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涙、あるいは愛でいっぱいのリビング

第三十八幕 リビング



 愛してその人を得ることは最上である。

 愛してその人を失うことは、その次によい。


 十九世紀の小説家、サッカレーの言葉だ。


 ノロイちゃんを失って、遅蒔きながら僕はやっと気づいた。


 失うことで得ることもあるということ。

 猪島や心がずっと前から僕に教えていてくれたことだ。

 相手が喜ぶことをするだけが友情ではない。時に、厳しく道を正してやることも必要だ。

 僕は自分の中にいる友人と、厳しく向き合うときが来たのだ。別れを告げるときが来たのだ。


 登校すると見せかけて、僕は家に引き返した。

 用事があると言って別れた僕を、心は何も言わず、引き留めもしなかった。


 父の桐斗さんはもとより、母の紗更さんも弟の翼を幼稚園に送っているので、家の中には誰もいない。

準備をして紗更さんを待つ。

 静かなリビングに一人で待っていると、一体自分は何をしているのだろうか、本当にいいのだろうか?と、不安ばかりが大きくなってくる。

 口の中がカラカラになっているのに気づき、水でも飲もうかと腰をあげた時、玄関のドアが開いた。

 紗更さんが帰ってきたのだ。もうこうなれば後戻りは出来ない。

 覚悟を決めて進むしかない。


「あれ?薫風どうしたの?学校行ったんじゃないの?忘れ物?」


 リビングに佇む僕を見つけた紗更さんが首をかしげる。


「ううん。そうじゃないんだ。お母さんに一つお願いしたいことがあって、ちょっと戻ってきたんだ」

「私に?何だろう」

「芝居のこと」

「あー今度文化祭でやるお芝居のこと?毎日遅くまで頑張ってるみたいだけど、どうかしたの?」

「台本を書き直したんだ。最初の本読みを手伝って欲しい。本読みっていうのは、台本を見ながらちゃんと声に出して芝居することなんだけど。僕とお母さんの二人でこの台本を読み合って欲しいんだ」


 僕は台本をテーブルに置いた。台本と言っても紙一枚分しかない分量だ。


「ふーん、それ私なの?心じゃなくて?」

「ああ、お母さんじゃなくちゃ駄目なんだ。お願いします。読んでください」

「まあ、いいけどさ。学校はどうするの?」

「終わったら行くよ。一時間目は国語だ。授業は後からでもなんとでもなる」

「親としては学業を優先して欲しいところだけどね。まあいいわ。これでいいの?」

「ああ」


 台本を手に取りその内容にさっと目を通すと、紗更さんの表情が強張るのがわかった。


「あなた……これ……何の冗談?」

「冗談じゃない。僕は本気だ」


 紗更さんは怯えたような表情で僕を見る。


「…………そう。見たのね。光一君の日記……」


 光一は僕の実父の名前だ。紗更さんはこの台本からおおよそのことを察したようだ。


「うん。僕が小学五年生の時に見つけた。幽霊が見える騒ぎを起こした少し前だね」

「あーあったね、そんなことも。しかし、そんなに前に……いつかは見せようと思っていたけど、ちょっと早すぎだわね。処分すべきだったのかしら……」


 紗更さんは頭を軽く抑える。


「人生にIFはないけど、僕はあの日記があったから、今日まで生活できてこれたと思ってる。見れてよかったと思っている。

それで、本読みの前に恥ずかしいんだけど、自分語りってやつしていいかな?何でこんな台本を書いたかってことでもある」

「いいでしょう。聞きましょうか。十代の主張とやらを」


 紗更さんは覚悟を決めた顔をする。


「この家に来る前、僕はずっと母親というものに憧れていた。そんなある日、そんな僕に新しい母親が出来た。その人は若くとても美しかった」

「あらいやだ、おほほ」


 紗更さんは素直に嬉しそうに笑う。この人はいつも明るい。その明るさがいつも眩しかった。お父さんもそうだったんだろう。僕と同じでちょっと暗そうな人だったからな。なおさらだ。


「嬉しかった。あなたは僕にとっての太陽であり、愛のすべてだった」

「ふむ。そこまで言われると悪い気はしない」

「でも成長するにつれて、あなたに母親以上の気持ちを抱くようになってしまった」

「そっか……」


 僕の言葉で紗更さんが寂しげな表情になる。


「でもその想いを口にしてはいけない。考えちゃいけない。そんな葛藤の続く時にお父さんの日記に出会った。日記にはあなたへの届かない想いが綴られていた。それを読んだ時、僕のあなたへの想いと、お父さんの想いが重なったと思った。

僕の中にお父さんがいると思った。日記を見つけたあの日から僕は薫風としてだけでなく、光一としても生きてきました。そうすることで自分の気持ちに言い訳と言うか、責任転嫁してきました。僕の気持ちではなく、お父さんの気持ちを代弁しているんだと。そうやって嘘をつき、その嘘によって今日まで僕はお父さんに縛られてきた。

