第5話 「少将どの!」
「……なあ、アレ、明らかにおかしいよな……」
「わたくしもそう思います、少将どの……。わたくしの妹の嫁ぎ先には犬や猫、それにニワトリや馬もおりますが、ケモノが群れを成してあのような行動をとるなどと聞いたことがございませぬ……」
長年睨み合いを続けていた河向こうの敵国、小蘭国が、獣による猛襲で全滅する所を目撃したのは三日前の正午すぎのこと。
それ以来、状況調査と人道支援の名目で、敵国内の領地を踏み進んでいる兵隊たちがいる。
彼らは八重樫が生まれ育った国、毛萩国の、国境付近に駐屯する精鋭部隊だ。
連日の行軍、道中の村の人々の無残な惨状、さらには獣の群れによる謎の襲撃により精神的な疲労が溜まっていた。
そんな中、動物に対する常識が大きく覆されるような行動を目の当たりにし、動揺せずにいるのは無理がある。
長年使い古した弓を握る手は、じんわりと汗で湿っている。
「ケモノとは賢いもので、危険な思いをすると二度とその元には近づかぬものと理解しておりました。それが命に関わるようなことであれば尚のことでございましょう」
「俺だって同じ考えでいたとも。だが先日から続くヤツらの襲撃といい、何度やられても危険な目から学んでいないようだ。それとも命以上に大事なものが西の先にあるのか?」
「理由は判りませぬが少将どの、あの群れを退治したらいよいよ敵の本拠地でございます。これまでの道中の村々と同様、もしも本拠地でさえケモノに食い荒らされているようなことがあれば……」
「おうとも、大薊様の悲願である小蘭国の支配を達成できるわけだ。さあさあ、俺たちもケモノのエサにならんためにも、今は前方の動向を注視しようぞ」
陣形を整え獣の突撃に備える練兵たち。
中央には弓足軽隊がおよそ二百人。六、七人ごとにまとまり、三十の団を構成している。それぞれの団は数メートルずつしか離れていない。
弓矢の射程距離内には馬防柵、すなわち大型動物の突撃を妨害する障害物がいくつも設置されている。
機動力を封じられた獣は絶好の的となる。
また弓足軽隊を挟む形で、槍足軽隊が両翼におよそ百五十人控えている。
六メートルはあろうかという長さの長柄槍で武装し、三列に並んで槍の壁を広く形成している。槍衾と呼ばれる戦術である。
馬防柵と弓矢の雨をくぐり抜けた獣にはこの槍の壁で挟撃し、一網打尽にする作戦だ。
そして最後に、これらの兵隊を束ねる指揮官、一般的には馬に跨る騎馬武者がいる。
ただしこれは獣との戦、言い換えれば害獣退治である。人間同士の戦とは異なり指揮官が臨機応変に指示を出す必要はない。
従ってこの少将と呼ばれる指揮官の男も、弓足軽隊の隊長として最前線に陣取っていた。
敵の本拠地に最も近い村とはいえ、相変わらず周りは山に囲まれており道が狭い。村の入り口に敷かれたこの陣は限られた道幅を塞ぎ尽くしている。
その陣から弓矢の最大射程距離、約三百から四百メートルよりも、もう少し先。
精鋭の練兵たちに相対するは獣の群れ。
はっきりと視認できるのは牛、馬、それに鹿。ウサギやリスといった小動物のようなものもいるようだ。
最大重量を持つ牛は二十頭程度。馬は四十頭弱。成人男性ほどの重量の鹿は百頭余りと見える。
かなりの数に思えるが、三日前の襲撃時と比べれば二割にも満たない。
連日と比較して明らかに異なる点が三つ。
一、獣がすぐに襲い掛かってこない。
二、一際大きな白いバケネコがいない。
そして何より、三。
獣の群れが乱交パーティを催している。
求愛行動。
求婚行動とも呼ばれ、獣のオスとメスの間の儀式化された一連の行動を指す。
哺乳類の求愛行動は一様ではなく、また発情期に必ずしも行うものではない。さらに継続時間も長いものから極端に短い時もあり、ランダムである。
そのため人間が獣の発情のタイミングを見極めることは困難であり、牛や馬などを人工的に大量繁殖させることができない理由でもある。
雄牛は獣の雌の腰部を小突き続けており、無理矢理乗りかかろうと必死な様子。
雄馬は頭を横にブルブルと振りながら、ブヒブヒとかルルルルとか、およそ日常では聞けない鳴き声をあげている。
雄鹿はフィーフィーと鳴きながら雌の体を舐め回している。
他にも視認できない程度の小動物もうごめいてようだが、何をしているか想像するに難くない。
求愛行動は種族の枠を越え、体のサイズなぞ気にも留めない様子で無差別に、痴態が蔓延している。
「あやつら……どうやら発情しているようだが……、フッフフ、集団で行うなぞなんという変態どもか!」
「まさか女日照りのわたくしたちの鬱憤に触発されているわけではありますまいな、ハハハハッ!」
遠い前方の奇行に軽口を叩きつつも、突撃に対する緊張は緩めない練兵たち。
その談笑の最中遠くから、突如雷鳴のような轟音が鳴り響いた。
これは一雨来るかな? いや雷にしては音に違和感が?
