21 : ゼロとイチへの帰還
「何だと?!」
「?!」
一瞬にしてその場に緊張が走る。
端末のミリアナは頬を紅潮させ、必死で状況をシンに伝えた。
「プログラムがすべて凍結しているの! 見た事もないプログラムよ、ウィルスさえも取り込まれて働かないの! 聖譚曲に絡みつくみたいにして増殖してるように見えるわ」
「増殖……まさか!」
シンの眉が跳ね上がった。
「そいつは俺がさっき構築した増殖プログラムだ。気をつけろ、ミリアナ! ハルカがその辺にいる筈だ!」
「ハルカですって?!」
切羽詰まった事態だ。
コウが口を開こうとし時、さっと後ろから影が飛び込んできた。
何だ、と思う間もなく目の前が光に包まれる。
「聖譚曲を返せ! 今すぐ現実世界に戻せ!」
振り向いたコウの目に飛び込んできたのは、顔を真っ赤に腫らしたクライだった。先ほどの熱風でやられたのだろう。
クライは焦げた金髪を振り乱しながらプロトタイプの側面にある操作パネルに齧りつく。
「クライ! バカ! 逆だ! そっちは情報化の操作ボタン……」
シンの言葉は途中までしか聞こえなかった。
コウはセイを担いだまま、虚構へと吸い込まれていった。
**********
目の前でセイとコウが消えた。
これは、二人が虚構へと飲み込まれてしまったことに他ならない。
「こんの……バカやろうっ!」
思わずクライに掴みかかったが、顔を真っ赤に腫らした彼の目の焦点は合っていない。
駄目だ。もう、こいつは――
理性はそう判断したが、感情はそうもいかない。
「聖譚曲はもうねぇんだぞ! それを情報化しやがって……あいつらまで迷子にっ……!」
原子具現化を可能にする聖譚曲が情報空間に消えた今、あの二人は現実世界に戻れない。
永久に情報空間を彷徨うことになる。
握りしめた拳が震えた。
「もうあいつらが現実世界に戻ることは出来ないんだぞ?!」
一見すると、常に冷静さを保っているようにも思えるシンだが、その内面は真逆の性質を持っている。だからこそ努めて心の表面を穏やかに保つようにしているのだ。
「聖譚曲はもうない。誰も虚構からは帰ってこられない」
「黙れ、クライ」
クライの言葉がシンののらりくらりとした仮面を取り去っていく。
「創りモノの彼らも、君のシェリーも、僕の母も、誰も戻ってこない」
「貴様、分かっていてわざと」
「そうだよ、シン。君が望んだことだろう?」
「……っ!」
その瞬間、全身の血が逆流したかと思った。
気づけばクライの頬を殴り飛ばしていた。
残った拳の痛みと、収まりきらない感情と。
「君は何がしたいの? 僕は今でも分からないよ。聖譚曲を否定するくせに迷子を擁護して不協和音を処分して、挙句に『ゼロ』を育てて……僕にしてみれば、君の言う事の方がよっぽど理解できないけどね」
自分の中の最大の矛盾を突かれ、シンは言葉に詰まった。
まるで旧時代の永久凍結。
現段階ではどうする事も出来ない、迷子を救う方法が見つかる未来へのタイムリープを再現しているにすぎない。
それなのに、もともとは同じ人間の情報であった不協和音を、周囲に害をなすという理由だけで消滅させている。
まるで、疫病の発生した村を焼き払う、原始の時代の荒療治のように。
そう、今は原始時代なのだ。
不協和音の治療法さえもない、情報空間の原始時代。
「だから未来に託すんだろうが……!」
いま、出来る最大の努力をする。
そしていつかの未来に、解決を託すのだ。
「それをすべて壊すんじゃねえ。手に負えないオーパーツなんぞに頼るんじゃねぇ……っ」
未来をすべて消してしまうような、恐ろしい兵器に頼ってどうするのだ。
何かを望む限り、望んで目指す限り、文明は進んでいく。
「文明はまだ滅びねぇよ。まだ、此処は終着点なんかじゃねぇからな」
重力波が発見されたように、放射能を打ち消す事が出来るようになったように、いつかきっと不協和音も迷子も救える日がやってくる。
現実世界で昏睡を続ける人々を、最小限のリスクで目覚めさせる方法を見つける日がいつかやってくる。
