鏑木心と猪島藻乃と野獣番長と甘蜜王子
第三十二幕 社会科準備室
「はうああああああ。あばばば。おっぱいおっぱいおっぱい。ぺろぺろぺろぺろ」
マロンの意味不明な絶叫が、演劇部の部室に響き渡る。一通り叫ぶと作画ミスのような顔で呆然と椅子によたれかかる。
FXで損失を出したのだろう。
このFX取引による彼女の一喜一憂はもう僕らは慣れっこで、ちょっと見ただけで特にこの程度では驚かない。
「いくらー?」
どのくらいのマイナスになったのか心が興味無さそうに尋ねる。
「五十万とちょっと……」
五十万程度ならいつもより少ないくらいである。しっかし高校生がいくらの勝負してるんだよ。普通に五十万稼ぐって恐ろしく大変なのだが……それを一瞬で無くせるんだからFXは恐ろしい。僕が今五十万失ったら失禁ものだ。
こんな時にマロンに声をかけても、ろくなことがないことはみんなわかっているので、それぞれ自分の作業に戻る。
蜜葉さんは一人、新刊を熱心に読書中。『野獣番長と甘蜜王子』という背表紙が見える。どんな内容なのだろうか……
心と芽理沙さんは二人で他愛のない、海外旅行いくならどこ行く?という雑談。
少し前なら芽理沙さんは蜜葉さん以外とは、積極的に会話ををすることはなかった。それがあの公演以降、部員誰とでも普通に会話をしているのだ。
気のせいかもしれないが、蜜葉さんへの依存度が少しだけ下がったように思える。
それはとても良いことに思える。
ここまではあくまで平常運転な演劇部の部室だが、今日はいつものメンバー以外に新規の顔が三つ。三人ともぎょっとした顔でマロンを見ている。
その三人とはフラワーパネルの、猪島藻乃と鹿野麻怜と蝶林さゆりの三人だ。最初は訝しげにマロンを見ていたが、僕らが何も触れないので三人も自分の世界に戻っていく。
猪島は鏡で自分の顔を入念にチェック。蝶林はバイクが欲しいのだろうか、バイク雑誌を熱心に読んでおり、鹿野はイヤホンで何かを聞きながら、広げった小さめのスケッチブックに何やらイラストを描いていた。たまににやにやしたり、鼻を穴を広げ必死に笑いをこらえているような鼻息をだしている。あまりファンには見せられない顔だな。おそらくいつもの声優ラジオか。
もともと広くない社会科準備室は八人の大所帯となってきゅうきゅうだった。
人口密度が高いだけではなく、演劇部とアイドル部との間に漂う、張りつめた空気が息苦しい。僕も今は静かに黙って座っているだけだ。
そこに美沢先生が元気よく入ってきた。
「いやーすまん、すまん。お待たせ。色々担当者とこれからのことを話し合っててな」
「ほーんと。待ちくたびれたよ。早くしてくれよ」
蝶林が気だるそうに言う。
「それではさっそく資料を配る。はいこれ。一人一部ずつ」
先生はプリントアウトされ、クリップで止められた資料の冊子を各人に手渡した。
「みんな、概要は聞いているな。文化祭でフラワーパネルと演劇部は共同公演をする」
うなずく演劇部一同。不満そうな顔のアイドル部の二人。鹿野は嬉しそうだ。
「今配ったのは当日のタイムスケジュールと公演内容の概要書だ」
全員概要書をめくる。
「ミュージカル?」
手渡された企画書に書かれていたミュージカルの文字に、女子七人から疑問の声があがる。すかさず猪島が美沢先生に質問する。
「これって藻乃達が歌担当で、演劇部が芝居担当ってことですか?」
「良く見ろ。公演内容はアイドル対決がモチーフってあるだろ。演劇部員たちも仮想のアイドルグループの一員となって歌って踊ってもらうことになる。猪島達は歌はもちろんだが、芝居も当然するぞ」