などと気が逸れたわずかな隙に、懇ろしていた獣たちの様子が一変。
一斉に、全速力で、猛烈に突撃して来るではないか。
足音が地震が起きたと錯覚するほどの地鳴りを起こし、砂塵が山火事のように舞い上がった。
「おっ、おおっ⁉︎ 急に正気になりおったか!」
「なあに問題はございませぬ、少将どの。これまでのように馬防柵で足止めしつつ弓矢で仕留めましょう。近くまで掻い潜ってきたとしても、槍足軽たちが根絶やしにしてくれましょうぞ!」
「言われるまでも無え! ヤツらが射程距離に入るその瞬間に矢の雨を浴びせてくれるわ!」
百戦錬磨の指揮官、少将は動じることなく声を荒げ叫ぶ。
「弓足軽隊、構え! 槍足軽隊、挟撃する体勢を維持しつつ槍部隊長の指示を待て!」
二百の弓足軽が一斉に弓を引き絞る。
半月状になった弦がキリキリと音を立て、まるでコオロギの群れが合唱しているようだ。
しかしその威力は虫ケラには例え難く、向かい来る一トンを超える大牛といえど、放たれた矢が眉間に直撃すれば絶命は免れまい。
矢の仰角は若干の下り坂に合わせ四十三度。初速はおよそ時速二百キロメートル。水平方向にはおよそ時速百四十キロメートル。
弓矢の最大射程距離に標的が到達するよりも、およそ九秒早く矢を放つことになる。
対する獣の群れは俊足。目測で時速四十五から五十キロメートル。
馬防柵や弓矢による足留めがなければ、槍足軽だけではとても対抗しきれないエネルギーだ。
大きなエネルギーの塊が迫り来る。
練兵たちの緊張感が最高潮となる。
今、あと少しか、いや今か――。
――だが、張り詰めた弓から必殺の矢が放たれることは無かった。
またもや雷鳴のような轟音がこだまする。先ほどよりも時間が長く、音程が高く変化している。
大きな足音が響く最中のことだったが、その音は誰の耳にもはっきり届いた。
またか⁉︎ と、弓足軽隊がその音にハッとした瞬間、獣の群れはザザザザザザザッという地面を抉る音とともに一斉に急停止をし――
――否、ある種の獣だけが止まらずに突進してくるではないか。
「ウ……ウサギ⁉︎ それにアレはネズミの群れか⁉︎ さっきから一体何が起こっていやがる!」
「全くわかりません! そして恐ろしく速いです、あのウサギども! 射ちますか少将どの!? 射つべきですか⁉︎」
立ち止まらずに突撃を続けるのは小さな獣の大群だった。
その種類は豊富で、ウサギ、ナキウサギ、トガリネズミ、リス、モモンガ、ムササビ、ヤマネ、ヒメネズミ、ハツカネズミ、クマネズミ……と多種多様だ。
もっとも、動物学者でも無い兵隊たちには小動物の群れとしか認識されていないが。
「射つな射つな! 弓足軽隊総員、ウサギたちは狙うな! どうせ当たらん! それにヤツらに噛まれたところで脅威ではない! 近づくものは踏み潰しつつ、牛どもの突進だけ警戒を続けろ!」
「承知! 矢を射る体勢を維持したまま、足元の——」
と、応答する最中のことだった。
「のわぁぁぁぁぁぁぁ!」
「敵襲敵しゅ……ぅぐぁっ!」
「助けてくれぇっ! ああああ!」
両翼の、槍足軽隊だろうか、少将のもとに痛々しい叫び声が届いた。
完全に意識の外からの仲間の悲鳴。前方に全集中を注いでいたが、反射的に側方へ振り向いてしまった。
少将の目の先に映るのは、崩れ去った陣形、踊り飛ぶ血しぶき、逃げ惑う槍足軽たち。
そして、暴れ狂う獣の群れ。
オオカミ、キツネ、タヌキ、イタチ、テン、イイズナ、ハクビシン、オナガザル、ヤマイヌ、ヤマネコ……。
鋭い牙や爪を持つ肉食獣が、部下たちの喉元を容赦なく食い破っている。
