第1章0節 『始まりの凶弾』
――この時、きっと自分はどうしようもなく失敗したのだ。
人差し指は染み付いた動作で執行器のトリガを引き、銃弾は吸い込まれるように女の眉間を貫く。
乾いた発砲音が、蝋燭の炎に照らされた薄暗いダイニングに響いて、ぶちまけられた脳漿が白塗りの壁をまだら模様に彩った。
「かあさま!!」
絹を裂くような悲鳴が耳をつんざき、小さな人影が女に駆け寄る。
顔立ちはあどけないながらも、見目麗しい少女だった。
肩まで伸ばした銀髪を振り乱し、上品な紫のタイトドレスが赤黒く染まることも厭わず、少女は血まみれの女を抱き寄せる。
倒錯した宗教画のようなその光景は、なぜかひどく心をささくれ立たせた。
「……邪魔だ」
自分でも驚く程冷めた声音に、少女は華奢な体躯をびくりと震わせてこちらを振り返る。
――動揺。恐怖。怒り。驚愕。悲哀。疑問。
大粒の涙を湛えた瑠璃色の瞳には、おびただしい程の感情の波が去来し、凄絶な輝きを放っていた。
「どうして……」
音もなく頬を伝う涙に胸がじくりと傷んだ気がして、雑念を払うように小柄な身体を蹴飛ばす。
冗談のように吹き飛んだ少女は、ろくな受け身も取れないまま壁に叩きつけられ、なぎ倒されたテーブルから落下したグラスが悲痛な音を立てて砕け散った。
「う、ぇ……」
うずくまって嘔吐く痛ましい姿から目を逸らし、照準を足元の女へ向ける。
焦点の定まらない瞳、今にも消えそうなほど細い呼吸。それでも指先が何かを探すようにかすかに動き、血の気を失った唇が言葉の形を描く。
――い、き、て
それは、娘の無事を願う母の言葉で。
その一言に精魂を使い果たしたかのように女の瞳からは光が失われた。
ぴくり、と。
視界の端で、到底届くはずのない呟きを聞き取ったかのように少女は起き上がり、おぼつかない足取りで駆け出す。
可憐な細面を悲痛に歪めて踏み出した必死の行軍は、しかし無慈悲にも数歩と続かなかった。
再び放たれた銃弾は白磁のような腿を浅く抉り、少女はその場へ頽れる。
「う、あぁ……っ」
押し殺した悲鳴を漏らす少女はへたりこんだままじりじりと後ずさる。
瞳に涙を溜めながらも毅然とこちらを睨みつけていた虚勢は、その小さな背中が壁に触れた瞬間、脆くも崩れ去る。
「ひ、っ、……う……」
細い喉がしゃくりあげるような音を立て、表情に絶望が差し込み、歯がかちかちと音を立てる。細い身体は哀れなほど震え、下半身を小水がじわりと濡らしていく。
「……粛清値960超過。死刑執行対象。」
同情してはいけない。躊躇ってはいけない。
つとめて機械的に、無感情に執行器の告げる罪状を復唱する。
正義という名の物差しは、彼女を確かに悪だと断じているのだ。
しかし、少女の額に突きつけた銃身から伝わる命の震えに人差し指は硬直した。
動きを止めた身体に代わって思考が加速し、見ないふりを決め込んでいた情報たちが頭の中で最悪の関係を形成する。
ささやかに飾り付けられた部屋。無残にも床に散らばるケーキに立てられていた蝋燭は12本だったか。少女の幼さを残した顔立ちからは背伸びした印象を受ける上品なドレス。贈答用の青い包装紙に包まれた小箱にかけられた白のリボン……
『――粛正値低下。600。致死性弾の使用を禁止します。』
突如響いた電子音に思考を切り上げると同時に、裁決を翻すようなその内容に耳を疑う。
外部からの影響なしに粛清値が低下することなど前例がなかったのだ。
力なく項垂れた少女を躊躇いがちに覗き見ると、蒼白の顔面は表情を剥落させ、瞳からは理性の光が失われていた。
――ああ、どうしようもなく人間は脆い。身体も、そして心も。
◆
ドアを開けると、夏の夜の生温い風が頬を撫で、まとわりつくような潮の香りが鼻をつく。
雲ひとつない空に浮かぶ下弦の月の蒼白い冷笑がこちらを嘲っているようで、届きもしない弾丸を中空へ数発撃ち込んだ。
本編より前の時系列のお話になります。