美沢先生の回答に部室はざわめいた。アイドル部は芝居という新しい課題をだされ戸惑いを隠せない様子。一方蜜葉さんは喜びで顔を輝かせている。心も顔を両手で抑えて感動している。ずっと夢だった歌の活動が始まるのだ。これまでの演劇部の苦労が報われた思いだろう。
「歌うって私達が……やったぜ心!これで私もお前も本当のスクールアイドルデビューだぞ!」
蜜葉さんが泣きそうになっている心の背中をばんばん叩いている。やったわねぇとマロンも横から嬉しそうに抱きついている。ただ一人その横ですっごく面倒くさそうな顔の芽理沙さん。働いたら負けと思っているアイドルを目指しているのかもしれない。
「演劇部員たちには、これからはアイドル部の協力のもと歌のレッスンが始まる。猪島達は逆だな」
美沢先生が言うと、猪島が再び質問する。
「芝居はいいけど、まさか藻乃達にまでコントやれっていうんじゃないでしょうね?」
「大丈夫だ。そんなことはさせない。そこは安心していい。猪島達はあくまで王道の正統派アイドル。芝居中でもそんなイメージだ」
美沢先生は猪島たちに向きながら言う。
「そして!」先生は今度は演劇部を勢いよく指差す。「それに対となるような叩き上げの雑草アイドルである演劇部!」
「雑草ですか……」心外そうな芽理沙さん。
「エリートVS叩き上げ!いつの時代も王道の対決構造よ!」
熱く演説する美沢先生。しかし庶民派向けの物語では、最後はいつもエリートが負けるのが王道のパターンでもあるので、ここでエリートと呼ばれてもアイドル部は嬉しくないだろう。だからか、不機嫌さを隠そうともせず藻乃が美沢先生に質問を続ける。
「アイドル対決というのはわかりましたけど、楽曲ってそんなすぐにいくつも用意できるのですか?藻乃達の分はこないだ何曲か新曲もらいましたけど」
「そうだな。そこにもちゃんと触れておくか。楽曲に関してもアイドル部が全面的にバックアップする。ただ演劇部が歌うことになるいくつかの楽曲は、お前達用に用意されていた曲だ」
「どういうことだよ、先公!」
これには蝶林が怒りのあまり立ち上がる。これまで中立だった鹿野も面白くなさそうな顔をしている。
「蝶林!アイドルとしてその口調はいただけないぞ。まあ落ち着けって。文化祭までもう日にちがない。
演劇部用の新曲も用意をすすめるつもりだが、全ての楽曲を新規で作っている時間がないんだ。それにあくまでこの日だけのことで、いずれお前達が歌うことになる。わかってくれ」
蝶林は渋々座り、すごい眼光でこちらを睨み付けてくる。アイドル対立の芝居は、迫真の演技が期待できそうだった。
「次読んでいくぞ。あらすじというか設定だな」
美沢先生が企画書の先の部分を読み上げる。
***************************************************
少し先の未来。
悪魔と呼ばれる存在が科学によって証明されていた。
悪魔は人々の不安や猜疑心を増幅し、殺人や自殺、破壊行為、といった負の衝動を引き起こす。強力なものは火事や事故など災害を引き起こすという。
その存在が科学の力により可視化され、耳目の元に晒されるようになった。その姿は、霞や煙のような朧な姿で大きさも様々。
確実に災いを呼ぶ悪魔を祓うには、近代兵器ではなく人間の熱狂した精神のエネルギーが必要だった。
しかしその人間の精神エネルギーは保存することができない。
いつどこで発生するかわからない悪魔に対して、嘘偽りなく熱狂したエネルギーをその場で集める必要があった。
その難しい課題をクリアする人間たちが少数であるが存在する――
それはアイドル!
