巣立ち
人はいつか死ぬ。愛する人も、嫌いな奴も、誰もがいつかは死んでこの世からいなくなる。これはもう当然のことで、誰でもわかっていることだが、日常生活ではそんなことはあまり考えない。無意識にそれを考えないようにするのが普通である。そうやって忘れていられることが、日々を楽しく生きるコツであると、脳は知っているのである。
かように脳は自分にとって都合の悪いこと、直視したくない現実を、忘れさせてくれる。目をそらさせてくれる。
僕もそうだ。
あの日、僕が小学生だった日の事、父の日記から発見された写真と、父の日記に書かれていた事実。いくつかの事柄が重なったとき、僕の脳はその現実を直視させないようにしてくれたのだ。
自分の身に強いストレスがあった時、脳はつらい現実を和らげるよう、ストレスを意識下に出させないようにしてくれるが、体は無意識に反応してしまう。たとえば円形ハゲや胃潰瘍という形になって現れる。
僕の場合、ノロイちゃんという幻覚になって現れた。猪島に母親の幽霊が現れたように。
何の事はないノロイちゃんは僕の産み出した幻覚にすぎなかったのだ。僕はずっと自問自答していただけだ。
幼い頃より自分の気持ちを抑えることは得意だった。いや、得意とせざるをえなかった。
たとえば母親の事を父や祖母に聞くことはNGなのだと、幼いながらも彼らの表情や態度でわかっていた。どんなに周囲が母親と一緒にいるところをみても、自分には必要ないものだ、羨むなと自分で自分を抑えつける毎日だった。
父や祖母からはきちんと愛情は受けていたと思うし、愛情不足だったとは思わない。しかし心の奥底では母親というものに強い渇望があった。幼い子供なら当然の感情だろう。
そんな中、僕は鏑木家に引き取られた。家族を失った傷が癒えはじめた時に、これまでの渇きの分、若く美しい母親という立場の紗更さんに、強烈に惹かれたとしても仕方がないだろう。「好き」という感情も少年期は問題なかったが、思春期に入る頃にこの想いが複雑化する。
紗更さんへの気持ちは単純な恋愛感情ではない。血の繋がりのない自分を育ててくれていることへの感謝、母親としての愛情、女性としての劣情、それらが全てないまぜになったもので、性と聖。欲望と慈愛。背反する感情が自分のなかで激しく葛藤していた。
とはいえ苦悩はしていたが、それでもぎりぎり心の均衡を保っていた。それが崩壊する出来事が立て続けに起こる。
義弟・翼の誕生と亡き父の日記の発見である。
紗更さんの妊娠は、義父である桐斗さんとの間に、性交渉があった証しでもあった。二人ともまだ三十代前半。夫婦の性生活など、そんなことは今なら当たり前とも思えるのだが、思春期入りたての小学生には辛かった。その後の授乳しているところを見た時など、頭がどうにかなって気が狂いそうだった。
そしてそんな精神状態の時に、見つけてしまったのが父の日記である。
父の日記から、高校生だった紗更さんの写真が大事そうに挟まっていたのを発見した。
それは水鳥学園でスクールアイドルをしていた紗更さんの姿だった。彼女は美沢先生よりも二つ上で美沢先生と一緒にスクールアイドル活動を始めたのだった。美沢先生の人気が全国的に爆発したのは、紗更さんが卒業してから。なので彼女は卒業後は、ごく普通の一般人として生活していたので、僕のアイドル知識をもってしても何の記録も出てこなかった。
義父母はこの日記をなぜ今も僕に見せようとしないのか?
