猪島藻乃という女
第三十五幕 ホテルの部屋
元々、鹿野は演劇部寄りの人間、猪島は真意は謎だが、心との対決以降、表面的には非常に友好的に接してくれている。
そこに芽理沙さんが蝶林を陥落(?)したことで、演劇部に対して敵愾心をむき出しにしてくる人間はいなくなった。
そうなれば同年代同士、寝食を共にするこの合宿の間に、それぞれ親睦が深まっているように思えた。
その証拠に合宿最終日、三日目の夜、別れを惜しんでか、最後の夜は女子逹で肝試しに行こうと楽しげに話し合っていた。
ちなみに美沢先生もいくようだ。普通は止める立場だろうに。
僕も誘われたが、強固に辞退させてもらった。
幽霊系はビビりまくってしまうのである。
なにせ背後にアイドルの幽霊がいるのだから、幽霊はいる派なのだ。これまでノロイちゃん以外に変なのが見えたことはないが、万が一にも血塗れの落武者なんてビジュアル見たくはないし、見る努力もしたくない。
そんなわけで、一人ホテルの部屋に残り脚本の推敲を続けている。男性スタッフと相部屋なのだが、彼は飲みに行くといっていたので、遅くまでもどってこないだろう。
パソコンを前に脚本とにらめっこしていると、不意にドアをノックする音がした。
開けてみると、そこにはアイドル部のエース、猪島藻乃がたっていた。僕と同じく肝試しにいかなかったらしい。
シャワーを浴びたのか、化粧もしていないすっぴん、黒いTシャツの上にグレーのパーカーを羽織り、下はショートパンツという非常にラフな格好だ。
心との対決以降、二人きりで話すのはこれが初めてだった。
しかも彼女からの来訪とは一体なんだろうか。
「ちょっと話ししてもいい?部屋いれてくれないかな?」
「いいけど」
僕は彼女を部屋に招き入れる。幸い廊下には誰もいない。スタッフとはいえ、男の部屋にアイドルが入るなんてよろしくないことだ。何か変な噂がたっては彼女の未来に傷がつく。
彼女はパーカーを脱ぐと、部屋のソファに座らずルームメイトのベッドに腰掛けた。
僕は座っていた椅子に座ろうとしたが、
「そんな遠いところに座らないで近くでお話しようよ。そこ座って」
と隣の僕のベッドを指差す。特に拒否する理由もないので彼女と向かい合うように座り直す。セクシーな衣装というわけではないが、露出が多くどこに目をやっていいかわからない。
「猪島。肝試しはいかなかったのか」
「うん。実は藻乃はそういうのすっごく駄目だから」
猪島は恥ずかしそうに笑う。そのはにかむ笑顔はまるで天使のようだった。特にすっぴんだからか着飾った雰囲気もなく、普通の女子の笑顔だった。
本性を知らなければ男なんて簡単に騙される笑顔だ。
「いつもはくそ度胸あるのに、そういうのは駄目っていうギャップ萌えみたいな狙いじゃなくて?」
「藻乃ってそんなに計算高いイメージ?」
「うん」
「即答された」苦笑いする猪島。「裏表あるのは否定しないし、まあそう思われてもしょうがないかもしれないけど、幽霊とか怪談系は本当にダメなのよ。将来そんな仕事が来ても絶対引き受けない」
「へー、奇遇だな。僕もなんだ。幽霊は結構信じてる派でね」
信じるも何も僕のすぐ横にいるのだ。ノロイちゃんはわざとおどけた顔をしている。
「そうなんだ。一緒だね」
猪島はにこにこと笑っている。何だろう普通に雑談しに来たのかな?