でも今日でそれを終わりにしたい。何と言うかお父さんを成仏させてやりたい。その為の台本です」


 僕の言葉に紗更さんは、ぎゅっと目をつむりしばらく押し黙った。どうすべきか思案しているのだろう。そして目を開けるとゆっくりと口を開いた。


「わかったわ……この台本の通りにお芝居をすればいいのね。それでいいのね?」

「はい。お願いします。それとこんなことをお願いするのは、本当に恐縮なのだけれど、できれば心の冬服の制服を着てもらえないでしょうか」

「ええー!?それはちょっと恥ずかしすぎるな~」


 本気の困惑顔を見せる紗更さん。


「僕もこんなことをお願いするのは、顔から火が出るほど恥ずかしい。でも、本当にお願いします。ちゃんとお父さんを成仏させるのに必要な気がするんです」

「あーもうわかった。わかった。言う通りにしましょう。心に言っちゃ駄目だよ?お腹とか胸とか全体的にちょっと苦しいんだよね。あと化粧もちょっとしましょうか。肌とかさすがに十代じゃないからね。」

「ナチュラルメイクでお願いします」

「わかってるわよ!生意気な!」


 三十分後、心の制服を着て、出来るだけ当時と同じような髪型をした紗更さんが現れた。

遠目には心にそっくりだ。

 その姿を見て、胸の奥に込み上げるものが何なのかは自分では良くわからない。


「恥ずかしいからあんまし見ないように。息子に娘の制服着せられるって一体どんな羞恥プレイなのよ。それじゃ早速やってみようか」

「はい」


 こうして僕と紗更さんとの一世一代の、いや二世二代か?そんな時間と距離を越えた芝居が、リビングという舞台で始まった。

 観客はいない。天国でお父さんが見ていてくれたらと思うばかりだ。


**************************


 リビングの扉を開けて紗更さんが入ってくる。


「わざわざ放課後に、教室で話ってなに?光一」


 この一言で、この朝日の射し込むリビングという空間は、放課後の教室であり、窓からの光は西日となる。

 ひとつの空間を瞬間で別の場所に、別の時間に変える。これが舞台の魅力でもある。

 そして今この瞬間、僕は薫風ではない。光一だ。


「おっす。わりいね、呼び出しちゃって」

「何か相談?」


 紗更さんが台本を片手に台詞を読み上げる。棒読みとも言えるが、リアルな芝居ともいえる。

 きっと現実もこうに違いない。教室に一人呼び出された時点で、ある程度は推測できるだろう。それをそ知らぬ振りをして、みんな芝居をしているのだ。


「ああ、ごめん。ちょっと……な」


 僕は椅子から立ち上がり、彼女の前に緊張した表情で立つ。

 彼女も次にくる言葉を予想しているような、不安そうな表情をして黙って待っている。

 僕は大きく息を吸い込んだ。


「俺はずっと、ずっと……中学から、いや君に会った日からずっと……紗更が好きだった。愛しているんだ。世界中で誰よりも。

紗更が桐斗に惹かれてるのは知っている。でもどうかあいつのことは諦めて、俺とつき合って欲しい。頼む!」


 僕は父と自分の想いを乗せて、目の前の女性に真摯な愛の告白をした。特に奇をてらったわけでも、変にドラマティックでもない、普通の告白をした。


 「好きだ」この一言が父は言えなかった。


 それを今僕が二十年越しに言うことが出来た。

 これまで僕は父の無念を晴らしてあげたいと思っていた。

 心とつき合う。そうすることが父への愛情だと思ったんだ。でもそうではない。

 時に失い傷ついても、前に進むことのほうが大事なこともある。


 ちなみに紗更さんの台本はここで終わりだ。

 その後の台詞は本人のアドリブと指示してある。

 僕はまだ深々とお辞儀したままで彼女の顔は見えない。


「ごめんなさい……その君のことは好きだけど、それはやっぱり友達としての好きであって、恋愛じゃないというか。君とはつき合えない。そのなんというか、タイプじゃないし……それにやっぱり私、桐斗くんのことが大好きだから、彼を諦めるとかできない。だからごめん。本当にごめんなさい」