彼らの気持ちは痛いほどわかる。それは子供に見せるにはあまりにも哀しい日記だった。
実父である光一は、自分の気持ちを日記には正直につけており、そこからは嘘偽りのない父の姿が浮かんでくる。どうやらお父さんは紗更さんに激しい恋心を抱いていたようなのだ。
お父さんと紗更さんは中学の頃からの友人のようだったが、高校に入り義父である桐斗さんと出会うと、紗更さんは彼に夢中になり、いつしか二人は恋人関係になった。その時の亡き父の嘆きよう、胸の苦しみが切々と日記には書かれている。紗更さんを諦めきれない父は、二人が別れる日が来ることを願い、友人として共に行動していたらしい。
しかも桐斗さんや紗更さんに自分の気持ちを悟られないよう、好きでもない女性とたらい回しのようにつきあっていく。
これだけでも哀しい事実だが、父・光一の想いもむなしく二人はとうとう婚約、結婚することになった。傷心の父は、当時言い寄られていたさして好きでもない女性と関係を持ち、その女性を身籠らせてしまう。それが僕であり、母である。
僕は両親からあまり望まれた形では誕生しなかったこと、恋が成就しなかった父の無念さ、そして日記に挟まっていた写真で見た、高校生の紗更さんの美しさ。そして今の紗更さんへの複雑な気持ち、大恩ある義父への憎悪にも似た嫉妬。それらはセンシティブだった小学生の僕の心には収まりきらず、結果としてノロイちゃんという歪な幻覚を産み出した。
ノロイちゃんの衣装がアイドルを装ったものであるのは、日記に挟まっていた一枚の紗更さんの写真が原因だった。ノロイちゃんの服は紗更さんの服装そのままだった。
おそらくその写真を撮影したであろう父と、僕はある一つの気持ちを共有できたと思う。
それは恋に落ちる感覚だ。
父の夢は僕の夢となり、紗更さんと結ばれたいと思う気持ちは一層強くなる。しかし養子である僕がそんなことを思うのはあまりに禁畏。
そこで代償行為というか、身代りとして選ばれたのが、紗更さんとそっくりの実の娘、心だったのである。
僕は自分を完全に騙し、紗更さんを想う気持ちを、そっくりそのまま心へスライドさせた。スライドさせきれない部分は、ノロイちゃんという歪な幻覚が引き受けてくれた。
アイドルに夢中になる事は、あの当時の紗更さんの幻を夢中で追いかける事だった。
そして心は僕のそんな気持ちを見透かしていたということだろう。
僕のやっていることは父とまったく同じだったのだ。
最低だった。
「何故今ごろそんなことを思い出したんだ……僕は……」
僕の独り言にノロイちゃんが優しく答えてくれた。
「大人になったんだよ……君が……私の役目ももう終わりだね……」
「役目?終わりって、何言ってるの……ノロイちゃん……」
「私は薫風の心のバランスを取るために存在していた。でももう薫風は子供じゃない。私から巣立つ時が来たんだよ。私なんかに頼らないで、自分の意思で自分の心と向き合う時が来たってことだよ」
「だからなにいってるんだよ」
何かノロイちゃんが不穏な事を言い始めているのがわかった。終わりって……まさかとは思うが、ノロイちゃん消えちゃうのか?
「演劇部の活動が薫風をひとつ大人にしたんだ。艱難辛苦をともにした友人に囲まれ、共に難題に立ち向かうことで君は成長したんだ。だからつらい問題にもちゃんと向き合えるようになってきたのさ。ちゃんと自分の心に素直になるときが来たんだ」
「何と向き合えって言うんだよ」
「決まってるよ。君が本当に愛する人は誰なんだい?ってことさ」
ノロイちゃんはドヤ顔で決めている。
「心ちゃんかい?それともやっぱり紗更さん?もちろん他にもマロンに、芽理沙でもいいよ。私としては藻乃ちゃんを推したいところだけど。あと大穴で美沢ちゃんとか?」
「美沢ちゃん?」
ノロイちゃんが美沢先生をちゃんづけで呼ぶことに違和感があった。美沢先生よりも歳上のような態度だ。
「誰でもいいけど、ちゃんと自分に素直に愛を告白しな。成就するかどうか、それを見届けられないのが残念だけど……」
「…………どういうこと?」