「実は幽霊が怖いのに理由があってね。藻乃ずっと幽霊に取り憑かれていたの」
「え?」
まるで僕のことを言っているのかと思い、目をぱちくりさせてしまう。
「こいつ頭のおかしいこと言い始めた。って思ってる?でも本当なのよ。誰にも見えないし、誰にも聞こえないんだけど、小さい頃からこれまでずっと、藻乃の横で囁き続ける幽霊がいたの……」
「ど、どんな?」
まるでノロイちゃんと一緒だった。これまで彼女を追う手がかりはまるでなかったのだが、何かしらヒントを得られないかと、彼女の話に思わず身を乗り出して話に聞き入ってしまう。
「ねえ、伊野瀬目乃里ってアイドル知ってる?」
「何だよ突然」
「いいから、アイドルオタって言ってたけど伊野瀬目乃里は知ってるの?」
「知ってる……確か自殺したアイドルだよな。ちょっとしたニュースになったはず。でももう十年以上前のことだったような」
「すっごい。よく知ってるね。さすがドルオタ」
突如僕に取り憑いたノロイちゃんの正体――
彼女は自分の正体に関しては何も語らない。これを調べるため古今東西、全国津々浦々のアイドルを調べあげていた時期があったのだが、特に注目したのが死んでしまったアイドルたちだ。
ノロイちゃんが幽霊とするなら、やはりお亡くなりになっているはずだからだ。
調べるといってもそうそう記録は残っていない。
そんな数少ない追える情報として多かったのは、病死と自殺したアイドルだろうか。
その自殺したアイドルの情報の中に、伊野瀬目乃里というアイドルの名前があったと記憶している。顔も調べたがノロイちゃんとはまるで違っていたので、それ以上は追求していないが。
そう確か猪島によく似ていたような……
「え……もしかして」
「そう、伊野瀬目乃里っていうのは芸名でね。本名は猪島目乃。それが藻乃のお母さん。お母さんは藻乃が小さい頃に自殺したわ。彼女はそれなりに人気のアイドルをやっていたのだけど、十代の時に産んだ私という隠し子が発覚してね。スキャンダルで人気失墜。精神的に弱い人だったのかもね。心身を削られて、結局最後は自殺したわ。藻乃への怨み言とか一杯残してね」
彼女はかなりハードな人生を送ってきたようだ。ただ、そんな重い身の上話をいきなり切り出されても、正直何といって言いかわからなかった。
「………すまん、なんと言っていいのか……」
「いいのよ。気にしないで」
「それで、その死んだお母さんが幽霊となって、お前の横にいたのか?」
「そう。藻乃のお母さんは生きてる間だけじゃ足りなかったみたいで、死んでからもずっと藻乃に恨み言とかを囁き続けていた。お前さえいなければ私はアイドルでいられたんだ。産むんじゃなかった。お前なんかいらないってね」
実は足が水虫なんだ、くらいの悲痛さで非常につらい話を切り出す猪島。
僕自身もそれなりに悲しい生い立ちではあるが、目の前の少女が過ごしてきた半生と比べたら、天と地ほどの差がある。
「お母さんは他にも、私の無念を晴らせ。お前が私の代わりにトップアイドルになれ。とかもぶつぶつ囁いてた。それが私の生きる指針というか、人生の地図になったわね」
彼女が執拗なまでにアイドルのセンターに、いや一番に拘ったのは、母親の呪いということか。しかし今の話が本当なら、彼女はどれだけ地獄を見ながら生きてきたというのだろう。
「藻乃はそれに答えるよう、トップアイドルになることを、一番になることを魂に刻んで生きてきた。彼氏も友達も作らず、アイドルとしてセンターで輝くことだけを考えて生きてきたの」
「………」
「あー……別にそれはいいのよ。同情して欲しくて喋ってるんじゃないの。だからそんな神妙な顔をしないで欲しいな。これは過ぎたこと。終わったことだから。ちなみになんでこんなことを説明しているかというとね、この後の藻乃の行動をちゃんと理解して欲しいからなのよ。その為の準備みたいなものでね。こんな話は本題じゃないのよ」
「どんな行動をとるんだよ。すげえ気になるな」
やはり只の雑談をしに来たわけではないらしい。それでも今の話が前菜って、どういう話がこの後メインディッシュとして来るのだろうか。
「それはもうちょっと待ってね。何事にも順番があるでしょ?食べる前にいただきますって挨拶をするのと同じくらい大切な順番なの」