イノシシ、カモシカ、ヤギ……。
成人男性と同等以上の重量を持つ鯨偶蹄目が、恐るべき突進力で部下たちの内臓を破壊している。
あまりにも凄惨な、長年の戦いの人生においても経験したことのない状況。
ただただ目を丸くするだけで、頭の整理が追い付かず言葉も出ない。
その足元をまさに、先ほどの小動物たちが駆け抜けて行く。
「ハッ! う……牛どもはどうなっている⁉︎」
小動物の疾走を見て我に帰る。
咄嗟に正面へ向き直り目を凝らすが、大型動物は直立不動のままこちらをジーっと眺めているのみ。攻めてくる様子はない。
その赤い目には人間たちへ向ける敵意や畏怖や同情の念などは一切感じられず、ただただ無関心に人間たちが殺されるさまを傍観しているように見える。
それがなんとも不気味だった。
「しょっ、少将どの! 横っ……。仲間たちが入り……入り乱れてっ、狙いが定められません! 矢を射てません!」
心臓が凍りついたような声を出す側近の部下に、もう一度周りの惨状を確認する。
槍足軽隊だけではない。既に弓足軽隊にまで被害がおよび始めていた。
さらに倒れ込んだ兵には小動物が群がり、眼球や頸動脈といった急所、傷口を、鎧の隙間から噛み千切っている。
迂闊に獣どもを射ち殺そうとするならば、味方に矢が当たってしまいそうなほど混乱を極めた状況だ。
百五十の槍足軽、二百の弓足軽、突撃対策の馬防柵と陣形。
圧倒的に優位な状況が、大型動物の急停止からわずか一分ほどで激変してしまった。
迫り来る死が全滅を予見させ、少将は慌てふためき指示を出す。
「総員退却っ! 逃げるんだっ! なんとしても後方の村にいる仲間のもとまで逃げ切れ!」
最後まで言い切る前に、蜘蛛の子を散らすように練兵たちが逃げ始めた。
武器を置き去る者がいるほど必死な逃走劇だ。
「しょっ……少将どの! 少将どのは早馬でお逃げくだされ! 後方の村の兵隊や本陣へ状況報告を! わ……わたくしが退路を確保いたします!」
ありがたい。若手ながら優秀な部下が傍に残ってくれている。
ブルブルと震えが止まらないようだが、先ほどより冷静さを取り戻しているようだ。
「襲って来るケモノの相手は任せたぞ!」
頼む! と叫び全速力で駆け出す。
早馬を繋げている村の馬繋場まではおよそ二百メートル。
少将の視界の端を、逃げ惑う部下たちに獣どもが簡単に追いつき襲いかかるのが見える。
人間とオオカミたちとではスピードが違いすぎる。
まるで、一方的な狩りだ。
馬繋場まで走り抜ける最中、飛びかかってきたイタチとキツネを側近の部下が弓矢で射抜く。
その一方、早馬に到達する三十秒ほどの間に、頭の中で今の状況に至るまでの流れを整理してみる。
ここは山々に囲まれ道が狭い。
連日の獣の襲撃は街道からの正面突撃のみであり、山中からの襲撃など一度も無かった。今日とて例外ではなかった。
いつもと最も大きく異なる点、それは謎の集団求愛行動を起こしていたこと。
そこから突然の突撃。さらに大型動物の急停止と小動物の継続的突撃。
あまりに奇天烈な行動の連続に、完全に前方のみに意識が持っていかれた。
そのタイミングでオオカミやイノシシなど、山中でも機動力のある獣による、背後からの奇襲。
長柄槍はその長さゆえに背後からの攻撃に弱く、瞬く間に陣形は崩壊。敗走に至る。
なんなのだ、この計算されたような流れは。
たかだか畜生ごときが、策を弄して攻めてくるなど、ありえぬ。
だがしかし、この顛末は他の部隊にも知らせねばなるまい。
対策を立てるのだ。陣を敷きなおすのだ。
この騒ぎで早馬が逃げ出してしまっていなければ、ものの三十分で後方の村まで辿り着けるだろう。