ドキリと心臓が鷲掴みにされたようだった。嫌な予感が当たりそうで怖かった。
「薫風が私を幻覚だと認識した以上、これ以上は長居できないよ……」
「ま、待ってくれよ。そんな突然。一週間後には文化祭なんだよ。せめてそれまでは……。というかノロイちゃんは本当にただの僕の幻覚なのか?ただの幻覚が何年も何年もこんなはっきりと見えるものなのか……謎の能力もあるし、僕には見えない聞こえない事まで、ノロイちゃんは見聞きできるじゃないか。ノロイちゃんの衣装は紗更さんの服かもしれないけど、その顔は一体誰なんだよ……」
ノロイちゃんの服装は、写真で見た紗更さんのアイドルの服装だった。このことからノロイちゃんが僕の中にある紗更さんへの憧れの影響を受けているのはわかるが、彼女の顔立ちは謎のままだった。
もし彼女が紗更さんへの憧れだけであったら、顔だって彼女になるんじゃないのか。しかしその顔立ちはまったく違うものだ。
「さっきから変だ。美沢ちゃんて……まるで先生を年下みたいに……ノロイちゃん、一体お前は……誰なんだ?」
「本当はもうわかってるんでしょ?」
ノロイちゃんは優しく微笑んだ。その微笑みが僕の直感をプッシュした。
「先生より年上……まさか……お、おかあ……さん?」
なんとなく口にしただけだが、口にした瞬間確信に変わった。ノロイちゃんは僕の母親だった……
同じだ。猪島と同じだったのだ。
海でノロイちゃんが猪島は僕の鏡といった意味がわかった。僕と猪島は鏡写しのように、母親の幻を見るという似たもの同士だったのだ。
「半分正解かな。私は薫風の妄想と、君の母親の幽霊が融合した存在なんだ」
「幽霊って…………まさかお母さん死んでる?」
ぶっとんだノロイちゃんの出生の秘密も驚きだが、それよりも母の幽霊の部分がひっかかる。質問が一つずつしかできないのがもどかしかった。
「ごめんね。最後までだめな母親でさ……でも死んではいないよ。一応ぎりぎり生きてる」
「待て待て待て、ちょっと急展開すぎて色々ついていけないぞ」
心のキス、紗更さんへの気持ちを思い出したこと、ノロイちゃんの秘密。それらのイベントが立て続けに起こり、それらで僕の頭はショート寸前だ。
「私は幽霊というか正確には生き霊なんだよ。君の実の母親ってやつの生き霊。本体は今もずっと病院のベッドで寝てる。ずっと寝ているんだ。植物状態ってやつかなあ」
ここでノロイちゃんは母親の現在の状況を語りだした。
母は僕のもとを去った後、再婚はしたが子供には恵まれず、僕とずっと会いたがっていたらしいこと。
しかし連絡のとりようもないまま父は死に、僕の行方は完全にわからなくなってしまう。そしてある日、何の因果か母も、父同様にトラックに轢かれる事故にあってしまう。
次に気がついた時、母はベッドに寝る自分を空中から見下ろしていたそうだ。
「ああ自分は死ぬんだな」そう思った。
そして最後に一目僕に会いたいと強く願った。すると不思議なことに、次の瞬間には僕のそばに立っていたというのだ。
親子の絆が彼女を呼び寄せたのかは、彼女自身もわからないそうだ。
普通ならそこで、誰にも見えないただの生き霊として存在するはずが、僕の妄想とひとつになり、自分の人格をベースにしながらも、僕だけには見えるノロイちゃんとして誕生したらしい。
とてもにわかには信じられないが、目の前の不思議な現象を目の当たりにすると信じるしかない。
ノロイちゃんの衣装はいつのまにかアイドルのそれではなく、一糸纏わぬ裸になっていた。顔立ちも十代のそれではなく三十代後半の素顔になっている。
きっと現在の母親の顔なのだろう。体型も寝たきりだからか骨張り痩せ細ってきている。じっくり顔を見たいが、とにかく裸なので直視するのも躊躇われる。
元ノロイちゃんは変化していく自分の体をまじまじと見ながら、
「薫風の妄想が抜け落ちてだんだん素の私になってきたんだよ。もうすぐ普通の生き霊になるね」
と朗らかに笑うのだった。
「生き霊に普通とか特殊とかあるのかよ」