「ああ、わかったよ。話を戻そうか。それで幽霊の件は終わったってどういうこと?母親は消えたのか?」
「そう。心との対決に負けてね」
「どういうことだ。何でそれで幽霊が消える」
「すごい食いつきだね。こんな変な話、ちゃんと聞いてくれるかどうかも自信なかったのに。でもそっちのほうが助かるけどね。それで何で消えたのか、だけど。最初は私もわからなかった。でも藻乃が幽霊だと思っていたものは、幽霊じゃなかったと考えたら納得がいったわ」
幽霊じゃない。幽霊じゃないなら一体何なのだ。
「あれは藻乃の心が産んだ罪悪感という名の幻覚だったのよ。トップアイドルを目指していた母親を、藻乃が殺してしまったんだという罪悪感が生んだ幻だったのよ。
そしてその母親の代わりとして私がトップアイドルを目指すことにしたのよ。母親の無念を藻乃で晴らそうとしたの」
「幻……自分の」
「自分が大好きなお母さんを殺してしまった。その苦しみを心の外に置いておかないと、外に置いてああいう形で自分に罰を与えておく形にしないと、きっと心が壊れてしまったんでしょうね。
でも、その幽霊を産み出して以降、負けることは藻乃には許されなかった。幸か不幸か、藻乃は容姿では誰にも負けなかったし、負けないままここまで来てしまったのよ。
でも心に完膚なきまでに負けて、なんというか憑き物が落ちたのね。
負けても生きていけるんだってことがわかったから。私は私の人生を歩いてもいいんだって、母親の影を追うだけの人生じゃなくてもいいんだって、あの日そう思えたのよ。そしたら母は消えたわ。それはそれで寂しかったけどね」
藻乃は消えた母親の幻が恋しくなったのか、涙目になり手でそれをこすった。
非常に突拍子もない話で、聞き手が僕以外だったら、ちょっと信じる気にはなれないだろう。
しかしノロイちゃんという僕にしか見えない幽霊がいるのだ、彼女の話を嘘だと頭ごなしには否定できない。
それと彼女は負けたから憑き物が落ちたというが、それは違うと思う。おそらくだがこの数年の間に、藻乃の中で、母親の死を消化できていたのだと思う。心との勝負はただそれを自覚する切っ掛けにすぎなかったのだろうと思う。
「さ!ちょっと空気がしんみりしちゃったかな。さあここからが大事なとこよ」
藻乃は気持ちを切り換えたのか、明るい声でぱっと笑顔になる。突然の変わり身に僕の方がついていけない。
「お、おう……」
「とにかくお母さんの幽霊は消えた。藻乃はやっと解放されたの。これからは自分の意思で自由に生きていける。アイドルをやめることだって出来る」
藻乃はとても嬉しそうに引退をほのめかした。
「アイドル……やめるのか?」
「とりあえずは続けるよ。せっかくかわいい容姿に産まれたわけだし」
「お、おう……」
「でもこれからは、それまで全てを捨ててきた青春を、思いっきり取り戻したいのよ」
「お、おう……?」
嘘は言っていないように思えた。
つまり対決以降、僕らに対して明るく振る舞っていたのは、演技ではなく素直な心の現れということなのか?
「簡単にいうならリア充になりたいのよ!」
「お、おう……」
どうしたんだ猪島。キャラクターが全然違ってきてるぞ。
「リア充と言えば、友情、そして恋愛!ドーユーアンダスタンド?」
「い、いあーアイドゥー……」
「その為に藻乃を解放してくれた心に恩返ししたいのよ。友情というやつなのよ」
「お、おう……。色々遠回りしたけど、やっと話がわかってきたよ。僕に心のことを聞きにきたってわけだ。彼女に何かプレゼント贈りたいから、趣味が知りたいとか?」
「ちっちっちっち、残念違いまーす」
彼女は大袈裟に頭の上で両腕をクロスさせた。Xファンじゃないとしたら、間違いのジェスチャーだろう。
「心のことが知りたいなら心に聞くわよ。そうじゃないのよ。藻乃が彼女によって呪いから解放されたように、藻乃も彼女を解放してあげたいのよ。彼女を縛る呪縛から。それが恩返しってこと」
「心を縛る呪縛?あいつにも何か幽霊見えるっていうのか?」
「幽霊は見えないと思うけどね。藻乃みたいなのは特殊なケースでしょ。でも縛られてるのは間違いない」
彼女は強く言いきった。ここらへんの迷いのなさは、憑き物が落ちた今も健在だった。
「何に?」
