01 : 何も始まらない説明文
人類が待ちに待ったであろう23世紀の到来は、あまりにも呆気ないものだった。
空から恐怖の大王が降ってくる事もなく、かといって人間が宇宙に飛び出したかと言われればそうでもない。宇宙ステーションなどという単語はもはや知っている人間の方が少ないだろう。人間は数百年目指し続けてきた宇宙への進出に見切りをつけた。
だが、代わりに広がった世界もあった。
すべてが「ゼロ」と「イチ」で表わされる二進法の世界である。情報空間はもはや無限大とも呼べる広さにまで膨張し、第4の次元とまで呼ばれていた。
すべての処理を終えたコウは、緩く後ろでまとめた赤メッシュの入った黒髪を風に流しながら、ゆっくりと街を歩き出した。
かなり前から主流となっている有機素材の壁を持つ建物が、左右から迫るように整然と立ち並ぶ。足元の地面を覆うのは、太陽光を吸収し、それを65%という驚くべき効率で総合エネルギーに変換するシステムへと直結しているパネル。ほぼすべての公道がこのパネルで覆われてから既に長い。発明された当初は世紀の発明と言われたのだが、今やそれも当たり前のモノとして受け入れられてしまった。
いつの時代も、人類は文明の恩恵を忘れてしまうものだ。
街の中央には巨大な建物が太陽の光を遮って聳え立つ。黒光りするそれは、人気のないこの街の荒廃を象徴するかのように佇んでいた。
以前この街は、世界でも有数の電脳都市として情報社会を謳歌していた。
しかし現在、道を歩いても住人に会う事はほとんどない。いたとしても、先ほどのように職を失った浮浪者だけ。10年前は、歩行者などいないほどに地上路も空中路も車が走っていたのだが、その影もなく、それどころか生物の気配自体が酷く薄いのが現状だ。
コウは、しばらく歩いた後にある建物の前で立ち止まった。高い建物が多い中では埋もれてしまうような、窓のないシンプルな佇まいだ。
「4分遅刻……許容範囲内ですね」
左手首に付けたアナログ時計をチェックし、コウは扉の隣に設置されたタッチパネルを操作した。
小さな電子音がして、扉が横にスライドする。
その瞬間、相棒であるセイの声が響き渡った。
「おっせーよ、コウ。シン兄の機嫌悪くなったらどーすんだよ」
「すみません。でも、ボクにすべて押しつけて帰ったのはキミでしょう?」
「細けぇこと気にすんなよ。ハゲるぞ?」
そう言って肩をすくめたのは、先ほど男に銃を突き付けていた黒髪の少年――コウにとっては仕事上の相棒であり、唯一の友人とも呼べる相手である。
路地裏で男に向けていた物騒な笑みはどこへやら、少年らしいはじけるような笑顔を浮かべ、コウを迎え入れた。
灯りが乏しい通路を幾らか歩いた後、二人は扉の前で立ち止まった。
黒髪のセイが簡単に操作すると、扉が開いてむき出しになっている機器の数々が二人の少年を出迎えた。コードも基盤も全く保護されていない一見無残な姿にも見える機械の集合体。起動を示すダイオードの光が時折思い出したように煌めいている。
この光の気配の薄い小さな場所は、二人の少年が所属する組織の主要施設だった。
薄暗いこの部屋の中央には彼らのボスがいる。まだ若い、青年とも呼べるような年ごろの彼は5年前に然る要人から個人的な要請を受け、この組織を設立したのだ。
その年若いボスは、いくつも並んでいるモニターから目を離す事もなく、入ってきた二人を出迎えた。
「遅かったな、コウ……4分45秒の遅刻だ。セイが待ち草臥れていたぞ?」
カタカタとキーボードを叩く音がする。この時代において、キーボードを使うのは非常に珍しい。
「遅れた事は謝ります。ですが、出迎える時くらいこちらを向いたらどうですか?」
「ああ、悪い悪い。いろいろと面倒な報告があってな」
赤目のコウに言われ、ボスは椅子に座ったままくるりと振り向いた。
相手に柔な印象を与える青い瞳と、二人の少年と同じ黒い髪。ゆるく開いた口元には火のついたタバコがくわえられている。シン=オルディナンテ――10年前の情報危機後に設立された事後処理機関「ソルディーノ」の創始者にして最高責任者である。
とても重要組織の責任者とは思えないが、腕は確かだ。こう見えて、能力式の初期教育課程をわずか6年間で卒業し、さらに肩書きを5つ以上所有するという数少ない人間である。
とはいえ、赤目のコウ自身も同じように初期教育課程を6年間で終え、弱冠16歳にして2つの肩書きを所有するエリートなのだが。
シンは青い目を細めながら肩を竦めた。
「悪いついでに、一つ行ってきてくれるか?」
「……俺達、来たとこなんだけど?」
黒髪のセイが不機嫌に返す。
「緊急事態だ。迷子担当はお前たち二人しかいないんだ、ちゃんと働いてもらわないと困る」
「ったく……」
セイは不機嫌を隠すことなく舌打ちすると、隣で表情もなく立っていたコウの肩にポン、と手を置いた。
「さ、行こうぜ、迷子係」
赤目のコウもため息をつき、シンの部屋を後にした。
この街が情報危機以前に非常に発展した理由の一つが、「ユニゾン・システム」の生みの親である組織がここに存在したという事実だ。
ユニゾン・システムというのは、情報空間内で現実世界と変わらない活動を可能にした装置の事である。