「だから、進化の全てを否定する聖譚曲だけは、絶対に具現化させねぇ!」
クライの胸倉をつかみ、額を突き合わせるほどに近くで、耳元で、一言一言言い聞かせるように。
シンは言葉を発散していった。
クライだけでなく、自分自身の意味を確立し、一つずつ確認していくかのように。
大丈夫だ、このまま自分が信じた道を進むのだ、と言い聞かせるように。
「見てろ。コウもセイも、このまま現実世界から消えさせたりしねえよ」
「無駄だよ。奇跡は一度きりだ。あの『ゼロ』を作った時に、奇跡は終わったんだよ、シン」
喉の奥から絞り出すような、クライの笑い声。
その笑いと不安を圧し潰すかのように、シンは低い声で言い放った。
「終わらせねぇ。俺を誰だと思っている?」
蒼穹の幽鬼は、再びプロトタイプの端末と向き合った。
6年前に『ゼロ』を作った時と同じように。
「帰ってこい、セイ、コウ。迷子係が迷子になってどうする。お前たちは迷子になるには早ぇんだよ……!」
**********
ジニアは一人、アルトパルランテの通路を駆けていた。
体力はすでに限界を超えている。
ふらり、と華奢な肢体が傾いで、壁にもたれかかるように座り込んでしまった。
この通路は、先程、迷子係と共に駆け抜けた場所だ。今も多くの警備員が床を埋めて折り重なっている。誰のものとも知れぬ血が床に零れていた。
自分の息が荒いのが感じられた。
シンが充電した、と言った傘の柄をぎゅっと握りしめる。
「――人間様は……何欲しい……」
喉の奥から、かすかに歌が漏れる。
この歌が思わず口をつくのはなぜだろう。
ジニアは少しずつ、心の奥底を探っていく。
「文明開化の鐘の音……天の神様、仏様」
それでも、この歌で思い出すのは優しい声。
きっと父親の声。
覚えているのはそれだけで、情報危機当時、まだ幼かったジニアの中に他の思い出はなかった。
しかし、情報危機の事を思い出すと、酷く怖い。
「何が欲しい、何が欲しい……」
覚えていない過去で、すべてを失ったから。
ジニアは、今も失う事を恐れていた。
だから、失う前にすべてを破壊してきた。立ちふさがる敵も、不協和音も、記憶も思い出も……殺戮を厭う感情さえも。
「……獲ってしまえど夢現」
本当は相棒のダリアがいなくなって、酷く傷ついていた。
麻痺した心についたその傷は、少しずつ血を流していた。
だから、次を失う事を酷く恐れていた。
自分でさえ分からない、心の奥底で――
「叶う事さえ適わない」
叶わない。
適わない。
敵わない。
「……………………だめ」
まだ、負けるわけにはいかない。
あの人は、話したい事がある、と言ったから。
「…………戻らなくちゃ」
少しずつ変化が訪れる。
創りモノが創りモノである事を自覚した時、確かに何かが変わった。留まらず、前へ進む力を手に入れた。文明が誕生してからずっとそうなってきたように。
ジニアは、もと来た道を引き返していた。
**********
ユニゾン・システムとは違う感覚で虚構と現実がリンクした。
頭の中身をすべてさらけ出されたような感覚と突然小さな部屋に押し込められたような感覚が一度に襲ってきて、目眩がした。
が、それも一瞬で。
気がつけば二人は漆黒の虚構に放り出されていた。
慣れた疑似重力に、コウは頭を押さえながら起き上る。
すぐ隣に倒れているセイの無事を確認してから、コウは落ち着いて自分の状況を確認する。
「今のは、プロトタイプでボクとセイが情報化されたと見ていいんでしょうか。現実世界に生体は……残ってないんでしょうね」
まず、スコープを構築し、周囲の解析を行う。
が、すぐにコウは愕然となった。
「これは……聖譚曲?!」
目の前に立ち塞がっていたのは、さきほどまで現実世界に存在した巨大な情報化装置の姿だった。天を衝く円錐形の黒々としたボディ。
ところが、様子がかなりおかしい。
装置の周囲を囲むようにして緑色のモノが生い茂っている。