僕の質問に猪島は少し迷いつつ
「アイドル……にかな」
と小さく呟いた。
「アイドルってどういうことだ?」
僕のこの質問を猪島はまるで聞いてないように、話を切り替えた。
「それでなんだけど、友情の次はやっぱり恋愛じゃない?藻乃はこれまで、ものすごくモテてきたんだよ?でも誰ともつきあってない」
「いや、そんなんは知ってるよ。そんなことより心のことはどうなったんだよ」
「がっつかない、がっつかない。ちゃんと話は最後に繋がるから。今は恋愛の話をしましょう。藻乃は彼氏が欲しいって話がしたいの」
「そ、そうなの?まあいいや早くその話をしてくれよ」
「じゃあ隣いってよい?」
「?……いいけど」
「よいしょ。えへへ」
猪島は僕のすぐ横に座り直した。体が密着するほど近くだ。
「近くない?」
明らかにおかしい距離だ。それにラフな格好だから、肌の露出も多い。露骨に誘っている、としか思えない。
普通なら舞い上がるようなシチュエーションだろうが、相手が猪島だと何か裏があるに違いないと警戒してしまう。
しかし、そんな僕の薄い警戒心なんて、瓦解させてしまうような行動に猪島は出た。腕を絡ませ、身体ごと自身の胸を押しつけてきたのだ。非常に柔らかい感触が腕に伝わる。
こ、この柔らかさは――ま、まさか……
「実は藻乃は今ブラしてない」
やっぱり!
く、何だこのシチュエーション。どうなってるんだ。
僕はこぼれ落ちていきそうになる理性を必死で、繋ぎ止める。
「どう?柔らかい?」
彼女は甘い吐息と一緒に耳元で囁いた。これ以上はもう理性の限界だと考えた僕は、腕を振り払い体を彼女から離す。一方でもったいないと嘆く自分がいるのが鬱陶しい。
「ちょ、ちょっと待て。一体何なんだ。何なんだよ。お前何しにきたんだ」
「だから、恋愛と友情の話をしに来たのよ」
彼女は逃がさないとばかりに、僕の両肩を力強く押し込む。ダンスで毎日鍛えている彼女の腕力と膂力はなかなかのもので、情けないことになす術もなくベッドに押し倒された。彼女はそのまま俺の腹の上に馬乗りになり、顔をすぐ側まで近づける。重力にしたがって垂れ下がる彼女の髪が、僕の顔を心地よくくすぐる。
いくら鍛えているといっても、男と女。その気になれば彼女を振り払い、そのまま部屋を出るか、彼女を部屋の外に放り投げることも出来ただろう。
しかし彼女がもつアイドルの、いや女の魅力がそれをする決意を鈍らせてしまう。
こいつ本当に同い年なのか。それとも経験豊富なのかな。
「どう?藻乃とつきあわない?OKならこのまま押し倒してくれて構わないわよ?これが恋愛の話」
「なんで俺なんだよ。二人で喋ったのだってほんの少しだろうが。それにこれのどこに心への友情があるんだよ?」
「こうすることが、心への友情になるのよ」
「はあ?なんでそうなる?とりあえず今のこの状況を見てあいつが喜ぶわけないだろ」
「良薬は口に苦しって諺知ってる?彼女が喜ぶことをするだけが、友情じゃないのよ。アイドル部になれなかったことが、心を成長させたように、勝負に負けたことが、結局は藻乃を解放することになったように。遠回りすることが近道になることがある。これは心が藻乃に教えてくれたことよ」
「そうやってさっきから遠回りのことしか言わないから、お前の意図がまるでわかんねえよ!」
「心がなんでスクールアイドルに固執するか、あなたわかっているの?」
「は?いやよく知らないよ。歌を歌えるからか?」
「本当に何もわかってないのね。それとも、わからないように何かがブレーキでもかけてるのかしら?まあいいわ、教えてあげる」
猪島の表情はいつのまにか、以前の狂喜を孕んだものに戻っていた。
「簡単よ。あなたがアイドルを好きだからだわ。ただそれだけ。あなたが女子はアイドルにしか興味を示さないから、彼女はアイドルになろうとしてるのよ。アイドルになったらあなたに愛されると思っているのよ」
「ぼ、僕?僕のせいだっていうのか」
「かわいそうな心。例えアイドルになれてもこの男の気持ちは、心に向かうことはないのに」
「な、なんだよ、それ。お前が僕の何を知っているんだよ」
「そう、知らないわよ。あなたのことなんて。なんとなくそう思っただけ。でもあなただって自分のことがわかっていないんじゃないの?
