09 : 隠された感情、育たない感情
「正解です、よくできました」
抑揚のない声でコウが賞賛し、ミリアナは視線を伏せ、シンは新しい煙草に火をつけた。
シンの吐いた煙で一瞬視界が白くなる。
「『聖譚曲』は、ゼロとイチで出来たただの情報を本物の人間に変換するシステムの事だ。クローンやハイブリッドなんかメじゃない、本物の人造人間だ。しかも、見た目も中身も完全に人間だ――要するに、ヒトはとうとう自分の手で人類を作り上げる事が出来るようになったわけだ。めでたいねえ」
シンは煙と共に神に対する冒涜を吐いた。
「神の御業を真似ると天罰が下るはずなんだが、どうやら神様とやらまで『怠慢』だ」
冷たい目。侮蔑しきったその眼差しに、セイは思わず息をとめた。
「とりあえず『聖譚曲』については分かったな」
セイは声を出す事も出来ず、ただこくりと頷いた。
ああ、そうか。人間は「創る」ことが出来るのか――麻痺したように脳が働かない。コウ、コウはいったいどんな顔でこれを聞いている?
真紅の瞳に映る感情はいったい何だ?
振り向きたかったが、恐ろしくて振り向けなかった。
静まり返った空気が部屋を満たしている。時折唸りを上げる冷却用のファンと古いハードの起動する音が唯一の振動だった。
その沈黙を破ったのはシンだ。
「『聖譚曲』は無から原子レベルで人間を作る機械だ。それ自体すでにかなりの脅威だが、本当に恐ろしいのはそこじゃない。原子を具現化し、モノを――それも生命体を自在に作れるようになったことに問題があるんだ」
その蒼い瞳は灼熱の炎を灯している。
「応用はいくらでも効く。合成獣どころか、完全な人造生物、殺傷能力の高い細菌でも、要人の完全な複製体も、それどころか全くこの世に存在しないはずの人間まで生み出す事ができる。筋力、頭脳、性格まで思いのままだ。太古のオリンピックなど目じゃないトップアスリートが次々に誕生するだろうよ。もちろん、スポーツに留まらず真っ先に軍事に応用されるだろうな。そんな事になったら、いったい人間はどうなる?」
21世紀から、ずっとクローンの在り方が取り沙汰されている。それは、「クローンに戸籍は必要か?」という問題だった。が、クローンとして作成した後の環境によって同じ遺伝子と言えど別の人間になる、つまり環境で全く違う性質が育つということが分かり、クローンにも人権が認められた――本体の特殊双生児として。
ただし、今も規制は非常に厳しい。情報危機以降はそれどころではないが、それ以前は国家の憲法にまで追記載されるほどの厳しい規律が定められていた。特に、死者のクローンは認められていないにもかかわらず罰則を受けてまで再生する遺族が後を絶たず、規制は困難を極めたという。
もし「聖譚曲」が完成すれば、また同じ混乱が社会に生じるだろう。
情報危機で人口が半分近くに減少したこの極東地域で、さらなる混乱は社会の崩壊を意味する。下手をすれば人類の存続自体が危ういかもしれない。
もしかしたら、を考え始めればキリがない。
「世界政府には既に打診したが、ヤツらそう簡単には動かんだろう。それよりも、多少荒っぽくても俺達が動いた方が早い」
「聖譚曲は現在のモノを破壊して、アルトに残っているデータを抹消してしまえば、あたしが持つバックアップデータがない限り新しく製作するのにまた何年もかかるはずよ。今は、とりあえず時間が欲しいの。人類がそれ(・・)を受け入れるまでの時間が」
「とりあえず破壊しておいて、その間に対策を……ですか。シンらしい、物騒な作戦ですね」
「まあ、問題は聖譚曲をぶっ壊すと、アルトに殺されるって事だ。壊しに行く前に殺られるかもしれないわけだ」
「だから、ボクとセイに声をかけたんですね」
「そう言う事だ。手伝ってくれるか?」
「ええ、愉しそうですから」
コウは寸分の隙もなく肯定した。
セイは、震えた。これはいったい何だろう? 敵の大きさに恐れたのか? それとも武者震いなのか?
まるでダリアと「ルバート」に入った時のように抑えきれない衝動が全身から溢れてきた。
「行くに決まってるだろ」
その言葉で、シンはタバコをくわえた唇の端をあげた。
ずいぶんと長く伸びていた灰がぽとり、と床に落ちた。
「ミリアナは既に生体を失っている。確実ではないが、十中八九アルトに消されたと見ていいだろう。その直前、ミリアナはこのバックアップを持てる限りの情報と共に迷子としてアルトの広大なサーバーの端に放り出した。俺の元へ救難信号を出し、聖譚曲破壊の最後の希望となるために」
「それをボク達が回収した、とそういうわけですね。シン、あれがアルトのサーバーだという事もミリアナが迷子でない事も、すべて分かっていてセイとボクをあの場所に放り出したというわけですか」
「怒るなよ、コウ。俺だって今朝の救難信号を見て慌てたんだからな」
どこが慌てているのか、と言いたくなるほどにシンの物言いはふてぶてしい。
コウも諦めたらしく、そこで会話は途切れた。
沈黙になると、どうも落ち着かない。ジニアの録音を聞く限り、シンもミリアナも既に聖譚曲のプロトタイプで人間を創りだしているはずだ。しかも、その対象が目の前にいる。
それなのに、二人とも全くおくびにも出さない。
自分が過剰反応し過ぎなのか? それとも、ジニアの録音自体が……
「セイ、さっきから大人しいですね。どうかしました?」
はっとするとコウの深紅の瞳が目の前にあった。
まるで吸い込まれそうなほどに美しいその瞳は、何もかもを見透かす鏡。
コウ、お前は本当に創られたイキモノなのか――?