街の中央に大きな拠点を構えた大組織「アルトパルランテ」によって、ユニゾン・システムが開発されたのは今から二桁の年月をさかのぼる。
それはまず、全身を駆け巡る神経系を情報空間内に再現する事から始まった。
生体に張り巡らされた神経系を情報空間内に再現し、感覚情報を全身から受け取り全身に向けて意志を発令する神経伝達電子信号を生体から読み取って、電子信号を疑似神経に再現する。そして、逆に疑似神経が受け取った信号をオリジナルの生体に復元する。そうする事で情報空間内の自らの体を自由に操り、思考し、さらには様々な体験を可能にしたのだ。
情報空間内に再現する疑似神経系は、もともと備えられている雛型から個人差を修正し、さらには神経系の成長をモデリングした自動更新機能を備えているという複雑な動きにも耐えうる上に生体への影響も少ない、非常に優れたものだった。
こうして人間は情報装置内で生体と変わらぬ活動をすることが可能になったのだ。
黒髪のセイと赤目のコウは、二人揃って滑らかな球状をした「ユニゾン・システム」内に入り込んだ。
10年前の情報危機以来、製造が中止になったはずのユニゾン・システムは、二人にとっては銃と同じ、慣れた商売道具でしかなかった。
ユニゾン・システム内は光がない。いったん扉を閉じればシステム内は通常呼吸可能な充填液で満たされ、神経の電気信号を読み取るセンサーが周囲一面に発動する。
コウは真っ暗なシステム内で目を閉じた。
「ユニゾン・システム起動、シンクロ率0.3%……1.7%……4.8%……」
どこからか知れない、シンの声が耳に届く。
ユニゾン・システムの開発により、ゼロとイチで支配される情報の世界はほぼ無限大とまで思えるほどに膨張した。
真っ先に飛びついたのは公共機関と教育機関だった。
物理的な移動なしに学校へ通い授業を受ける事が出来る。また、仕事場へ行かずとも作業が出来る。それは、すでにインターネットによる情報化が少なからず進んでいた社会で、新たなツールとして瞬く間に取り入れられた。
間もなく、一般企業もオフィスを閉鎖し、情報空間内に会社を移転し始めた。
他にも、情報体の受けた信号を現実世界の生体に伝える「フィードバック」という機構を利用した医療分野、特に精神科の治療が進められた。身体的な病気や怪我と違い、現実では決して触れる事の出来ない「精神」は、情報空間内では疑似神経系の情報体として存在する。そこに直接働きかけることで、精神的な病の治療を行ったのだ。
その後、システムを応用した娯楽も誕生するに至り、第4の次元とまで呼ばれたその世界は、大量の『人間』を包有し始めた。
現実世界に見切りをつけた者、有り余る財力を持ち最後の快楽を求める者。
この時点で、情報空間は飽和へと近づいていた。
大量の人間が溢れ返る空間内、無理な活動を行ったり、情報空間内での事故にあったりと、フィードバックが強過ぎて身体に変調をもたらす人間も少なくなかった。情報空間内における行方不明者、死者は今となっても数え切れない。
また、ユニゾン・システムで情報空間内に存在していた場合、現実世界の体が死亡したとしても、情報空間に取り残された生体情報は消える事無く残っている。
現実世界の生体を失くした情報体が、情報空間に残っている事は多々あった。
こうして膨れ上がってく情報空間に、ある時こんな噂が流れた。
――情報空間の神経系を残し、生体を抹消すれば情報空間で無限大の時間を生きていくことが出来る
ある意味で、不老不死理論の完成だった。
「シンクロ率70%オーバー、そろそろ繋ぐぞ、二人とも」
何処からともなく響いて来るシンの声と共に、自分の体の感覚が薄くなっていく。
コウはこの瞬間がたまらなく嫌だった――無論、感情を表に現すのが不得手な彼はそんな事を口に出したりはしないが。
廃棄された情報空間、通称「虚構」と現実を繋ぐ一瞬。その一瞬だけ、自分がこの世界のどこにも存在しないかのような感覚に陥ってしまう。
「シンクロ率が90%を越えたら迷子の位置情報を元に適当に転送するから後は適当にやれ」
「そりゃねぇぜ、シン兄!」
セイの叫びも虚しく、感覚が虚構とリンクする。
10年前の情報危機で置き去りにされた世界に飲み込まれていく。
10年以上も前の話、不老不死理論が都市伝説的に広まり、それを真に受けた人間が大量に発生した情報空間には、本体を失った情報体が溢れ返った。
現実世界から逃げ出した者、年をとった権力者、はたまた子供の好奇心。
俗に言う「迷子」の誕生である。ユニゾンする生体を持たない情報体は年を取らず、情報空間にただ在り続けた。
10年余り前、回線を伝って情報空間内を自由に行き来するようになった情報体のみの亡霊は、徐々に世界規模で問題視されるようになった。
そして、溢れ返った迷子たちを回収する役目を負う機関がいくつも設立された。シンの所有する事後処理機関「ソルディーノ」もその一つである。迷子の回収だけでなく、他にも情報空間の地図化や廃棄されたサーバーの情報的・物理的破壊なども請け負う、情報空間の掃除屋的存在である。
その中で、コウとセイは迷子回収の役目を負っていた。
切り離され、閉ざされた虚構の空間で迷子になった亡霊達に救いの手を差し伸べていた。