「藻乃はね、そんなあなたに縛られている心を解放してあげたいのよ。救ってあげたいのよ。悪い話じゃないでしょ?あなたの好きなアイドルと付き合えるのよ。セックスできるのよ。その代わりちゃんと藻乃のことを心に報告してね」
それまでおよそ色恋の話をしているとは思えないような、能面フェイスだったが、ここで猪島はとても悲しそうな顔をする。
「心はきっと悲しむわ。泣いてしまうでしょうね。藻乃のことも恨むと思う。それを考えると胸が張り裂けそう。でもこのままあなたに縛られて報われない恋にすがるよりも、早く次の人を探すべきだわ。あなたを諦めれば、彼女がスクールアイドルを続ける理由もない。こんな薄汚い世界からも足を洗える」
母親の幽霊がいなくなったことで、彼女は変わったのかと思っていたが、人間やはりそうそう変わるものではない。
あきらかにこの女はおかしい。という認識は変わりそうもない。
「彼女は優しすぎる。この世界には向いてない。心だけじゃないけど、演劇部の女子たちは、あの大谷さんを除けばみんなこのアイドルの世界はむいていない。長く続ければみんな精神をすりつぶされてしまうわ。藻乃のお母さんのようにね。そうなる前に藻乃は彼女を救いたいの」
「マロンはいいのかよ」
「さあ、もうわかったでしょう?あとは藻乃との快楽に溺れましょう?ね?大丈夫よ。優しくしてあげるから」
耳元に囁かれたかと思うと、彼女は上半身を起こし、躊躇いなくTシャツを脱いだ。先程の宣言通りブラをつけていない彼女は、その美しい形の乳房が一糸纏わぬ姿であらわれた。
その輝くような神々しさに、僕は固まってしまう。目を逸らしたいのに逸らすことができない。そしてあろうことか、彼女は固まって動けない僕の右手を手に取り、自分の左乳房に押しつけた。
これまで触ったことがない、柔らかさと弾力さ。例えるなら高速道路を時速六十キロで走行している時に、窓から手を出したような空気の感触である。
自分の理性はもうほとんどが消え失せ、子孫繁栄を願う本能に脳の全てを支配されていた。あと少し自分の力でこのおっぱいを揉めば、もうそれで元には戻れないとわかる。
行くことも退くことも躊躇われ、体を動かすことができない。だから、せめて口を動かして抵抗するしかない。
「ノロイちゃん!いるか!?」
僕はあらんかぎりの大声をあげた。
猪島は突然僕が意味不明なことを叫び出したので、心配そうに周囲を見る。
「ま、まあいるよ。いやあどうなるのかなあってこっそり見てたけど」
ノロイちゃんはベッドの中から顔だけをだし、まるで生首だけのようになっている。
「頼む。なんとかしてくれ!!俺に猪島をはねのける力をくれ!」
「うーん、まあ頑張ってみるけど。どうしようかな。ノロイパワーもこの場合逆効果だしねえ。じゃあこんな夜の名言コーナーはどうかな?」
「なんでもいい!」
「女はベッドの上では全員が女優だ。演技をしないものはいないのだから」
ノロイちゃんは神妙な表情と、FMラジオのDJみたいな決め口調でそう言った。
「な、なるほど。他にないか」
「男の愛していると、女のイクほど信用のならないものはない。どちらもbyノロイちゃん。実体験に基づいてます」
「悲しい……悲しい現実にちょっとゲンナリしてきた!もうちょいないか!?」
「ちょ、ちょっと、さっきから急に何を一人で喋ってるの?」
猪島が突然発狂したように独り言を言う俺をドン引きの顔で見下ろす。
そんな猪島は無視して、ノロイちゃんは自身の髪の毛を一本掴むと、猪島の体の中に入り込む。
そしてちょうど彼女の乳首のところから、その毛をはみ出させる。
「ちちげ~」
「あはは!スゲー長い!よし!いいぞ!これはだいぶゲンナリする!」
ノロイちゃんはさらに彼女の体のなかで、大の字のような格好をする。すると彼女の両腕と両足が猪島から生えているような絵になった。