 紗更さんも勢い良く頭を下げる。そしてすぐ顔を上げると


「ごめん。私もう帰るね」


 と言い残し、そそくさと教室を後にした。

 飾り気のないごく普通の告白は、これまた変に仰々しい台詞ではなく、ごく普通にお断りされた。

 あまりにもあっけなく簡単に終わってしまった。

 その簡素さに僕は呆然と動けない。

 しかし、僕は役者の才能があるのかもしれない。

 この平凡な芝居をドラマティックに見せるために、僕は一人きりの舞台で、ぼろぼろと涙をこぼし始めたのだ。

 そうこれはお芝居だ。

 だから頬を伝う涙も、この胸に込み上げる嗚咽も、焼きつけるような悲しみも、彼女への理不尽な怒りも、全部、嘘だ――


 勿論そんなのは詭弁だとわかっている。

 この胸の痛みが、哀しみが、やるせなさが、絶望が、切なさが嘘なわけがない。

 僕は顔を上げた。

 これが――これが、恋をするということなのだと僕はやっと実感できた。


 愛してその人を得ることは最上である。

 愛してその人を失うことは、その次によい。


 この詩には続きがある。


 愛さずしてその人を得ることと、愛さずしてその人を失うことは、同じように無意味である。


 とりあえず僕の想いは無意味ではなくなったのだろう。


 父と僕はやっと失恋することができたのだ。


*****************************


 リビングにおずおずと紗更さんが入ってくる。


「だ、大丈夫?」


リビングのソファに項垂れて座る僕を心配そうに覗きこむ。さきほどまで号泣していたのを、外から黙って見ていてくれたのだろう。


「うん。なんというかスッキリした」

「それならいいんだけど。言っておくけど、あなたの気持ちはちゃんと受けとったけど、答えてあげることはできない。

なぜなら私はあなたの母親なんだから。それであんたは息子。そのことはこれまでも、これからも変わりはないんだから、その……あれよ。気まずいから家を出るとか、言わなくていいからね」


 紗更さんの優しさが骨身に染みる。

 最悪、家を出る決意でもって、今回の告白に臨んでいたのだが、それを見透かされた形だ。紗更さんの大人の優しさに、自分がいかに子供だったのかがよくわかる。


「ありがとうございます。お母さん」


 僕は紗更さんに深々と頭を下げた。


「わかったのなら、それでいいんだけど」

「もう大丈夫。この後ちゃんと学校いくから。今日も練習あるし」

「気をつけてね」

「お母さんこそ、なんか辛そうだけど大丈夫?僕のせいで何か心労が?」


 冷静になって紗更さんを見ると、どこか苦しそうな表情をしている。


「いや、そうじゃないのよ。ちょっと吐き気がしてきてね。気持ち悪いだけ」

「風邪?」

「あー、そうじゃないのよ。その……つわりってやつ?」

「つ、つわり?ってもしかして妊娠してるの?」


 側頭部をサイリウムでぶん殴られた様な衝撃。膝から力が抜けて、よろけそうになるのを必死でこらえる。


「うん。実はそうなのよ。まだ二ヶ月とかだけどね。順調にいってくれたら産むつもりよ」

「そ、そうなんだ…………………よかったね……」


 おめでたいことだが、たった今振られた女性の懐妊話に何と声をかければ良いというのか。

 紗更さんは三十七。産むには少し遅めではあるが、晩婚化が進む近年の日本では珍しいことでもあるまい。


「いやあ、子供がもうあんたらぐらいに大きいと、妊娠報告は何か恥ずかしいね」


 紗更さんは気まずそうに照れ笑いをする。そりゃ、つい最近夫婦間で性行為があったことを示すわけだし、思春期の次第によってはぶちきれる子供もいるだろう。


「あー、その、本当に仲良いのですね。お父さんと……羨ましい」


 僕はがっくりと肩を落とす。何だこの追い討ち攻撃は……

 夫婦生活十五年以上だというのに、まだそういう夫婦の夜の生活があるのか。

 今はただ素直に羨ましいと思う。自分もそういう伴侶を得ることができるのだろうか。


「あ、あれよ。凄く久々と言うか。二人で初心にかえったというか」

「いいよもう!それ以上生々しいこと息子に言わないでよ!」


 ここで「初心にかえる」という言葉と、先程紗更さんとの会話で会話で感じた違和感。その点と点が結ばれる閃きが起こった。


「ねえ。さっきさ……僕が心の制服を着て欲しいって言ったとき」

「うん?」

「紗更さんは、胸やお腹が苦しいって言ったよね。苦しいかもではなく、苦しいって言った……さっきは緊張していたから、スルーしちゃったけど、これっておかしいよね?着たことがあったってことだよね。それに今初心にかえったってことは……ま、まさか」

「ありゃ。ばれたか。いやあ、こっそり心の制服を着てパパに見せたら、二人で昔を思い出しちゃってさあ」


 紗更さんが恥ずかしそうに赤面する。


「そ、そ、そ、それで……妊娠?」

「ま、まあそうなるね~。あははははははは。いやあ、あはははは」


 リビングに紗更さんの乾いた笑いが空しく響く。

 僕はとうとう耐えきれず膝から崩れ落ちた。


「あ、心には言わないでよ絶対!心に言ったら今日のことも喋るから」


 紗更さんの忠告が頭の上を飛んでいく。

 こうして紗更さんへの想いに決着がついた。思っていた以上のダメージと共に。

 涙、あるいは愛でいっぱいのリビングだった。


次回で最終回となります。

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