「どうせキミの事ですから、ダリアの事でも気にしているんでしょう? 忘れてしまう前にさっさとシンに報告しなさい」
ダリア。
その名を聞くまですっかり忘れていた。
ああ、そうだ。むしろそれが先だ。
「シン兄、悪いんだけど、報告しなくちゃなんねぇ事があって」
とは言ったものの、「ルバート」で防御を無理やりに外されて前後の記憶はかなり曖昧だ。あれは自分の感覚だったのか、ダリアの感覚だったのか、誰の記憶なのか、夢なのか現実なのか。
すべての境界が曖昧で、すべての事柄が不確定だった。
「何だ? 時間がないから簡潔に言え」
コウといいシンといい、なぜこうも簡潔性を追求したがるのか。
「えー……街でダリアに会って、変な酒場に連れ込まれたんだけどさ、そこが『ルバート』を非合法に営業してる店で、俺も無理やりそれに押し込まれて……てか、それまで『ルバート』何て知らなかったんだけどよぉ」
ジニアの録音の話は省いた。
あの会話を聞いた事は、絶対にコウに知られたくない。
「で?」
「事故った。俺は無事だけどダリアは壊れた」
「かなり簡潔だな。合格……と、言いたいところだが、ダリアの様子は?」
「情報体は不協和音化したからその場で処分した。生体にもフィードバックが大きかった、精神も肉体もほとんどもうダメだ。その酒場のマスターが医者と警備を呼んだんだけどさ、気がついたら俺が完全に悪者になって」
「逃げてきた、というわけか。通りで表にいろいろ集まってる筈だ」
「……え?」
「一応撒いたんだろうが、お前ら有名人過ぎて身元がモロバレなわけだ。このクソ忙しい時に余計な仕事増やしやがって」
「げげっ」
どうやら警備がここまで追ってきたらしい。
「何とかしてやる。お前ら、特にコウ、即刻着替えて来い。これから数日、休む暇なんかなくなるぜ?」
もう一度キーボードの方にくるりと体を向けたシンは、それで終いとばかりに真剣にモニターに向かった。
これからとてつもなく大変な事が待って言うというのに、厄介な事を巻き込んでしまった。
コウは怒っていないだろうか?
ちらりと盗み見た横顔には相変わらず表情がなく、セイはほんの少しほっとした。
シンの部屋を後にし、割り当てられている個人の部屋に移動する。
その間もコウは特に何も言わなかった。
よく考えてみれば、会話する時はいつもセイの方から話しかけているのだ。セイが黙り込んでいれば必然的に会話は成立しない。
沈黙の中に歩を進めていると、通路の向こうに見慣れた影が佇んでいた。
「ジニア」
先ほどの事もあり、思わず呼び止めてしまっていた。
彼女の雰囲気はどこかコウに似ている。物静かで感情をほとんど映さないところ、よく整った顔立ち、どこか人間離れしている存在感。さすがに建物内では黒い傘を閉じているが、リボンとレースに彩られた洋装は彼女の人形らしさを存分にひきたてていた。
それでもこれまでセイがコウ以外の人間に興味を持つなど、なかった事だった。
「あ、の、さ……ダリアが」
「…………知っている」
相方のダリアが事実上、再起不能になった事を伝えるはずだったのに、ジニアはそれを先回りしてしまった。
行き場を失くした言葉の残りが喉の奥に引っかかる。
「…………いいの、きっと本望。彼女だっていつかこうなると分かってあの店に出入りしていた」
微かなジニアの声が鼓膜を揺らす。
そこにはやはり何の感情も見えない。悲しみも怒りも喜びも。ただ事実を事実として受け止めただけ。
「貴方が気に留める事は何もない…………違う?」
問われて口を噤んだ。
確かにコウに言われるまでダリアの事などすっかり忘れていたのだから。目の前で同僚が不協和音化し、それを自らの手で処理したというのに。
セイの中には何の感情も残っていなかった。
口を噤んで佇んだセイの元へ、抑揚のないコウの台詞が降ってくる。
「着替えを終えて30分後に倉庫まで来てください。ブルーレイを読み込める端末を探します」
それだけ言い残したコウは、通路の向こうへと去っていく。
相方の後姿を見送ってから、セイは再びジニアの紫水晶に視線を戻した。
「…………まだ、何か?」
「いや、何もない」
再びジニアの黒髪を見送って、セイは自室へと急いだ。
30分の制限時間を破った場合、コウがどんな辛辣な言葉で迎えてくれるか、簡単に想像がついたからだ。