側近の部下の援護もあり、危うげなく馬繋場に到着する少将。
ありがたいことに、長年飼い慣らしてきた早馬は、パニックにもならずに大人しく主人を待っていた。
「おお相棒! 頼もしい! 後方の村まで一息で頼むぞ!」
いそいそと早馬をつなぐ縄を解き、すぐさま背に跨り手綱を握る。
間もなく優秀な部下もすぐ背後まで追いついてきた。
少将は上半身のみ振り返り、息を弾ませながら労いの言葉をかける。
「護衛、大義であった! おぬしも俺の背後へ続くがよい!」
「いえ、少将どの! わたくしは仲間の逃走を援護いたします! どうか後のことを宜しく――ッゴガプッッ!」
⁉
鈍い音と同時に聴こえた、奇声。
それを発した口から上は大きく歪んでおり、部隊一の色男と呼ばれた美貌が見る影もない。
明らかに、明らかに今、絶命した。
事態が掴めぬままに今度は早馬が暴れ出し、宥めようとする甲斐無く地面へ振り落とされてしまった。
地に横たわる少将のすぐ近く、早馬の後ろ脚には肉片、血痕、そして人間の髪の毛……。
疑いようもない、早馬が部下を蹴り上げたのだ。
「あ……相棒よ! お前が、お前が俺の部下を殺したのか! なぜだ⁉」
無様に見上げる少将の眼前には、|ほんの十秒前には無かった赤い瞳が煌々と輝いている。
その目は一体どうした、と話しかけようとする刹那、少将の両眼は真っ二つに引き裂かれ同じ色に染まった。
「熱ッ! 熱いぇあっ⁉」
急に視界が真っ暗になり、猛烈な熱感に襲われる。
同時に、耐え難いほどの痛覚が全身の動き固く縛りつける。
「ビャッコちゃんスゴいじゃん! 一瞬でお馬さんを味方にできちゃった!」
「んにゃあ、普通はもっと遠くからでも手下にできるにゃよ。でもコイツの忠誠心がにゃかにゃかのものだったから苦労したのにゃ」
風鈴のような少女の声と、しゃがれたダミ声がすぐ近くに聴こえる。
閉ざされた視覚の反動か、聴覚が急に鋭敏になった気がする。
頬を流れる熱く紅い洪水を感じながら、懸命に生きる術を模索する。
「なにやつ……だ……?」
問いかけ。
しかし答えは帰ってこない。
逆に少女の声が問うてきた。
「キミが少将さんね? 手短に答えなさい。この先の村々にはどれだけの兵を残してるの? それから、大薊城にいる大軍が国境まで到達するまであと何日の予定?」
この少女、なぜこちらの都合を把握している?
いや待て、激痛で思考がまともに働かないにしろ、この声には聞き覚えがある。
どこかで。
どこか……。
「き、貴様その声……! まさか八重樫家の三女ではあるまいかっ……! たしか謀反を企てて殺されたはず!」
そうとも。この声は幾度も訓練や演習で聞いたことがある。筆頭軍師、八重樫殿の三番目の娘のものに違いない。
軍師の真似事とはいえ、実戦演習では末恐ろしいまでの鬼才ぶりを示していた少女の声だ。
先日処分されたと聞いていたが、一体なぜこんなところに……。
「あらら~、ざーんねん。声だけでもわかっちゃうんだ。んー、バレちゃったらもうダメね。拷問して聞き出す時間も無いし。それじゃあビャッコちゃん――」
突如、涼やかな声の温度が下がり、凍りつくような音となった。
「――殺しなさい」
声を出そうとしたが、空気が口以外から漏れ言葉にならなかった。
少将の喉元はボロ雑巾のように引き裂かれ、噴水のごとき血潮を噴出した。
「……なあ、アレ、明らかにおかしいよな……」
何気ない会話から命の灯が消えるまで、その間わずか十分足らず。
次の十分後には逃げ散った兵たちも狩り尽くされ、三百を超える肉塊となった。