よくよくみればそれは蔦のようなもので、今も上に向かって伸び続けているようだ。最下部はほぼ蔦に覆われ、緑に変色していた。
「セイ! コウ!」
情報空間なのに突然名前を呼ばれてびくりとする。
が、その相手を見て納得した。
息せき切って駆けてきた金髪の女性に、蔦に覆われた聖譚曲を指しながら問う。
「ミリアナ。これはいったい……?」
「さっきセキュリティを破る時にシンが構築した増殖プログラムらしいわ。今は、聖譚曲を守る最高の防御壁と化しているけれど」
つまり、あの増殖プログラムを何とかしない限り、聖譚曲を破壊する事が出来ないというわけだ。
これで失敗すればこれまでの事が水の泡になりかねない。
動揺を悟られないよう、出来る限り冷淡な声を出す。
「……なぜシンのプログラムが、ということはさておき、ボクはどうしたらいいですか?」
「あなた、情報戦と解析のどちらが得意かしら」
ミリアナの質問は唐突だ。
「どちらかというとボクは解析の方が専門です」
答えると、ミリアナはちっと舌打ちして腰に手をあてた。
「いい、じゃあこの増殖プログラムを解く手立てを考えなさい。あたしはその間にこれを使った奴を倒してくるから」
「分かりました」
「頼んだわよ!」
ミリアナはそう言って去っていった。
仕方がない、ここまで来たらやるしかないだろう。
コウは周囲に光文字のパネルを巡らせ、目の前の増殖プログラムを解析した。
さすがはシンの組んだプログラムだ。即席で作ったとは思えないほど骨格がしっかりしている。ちょっとやそっとでは崩せそうにない。
「周囲の小さい情報を取り込んで成長するようですね……なんて非常識なプログラムですか」
皮肉にもミリアナと同じ台詞を吐き、コウはさらに解析を進める。
「絶対量の上限はないようですが、一度に取り込める情報には限りがあるようですね。と、言う事は大量の情報を一気に流し込めば活動は少なからず停止させられるでしょう」
そこへ自己破壊プログラムを打ち込めば仕留められるはずだ。
「聖譚曲を放り込んで共倒れをお願いしたいところですが、そううまくはいかないでしょうね」
大量の情報を流しこむ。
さらに自己破壊プログラムを打ち込む。
もう時間はない。すでにかなりロスしている。このまま長引けば聖譚曲を破壊できないうえに全員が脱出の機械を失う事になってしまう。
焦るな、焦るな。
「大量の情報……大量の……」
その時、コウの脳裏にふっと浮かんだ。
大量の情報。
それならある、ここに、ある。
生体情報だ。
複雑な元素配列とエネルギー値を持つ人体は相当な情報量だ。
ああ、そうか。
――創られたモノにはそれに相応しい末路が用意されているのか。
「少しは変われるかと思ったんですが」
未だ眠り続けるセイの腰から血のついた銃を引き抜く。
「借りますよ、セイ」
情報空間内において、弾切れと言う事はあり得ない。
自己破壊プログラムをセットし、コウは馴れない手で銃を構えたが、どうもしっくりこない。構えもどこか不自然だ。
それでもコウは唇に微笑みを浮かべると、聖譚曲に向かって歩き出した。
しかし、決意を胸に聖譚曲へと向かうコウの腕を、後ろから掴む手があった。
血に染まったその手は青白く、とても力強いとは言えないが、強い意志に満ちていた。
コウは冷たい声で言い放つ。
「放してください、セイ」
「……いやだ」
苦しそうな息で、それでも行かせまいと掴んでいる手の力は本物だった。
とても動けるような状態でないのは分かっている。もしかすると、すぐに戻っても間に合わないかもしれないくらいに。
だからこそ、急がなくてはいけなかった。
「分かるでしょう、もう時間がないのです」
微かに震える声。
それは消滅の恐怖を知った人間のモノだった。
「……」
返答はない。
相手は手負いなのだから、と無理に振りほどこうとした瞬間。
突然、セイが触れた部分が酷く熱くなった。
「熱っ……!」
振りほどけない。
そう思って見ると、なんとセイの手がコウの腕の中に溶け込んでいた。
「セイ、勝手に防御を解きましたね?!」