「アシュラマン!」
「誰だそれは!知らねーよ!でも気持ち悪いからゲンナリした!」
「ちっ、ジェネレーションギャップをこんなところで感じるとは……ノロイちゃん渾身のギャグなのに」
ノロイちゃんは僕のつっこみに不満があるようだ。
「とにかくありがとうノロイちゃん。おかげで何とか理性が保てた」
「な、何?さっきから独り言?誰と喋ってるの?」
「いいかげんおりろ!」
僕は右手を彼女の胸から離すと、強引に立ち上がった。「きゃっ」猪島の細い体がベッドに転がる。
ギリギリだったがノロイちゃんのおかげで、僕は猪島の誘惑に耐えることが出来た。
「早く服を着ろ!」
僕は彼女の裸体を見ないよう、急いでドアの方に駆け寄った。
「服を着たら早く部屋から出ていけ。出ていかないなら僕の方が出ていく!」
彼女も言われるまでもなくベッドの布団で上半身を隠した。これ以上は見せても損だと考えたのだろう。
「お遊びは終わりだ。お前のいう通りにはならない。つき合わないしやらない。お前が何と言おうと僕は心と結婚する予定なんだよ!」
「そういう戯れ言で、心を縛っているのに気がつかないのね」
猪島は大きくため息をついた。
「とにかく藻乃は出ていかないもん。ここまでしてあげたのに、童貞に断られるなんてショックで動けないんだもん」
「急にかわいこぶんな、もういい僕が出ていく」
「ちょっと待ってよ。さっきから言ってたノロイちゃんって何なの?出ていくのはいいけど、それだけ教えてよ気になるじゃない」
適当な嘘をついてもよかったのだが、非常に興奮していたことと、初めての幽霊憑きという仲間意識から、ノロイちゃんの事を喋ることにした。
「本当に奇遇だよな。僕にもお前みたいな幽霊がいるんだよ。名前はノロイちゃんだ。これ今まで誰にもいったことないがな。今も僕のすぐ横にいる」
僕はノロイちゃんのいるところを指差した。猪島には何もないただの空間だろうが。
「藻乃には見えない」
「だろうね。今まで誰も気づかなかったよ」
僕の言葉を聞いて、猪島は途端僕への興味が完全に失せたようで、かなり投げやりな口調になった。
「あ~あ、失敗しちゃったなあ。負けた恨みを晴らそうと、心の意中の男を落とそうとしたのにさあ」
「な!?」
「無論それだけじゃなく、妊娠したことを伝えて、演劇部自体を潰してやろうと思ってたのに。あんたがいなくなれば、あんな寄せ集めの部、すぐにでも瓦解するのはわかってるのよ」
「な。さっきの心への友情論はどうしたんだよ」
「はっ、そんなの嘘にきまってるでしょ。童貞って単純」
猪島は冷めた表情で僕を鼻で嘲笑う。
「しっかも藻乃の大嘘の母親の幽霊とかも本気で信じたの?いっそ突飛な言い訳の方が、あんたを迫る理由を誤魔化せるかなと思っただけなのに。自分にも幽霊がいるとか、ふざけたこと言い出して……実はあんたって頭おかしいんじゃないの?そんな男と間違ってもやらなくて正解だったわ。この猪島藻乃の輝かしい芸能人ロードの汚点になるとこだったわ」
猪島はオーバーなリアクションで肩をすくめる。
「ああ、そうかよ!けど残念だったな。お前の裸体は目に焼きつけたからな!あとで色々妄想してやるわ!童貞なめんなよ!じゃあな!」
僕は何が本当で何が嘘か、本当にわからなくなり、最低な捨て台詞を吐いて部屋から飛び出した。
そのまま勢いでホテルの外に出ると、昼間撮影を行った海岸までとぼとぼと歩きだした。
第三十六幕 海
夜の海は吸い込まれそうなほど黒く何も見えない。その癖、音だけは鮮明に聞こえてくるのが却って不気味だった。かすかな光を受けて反射する水面を見ながら、さきほどのやり取りを思い出す。
猪島は最後に全部嘘だと言った。僕を誘惑したのは心に負けた腹いせだと言った。
