耳に新しかった。
家族はというと、同居だった息子夫婦を去年の夏の暮れに不慮の事故で亡くしている。連れ合いは遠の昔に亡くなっているので、今現在、老婆は最近よく耳にするところの「独居老人」となっていた。
亡くなった息子は自分よりもかなり年上で、あとちょっとで定年退職という歳だった。気さくな人柄で、再雇用で働く予定なのだと、たまに一緒になる電車の中で話していた。
「お前さん、この切符を買って、夢の国へ行かんかぇ?」
「俺は今電車から降りて戻って来たんだ。家に帰るよ。婆さんもほら、一緒に歩いて帰ろう」
帰宅を促すも、老婆はまだ切符販売員でいたいらしい。
「夢の国の切符だよ。男にとっての夢の国、ほぉら、興味があるだろう?」
もう老婆の理性はすっかり失われているのだろう。
気温も気温であるし、放っておくわけにはいかないが、仕事帰りの疲れた頭で、まともな思考ではない様子の老婆を相手にする気力は自分には残されていない。
警察を呼んだらパトカーで家まで運んでくれるだろうか。駅から家まではたった十分足らず。警察に任せてこの場から逃れることを考えたが、寒いのでさっさと帰宅したい。
やはり自分が連れ帰るべきだろうと、老婆の左手首を握り、引っ張るようにして歩き出した。
しかし、老婆は数歩動いただけで、線路を跨ぐ階段手前ですぐに足を留めた。握る手をぐいぐいっと引っ張っても、老婆はピタリとして動かない。
「さぁ、お前さん。右の切符は地獄行き、左の切符は天国行き、さぁ、どちらを選ぶね?」
「右でいいよ。婆さん、歩こう」
男の夢の国は何処へ行ったのやら。早く帰りたいので適当に返事をして老婆の手を引っ張るが、なおも老婆は動こうとしない。
「右の切符だね。よしきた。そいじゃ、わたしが最後の一枚、左の切符だ」
老婆は本当に切符を持っていた。
先程まで固く握られてぐしゃぐしゃにシワが寄ってはいるが、よく見るとそれは四つ先の駅までの回数券で、息子が飲み会の日などの通勤に使った残りなのだろう。有効期限は昨年末で切れていた。
「婆さん、俺は早く家に帰りたい。おぶってやるから、ほら」
渡された切符はコートのポケットに入れて、老婆の前に低く屈んでやる。
間もなく両肩に老婆のしわしわの手が置かれた。この寒さだというのに、手袋をしていない。さぞや冷えきっていることだろう。両の肩が急に冷えたように感じる。背負った老婆は先程引っ張っても動かなかったのが嘘のように、驚くほどに軽かった。頬や首にかかる老婆の吐息は氷を当てたように冷たかった。
「お前さんの背中は温かいねぇ。そういえば昔はよく息子をおぶって家事やら畑やらしたもんだ」
老婆が喋る度に冷たい息がかかる。
ホームは上り線と下り線の線路に挟まれており、陸橋がかかっている。駅から出るためにはホームの階段を一旦上り、そしてまた外の階段を降りる必要があった。
老婆の足を左右それぞれ手で支え、ホームの階段をゆっくりと一段ずつ、慎重に上る。
駅なので明かりはあるものの、無人駅に相応しい、慎ましいといえば聞こえはいいが、田舎のぽつぽつとした外灯とそう変わらない程度の寂しい照明。もう少し大きな有人駅にはエレベーター設備もあるのだが、需要と供給ということなのか、駅利用者が少ないこの駅には金のかかる設備は無い。
人をおぶっているからだろう。
階段がいつもよりも長く感じる。
老人を落とすわけにはいかないので、自分で思う以上に緊張しているのかもしれない。
ようやっとで階段を上りきり、線路を跨ぐ短い距離を歩く。
そして、また階段を下る。
階段の中程でふと気付く。
背中が軽い。
先程まで頬や首を撫でていた呼吸する冷気も消えている。
ぞっとしながらも、首を少しずつ、少しずつ後ろに回す。
無い。
あるはずの顔が無い。
ゆっくり、ゆっくりと、小刻みに震える自分の首を元の正面に戻し、体の下に視線を動かす。
先程まで持っていたはずの老婆の足も、肩に置かれていたはずの老婆の手も、何もない。
どのくらい立ち止まっていただろうか。
ぴゅーっと冷たい風が頬を撫で、はっとして、再び背中を見るが、老婆などどこにもいない。
両手を見て、指を動かし、何も掴んでいないことを確認する。
目をぎゅっと閉じて、冷気を鼻から体いっぱいに取り込んで、大きく深く口から息を吐き、残りの階段を駆け足で下りきった。
いつもよりも大股で、早足で家へと向かう。
自宅が見え、そして隣には老婆の家が見えた。
時間が遅いため、老婆の家の明かりは既に消えているようだ。
呼び鈴を押して老婆の在宅を確認すべきだろうかと迷うも、時間が時間である。
きっと在宅していると自分に言い聞かせ、伸ばしかけた人差し指を引っ込めて帰宅した。
その晩、帰宅後、家でどう過ごしたか、あまり記憶にない。
何も考えたくなくて、またどっと疲れが出て、すぐに寝てしまったようだった。
翌朝、スーツにコートを羽織ったままの格好で、万年床になりつつある布団から起き上がった。
昨夜は風呂にも行かず夕食も食べず、布団に潜り込んで寝てしまったらしかった。
その日の朝、老婆は駅のホームで見つかった。
外傷は無かった。
凍ったように固まった左手の中には切符が握られていた。幸せな夢でも見ているような、とても穏やかな表情だったという。
自分のコートのポケットには切符が一枚入っている。四つ先の駅までの、期限切れの回数券。
切符の行き先を告げる老婆のしわがれた声が、いつまでも耳に残っている。