常に生体情報を包んでいる防御がいつの間にか二人とも取り払われている。
思わず声を荒げたコウは、自らの声に揺さぶられ、頭痛を誘発する。全身を貫く感覚に抗えず、思わず呻いた。
セイの手がめり込んだ腕は燃えるように熱く、痺れるほどの共鳴を伝えている。
「頼むコウ、俺を忘れないでくれ」
手から腕へ、腕から胸へ、セイの情報がコウの中に流れ込んでくる。
熱い。全身が、熱い。
それより何より、理屈でない衝動がコウの中を駆け巡っていた。
二人の境界は曖昧になり、触れたところから溶けあって沈んでいく。
「……ぁあっ!」
声を挙げればその分だけ背筋を貫くような衝動が駆け抜けるだけだ。
「俺は消えるけど、俺を忘れないで欲しい。俺は創りモノだけど、確かに存在したって覚えていてくれ。コウは消えるな。だってお前は『人間』なんだから」
ゼロとイチの集合体は、崩れるように重なり合って、混ざり合って、蕩けていく。
コウの意識とセイの意識が、二人の持つ記憶が浮遊して、一つになる。
「やめ……セイ……! キミ……は……!」
その意識からセイの考えを読み取ったコウは、必死に止めようとするのだが、その意志よりも強い快楽の波に押し流されて、動く事が出来ない。
止められない。
コウの代わりに消滅しようとしているセイの意志は絶対だった。
そこに、恐怖はない。
あるのはコウを消させないという強い思いだけ。
「これは俺のだから返せよ。使いたかったら練習しろよ、コウ」
ゆっくりと混ざり合ったモノが別れていく。
永久とも思えた交わりが終わる。
初めて経験したルバートにそのまま倒れたコウ。
セイはいつものようににっと笑って左手で銃を構えた。まるでそれが自分の一部であるかのように。
「さよなら」
くるりと背を向けて、聖譚曲に向かって行くセイ。
その背は決意に満ちていた。
ルバートの余波で動く事の出来ないコウは、ただそれを見送ることしかできない。
声を出すだけで焼け付くような熱さが全身を駆け抜ける。
それでも。
「セイ――!」
精いっぱいに叫んだ声が情報空間内に響き渡り、セイは一瞬だけ振り返って微笑み。
そして。
聖譚曲の中へと、消えていった。
同時に聖譚曲を包んでいた蔦が霧散し、後に残っていた黒々とした本体も、まるで天へと召されていくように音もなく消え去っていった。
すべて「ゼロ」と「イチ」に還元され、すべては幻だったかのように。
後に残ったのは、静寂だけが支配する虚構だけ。
セイと名付けられた生命体がいた証は、それらと共にすべて消え去ってしまった。
情報空間で崩れ落ちたコウは、その瞬間、シンによってプロトタイプで現実世界へと引っ張り戻された。
どさり、と地面に投げ出されたが、抵抗する気も起きずにそのまま転がる。
肩や足がかなり痛んだが、どうでもよかった。
「起きろ、コウ! プロトタイプを破壊して脱出するぞ!」
シンの声でのろのろ、と起き上がる。
力が入らない。
これまでにない喪失感が全身を覆っている。
感情と共に思考も停止してしまったようだ。
「コウ! 目を覚ませ!」
「でも、セイが」
「いいからお前はポイントAでジニアと合流しろ」
「一人で行けというんですか?」
「しっかりしろコウ!」
必死でコウの肩をゆするシンの頭上から、か細い声が降ってきた。
「…………どいて」
その言葉通りにコウの手を引いて飛び退ると、ふわりとスカートの少女が降りてきた。
閉じた傘をプロトタイプに向け、どん、と突くと、一瞬にしてプロトタイプは灰燼と化した。
「ジニア、先に行けと言ったはずだが?」
「……心配で……戻ってきた」
ジニアはつかつかとコウの目の前に立ち、すっとその小さな手を差し出した。
コウの真紅の瞳からは幾筋もの雫が流れていた。
「…………約束、破らないで。私はまだ貴方の話を聞いていない」
少女の声は静かに響いた。
少なくともたった今相方を失くしたばかりの少年の心のどこかには触れることに成功した。
恐る恐る少年は少女の小さな手を取り、足を前に進める事が出来た。