心への友情話よりも、どう考えてもそちらのほうが納得できる。
でも心を助けたいといった彼女の目は、本気で言っているようにしか思えなかった。でもそれは僕が人を見る目がないだけなのだろうか。
「あー駄目だ。全然わかんねー。嘘か本当かなんてわかんねえよ」
苛立ちから髪をぐしゃぐしゃとかきむしる。
「私は全部本当なんじゃないかなって思うけど」
僕の疑問にすぐ横に浮かぶノロイちゃんが答えてくれた。
「どういうこと?」
「言葉通りよ。心ちゃんを救いたいっていうのも、負けた恨みを晴らしたいっていうのも、全部あの子にとっては本当なんじゃないかなってこと。好きだし嫌い、嫌いだけど好き、なんてよくあることでしょ。人と接するのが苦手な鹿野ちゃんとかもそんな感じじゃん。それをもっと酷くした版よ」
「鹿野より酷い……か。どんな人格破綻してるんだ。と思ったけど、まあ、そうかもな。破綻はしてる、けど頭はいいから表層的にはうまく立ち回れちゃうだけなのか」
「最後のは負け惜しみというか、あの子プライドは凄く高そうだから、最後はああ言っちゃったんじゃないかと思うよ。今頃どうしてあんなこと言っちゃったんだろうって頭を抱えてるんじゃない?」
「あいつにもそんな人間らしいとこあるの?」
猪島の後悔で頭を抱えて転げ回る姿、というのはいまいち想像できない。
「それは置いておいて、彼女の本心は別のところにあると、私は思うんだよね」
「本心?」
「こっからは私の勝手な推測だよ」
ノロイちゃんはいつになく真剣な表情だ。
「うん」
「心ちゃんへの恩返しであろうと、仕返しであろうと、薫風にあそこまでする必要あったと思う?おっぱいまで見せてさ」
彼女の美しい張りのある乳房を思い出す。できれば忘れたくない記憶だ。
「…………ない。普通に可愛くつき合ってと言えばそれでいいよな。普通はそれで簡単になびく。何であんなにサービス過剰というか、エロく迫ってきたんだろうな」
「そうなんだよね。私もそこがひっかかってたんだけど、負け惜しみのなかでついポロっとこぼしていた台詞の中に彼女の本心があったんじゃないかなって思った」
「んん?何か言ってたっけ?」
「最後に妊娠で脅したかったと言ってた」
「ああ、言ってたね」
「実は私はあれが本心なんじゃないかと思うのよ。関係を持ったという既成事実だけだって、彼女の狙いは十分果たせると思う。でも彼女は妊娠すると言った」
「どういうこと?」
「つまり彼女は……妊娠したかった。これが多分彼女の本当の狙い」
「な、なんで?これからアイドルのスター街道を走ろうとしてるのに、そんなのまずいだろ」
「最初に言ったけど私の推測だからね。いい、母親の幽霊話があったでしょ?」
「ああ、同じ仲間かと思ってびっくりした」
「全部彼女の話だから、どこまで本当かはわからないよ。でも自分が原因のスキャンダルで母親が自殺して、それを気に病んでいるのは事実なんじゃないかしらん」
「おそらくそれは間違いない……」
自分の存在で親が自殺する。
その後に残された子供はどんな風に育つと言うのだろうか。姓も母親と同じということは、実父の元では育っていない気がする。
「物凄いショックだったろうね。言葉では言い表せないほどだよ。あの子はそれが原因で、罪滅ぼしなのか、大好きな母親と自分を同一化する傾向にあるのは間違いないと思う。だからトップアイドルになろうとしてるんだろうし」
「同一化……」
「そういう前提で話を進めるけど、同一化するのであれば、アイドル以外にも彼女がすべき事がある」
ノロイちゃんの口調がどんどんと重くなる。話が核心に近づいているからだろう。
「あの子の母親はアイドルをやる前に、若くしてあの子を産んでる」
「…………え?てことは……ちょっと待ってくれよ。母親が十代で産んでるから、自分も同じくらいに出産したいって言ってるの?」