アイドルを崇拝するファンたちの熱い声援は、まさに熱狂したパトス。
アイドルが悪魔のすぐ近くでゲリラ的にコンサートを開き、客を熱狂させれば、悪魔を倒す力が集まる。アイドルは、ただのかわいい少女から、魔法少女へと、そのアイコンを変えていく。
そんな時代に、ある一人の女子高生が新人アイドルグループ、いや新米魔法少女グループとしてデビューしようとしていた。
***********************************************
「ふん、くだらない」
猪島藻乃は企画書を雑に机に放り投げる。一生懸命考えた身としては、ちょっと傷つく。
「中身なんてどうでもいいのよ。大事なのは誰が主役をやるのかってこと。藻乃なのか演劇部の誰かなのか」
アイドル部であれば自分しかいないという、確固たる自信があるようだ。
「今回の芝居はコメディだ。やりすぎるとお前達のイメージを壊しかねない。ここは演劇部から選ぶつもりだ。それにミュージカルとなると歌唱力にごまかしが効かない。主役にはきちんと歌える人間が……」
先生が最後まで言い切る前に猪島が立ち上がる。
「藻乃の歌唱力では不満と言うことですか?」
「お前の歌唱力は高く評価している。しかしイメージが……」
猪島の迫力に圧されるように美沢先生が答えるが、その答えが終わる前に猪島が部屋を出ようと歩き出した。
「こんな茶番劇にはつきあっていられないわ。藻乃が主役をやれないなら藻乃は降りる」
脇目も振らず一気にドアまで歩き、取っ手に手をかけたところで美沢先生が背後から強い口調で声をかけた。
「おい、猪島。アイドル部から除籍されてもいいのか」
「結構よ。というか辞めるわ。学校を。アイドルになれないのならこんな学校にいても仕方ない」
そういうと迷いを一切見せず、ドアを開けて出ていく。
「待って!猪島さん。ちゃんと話し合いましょうよ」
心が慌てて後を追う。鹿野と蝶林も同じく追いかけるように部屋を出る。僕も急いで立ち上がる。
「行かせたきゃ行かせりゃいいのよぉ。辞めるって本人が言ってるんだからぁ」
マロンはどうでも良さそうに頬杖をついている。芽理沙さんや蜜葉さんも同様に冷静だ。
演劇部サイドにしてみれば当然の反応か。美沢先生もトラブルはお前が解決しろと目で合図するだけで静観の構えだ。普通は教師の仕事じゃないのかよ……
僕の構想の中で、猪島はミュージカルを成功させるための大事な要素だった。辞められると非常に困る。僕は廊下まで飛び出し、先を行く猪島を大声で呼び止めた。
普通に呼び止めても無駄だろう。――ここはリスクを負うしかない。
「猪島!ここはひとつ主役を賭けて勝負しないか?」
「勝負?」
主役を賭けるという言葉で猪島はやっと足を止めた。自分のペースの交渉に持ち込めたからか、余裕の表情で振り返る猪島藻乃。ただこちらもそう簡単に主役を譲歩するわけにはいかない。心を主役にすることは最初の目標でもあるのだ。
「そうだ。お前とこの鏑木心とで歌唱勝負をする」
僕は横にいる心を指差した。
「心が僕の考えていた主役候補だった」
心が横で驚いた顔をしている。部室からは蜜葉さんとマロンの抗議が聞こえてきた。でも今はそれは無視して続ける。
「心に勝てたらお前が主役だ。ただしお前が負けたら、ちゃんと出演し自分の仕事を全うしろ!」
「それじゃ足りない」
底意地の悪そうな笑顔をする猪島。
「何?」
「私が勝ったら、その女は今回の出演は辞退する。それが条件よ」
猪島は心を指差す。
「な……」
あまりの暴挙に開いた口が塞がらない。さすがにリスクが高すぎて、これは乗れる話ではない。心も下をうつむいてしまった。
仕方がない猪島なしで構想を練り直すか。
「ふざけんな!私らはお前なんかいらないっつうの。さっさとどっかいけ。学校もやめたきゃやめろ!」
僕への抗議のためか廊下に顔を出してきた蜜葉さんが、口悪く猪島に反論する。マロンも心の横に立ちアドバイスをする。