「私の本体は長いこと植物状態だったわけだけど、奇跡的に肉体が回復してきているみたい。もういつでも目覚めることができそうなんだ。今まで薫風の妄想が私をあんたのそばに繋ぎ止めていたんだけど、それがなくなったら私は本体の所に戻らないといけないと思う。本体が長い夢から覚めたら、当たり前だけど私も消える」
「消える?いなくなるってどういうことだよ?もしかしてノロイちゃん消えちゃうのか?」
「まあ、そうなるね」
「あ!」
思わず声が出た。
ノロイちゃんの背後にある壁がうっすら見え始めていたのだ。彼女の体がだんだんと透明になってきているのだ。何の心の準備もしていないのに、彼女はこのまま消えてしまうらしい。あまりの理不尽さに咄嗟に怒りがこみ上げてきた。
「ふざけんな!勝手に母親名乗ってすぐ消えるってどういうことだよ。子供の時だって僕を見捨てやがって!色々文句言い足りない、恨み言は山のようにあるんだぞ!まだ消えるんじゃねえよ。もうすぐ文化祭なんだよ。せめてそれまでは……頼むよ……見ていってくれよ……」
「ごめん。でもさ、裸の母親が頭の回りをうろつくなんて、高校生男子にとってこれ以上の責め苦はないだろう。消えることに泣いて喜べ。お母さんが無事に生き返るんだぞ」
「そんな生き地獄でもいい。頼むよ。せっかく会えたのになんでいっちゃうんだよ……」
「息子の成長を誰よりも間近にみれて本当によかったよ。最後に一応大人としてアドバイスしておく。あんたはちゃんと自分に素直になって、好きな人に好きだってきちんと伝えなさい。あんたのお父さんはね、それが出来なかった人だった。彼がずっとそれを後悔していたのは、日記を読んだあんたもわかるでしょ?」
「ノロイちゃ、いやお母さんも見たのか?」
「まあ、たまたまね。夫婦なんだしなんか書いてるなーとは思ってたけど。あんな未練がましい事書かれてたら愛も冷めちゃうわ。まあそれは大人の話でさ。初恋は好きだと言えないから、いつまでも忘れられないのかもしれないけどさ。でもあんたはそんな大人にならないよう頑張んな。成就するかどうか、私がそれを見届けられないのが残念だけど……
あと最後にひとつ、あんたはこれまで演劇部を立派に率いてきた。きっと才能もある。でもひとつだけ足りないことがある。それは「仲間に頼る」ってこと。良いリーダーならそれも大事だよ」
「適当なこと言いやがって、人生の先輩面すんな!お前なんか最後まで無責任で、本当に勝手な女だ。今どこに住んでるんだよ。目が覚めるっていうならきちんと謝罪しに来い」
「ノロイちゃんとして過ごした記憶が、起きたときにあったらね……こればっかりは起きないとわからないけど、長い夢を見てたって忘れなきゃいいけどね……」
「お前がこないならこっちから行ってやる。どこにいるんだよ!」
目の前の生き霊は、僕を包むようにそっと抱いてくれた。もちろん何の感触もない。住んでいた住所を喋ってくれていたのか、何か言葉を発していたようなのだが、消えかかっている彼女の声はあまりに小さく聞き取ることが出来なかった。
そして暗い部屋には僕だけが取り残された。
ノロイちゃんはあまりにも呆気なく消えてしまった。噛み締めた歯から嗚咽が少しずつこぼれだし、そのうち決壊した堰のように大声で鳴き始めていた。そしていつの間にか泣きながら眠りに落ちていた。
数時間後、まだ陽も昇らない明け方に目を覚ました時、いつもそこに浮かんでいるノロイちゃんはやはりいなかった。
もしかしたらひょっこり戻ってきてくれるんじゃないかと思ったが、そんなことはなかった。彼女は消えてしまった。胸にぽっかりと穴があいたようで一人で少し泣いた。
「ちゃんと好きだって気持ちを伝えな」
という彼女の声だけが胸に残っていた。
一通り泣き終わると、僕は急いでノートパソコンを立ち上げた。そしてどうしても書けなかった脚本の直しを一気に書き上げた。
もう一つ、まったく新しい脚本も仕上げた。これは誰の為でもない僕だけの脚本。
主演は僕。主演女優ももう決まっている。そんな二人芝居の脚本だ。