「多分ね。どこまで自覚してるかはわからないけど……かなり無自覚なんじゃないかと思うけど」
僕の子を妊娠する。
心への恩返しと復讐を同時に兼ねることができ、尚且つ自分の望みを叶えることが出来る手段。だからあそこまで僕を誘っていたというのか。
「薫風が選ばれたのは、顔がいいからだろうね。だから変に考え込まないで素直にやっちゃえばよかったんだよ!あの子がそれを望んでるんだから。よっイケメン!」
それまでの重々しい口調から一転、いつものノロイちゃんの砕けた感じに戻る。
「今から部屋に戻って土下座したらヤらせてくれるんじゃない?」
「あのな……そんな簡単に割りきれるかよ……心を裏切ることもできないし、そんな重い話の後じゃますます無理だろ。はあ、でも正直惜しかったなあ……」
僕はまだ手に残る彼女の乳房の柔らかさを思い出した。
正直、後悔がゼロではない。ゼロではないどころか四捨五入したら繰り上がってしまうぐらいはある。
そんな僕の心中を見抜いたのか、ノロイちゃんが更に無念を煽るような事を言う。
「あの子と散々ヤった後、心ちゃんともヤればいいんだよ。それでだいたい丸く収まるって」
「最低だ……ゲスの極みアイドルだ。僕はそんな大人にはなりたくない」
それではあの教頭とまるで同じではないか。
「若いねえ。でもそんな汚い大人としては、あの子が母親の他の事もトレースしないように祈るばかりだけどね」
「何を……え、まさか……そんな」
ノロイちゃんの言葉で、最悪の未来のケースを想像してしまい、先程までのピンクな妄想は吹き飛んだ。そうかノロイちゃんは最初からここまで想定していたのか。
「薫風も思い至った?そう、母親の自殺までトレースしないといいなと思うのよ。親は子に生き方を示す一番身近なサンプルだからね。こんな統計があるの知ってる?親が自殺した場合、残された遺児が自殺する確率って、普通に育った子供の何百倍もあるんだって」
何百倍……ノロイちゃんの言葉に何も言うことができない。
「あの子は心ちゃんは芸能界には向いてないと言ったけど、私からしたらあの子が一番向いてないんじゃないかと思ったよ。あの子の心が一番苦しんでるように見えた。心ちゃんを救いたい救いたいって何度も言ってたけど、本当は自分が救われたいと思っている裏返しなんじゃないかしら」
僕は暗闇でうずくまり、一人泣いている猪島の姿を想像してしまった。今度はきちんと想像できた。
「ねえ薫風。もしあんたにあの子を救えるようなら、救ってあげてね。あんたの二本の腕。一本は心ちゃんを掴みとるための腕でいいよ。でももう一本はあの子を救い上げるために残してあげて欲しい。別につきあえとかいうわけじゃないんだけどさ」
「随分猪島に肩入れするんだな。そりゃあ、あの子には同情する余地はいっぱいあるよ。でも今のところ彼女の好感度があがるようなイベントが何もないんだが」
「うーん、そうだねえ。好きとか嫌いとかじゃなくてさ、何というかあの子はあんたの鏡みたいなところがあるからさ」
「鏡?どういうこと?」
その僕の問いに、ノロイちゃんが答えてくれることはなかった。人がこちらに近づいていたからだ。
「お、遠くから芽理沙と蜜葉が来てるよ。あの子らも薫風のハーレム要員かねえ」
「ハーレムなんて築いてねえだろ。変なこと言うな」
ノロイちゃんの言う通り、後ろから芽理沙さんと蜜葉さんがこっちに歩いてきていた。ノロイちゃんは会話は終わりといわんばかりに、黒い海に潜っていき、姿を消してしまった。
鏡とは何だったのか、この時無理にでも聞いておけば良かったかもしれない。
ノロイちゃんがこの僕の問いに答えてくれることは、この後も二度と訪れることはなかったのだから。
お話もだいぶ佳境です。後数回で最終回の予定です。