「心ちゃん、受けることないわよぉ。自分のプライドを優先するような奴は何やっても大成しないもんよぉ」
「珍しく私もまったく同感だわ」
芽理沙さんも部室から出てきた。鹿野と蝶林はどうすべきか判断に困った様子で成り行きを見ている。
猪島は返事に窮している僕を見て察したのか、振り向き今度こそ本当に立ち去ろうとした。そのとき、ずっと下を見ていた心がパッと顔を上げた。
「待ってください!」
廊下に心の声が響く。
「私………勝負、受けます!」
強い決意の表情で心は猪島を見つめる。
「ちょっと心ちゃん……」マロンは呆れている。
「おい心やめろ!こんな勝負無意味だ。こんなの猪島のわがままなだけだ。いいか……」
慌てて心を制止する。だが僕の説得を遮るように、心は悲痛な叫びにも似た声をあげた。
「私もこんな気持ちで舞台に立てない!」
廊下はしんと静まり返った。
「私ずっと悩んでた。人気が出て周りから持て囃されればされるほど、人が集まれば集まるほど……私はどんどん孤独になっていく。顔見知りは増えても友達は増えない。その数少ない友達も信用できない、縁を切った方がいいと言われてしまう……悲しいよ……寂しいよ!アイドルってそんなさびしい者だったの?」
心の声がだんだん涙をこらえるような声になっていく。
「私はそんなアイドルは嫌だ!私はみんなでハッピーになりたいの!!」
ここ最近の心に溜まっていたわだかまりを、全てぶちまけるように大声を張り上げる。
「鏑木心……あなた」
猪島が踵を変え、心のほうに近づいていく。
猪島がどんな言葉をかけるのか、僕たちは静かにそれを見守っていた。心の必死の訴えに猪島が心を打たれたのかと思った。しかしその次にでた言葉は、そんな期待とは裏腹な心への呪いの言葉だった。
「あんたって…………本当に下吐がでるわ」
猪島はつららのような目をして言った。透き通っていて、そして触っていられないほどに冷たい。そんな目だ。
「そんな甘い考えじゃこの世界はやってけない。アイドルはね……呪われてるのよ」
呪い。なんとなく後ろのノロイちゃんをちらりと見る。猪島の言うこともあながち間違っていない。
「アイドルはセンターを、主役を、人気ナンバーワンをとれなきゃ意味ないのよ。ダメなのよ。それ以外は負け犬なのよ。そういう呪いを受けているの」
「そんなこと……」
「友達ができない……?当たり前だ!!頂点に立つものは常に一人!!」
藻乃は人差し指を立てた手を高々と掲げる。鹿野っぽいというか、下手すればちょっとバカみたいなポーズだが、猪島がやると何故か決まっていた。目が釘付けにされる。彼女は人目をひきつける才能があった。腕をおろした彼女はゆっくりと心のまわりを歩き出す。
「あんたみたいな甘い奴は、オーディションで落選させて正解だったわね」
「落選させたって……私を……?」
突然の猪島の告白に心はもちろん周囲もざわっとする。
「あ~あ、言っちゃった」猪島は楽しそうだ。
「私は中学の時からスカウトされてこの高校に入学してるのよ。だからアイドル部のオーディションもパス。むしろ…………選ぶ側だった。そしてあんたは…………合格者の一人だった」
「え?合格……していた?」
心の顔はいよいよ強張っていく。
「でもあんたを入れるとグループは四人になる。四人じゃ藻乃がセンターになれないのよ。奇数じゃないとダメなの……だから……あんたは私が教頭にお願いして落としてもらったの」
呆然とする心と僕らが、何かを口にしようとそのベストのタイミングで、猪島が無邪気に笑い出す。
「なんてね!どう?本気にした?」
口元は笑顔でも目はまるで笑っていない。
「嘘?」
「もちろん嘘じゃないけどね。それでこの話を聞いてまだ私と仲良しごっこしたいっていうの?」
猪島はゆっくり回転しながら心から離れていく。僕は心がショックを受けて落ち込むか、怒りにふるえているんじゃないかと、心の顔をそっと見た。だが心はそのどれでもなかった。まっすぐに微笑んでいた。なんというか爽やかだった。
「落選した日に、今の話を聞いていたらきっと怒り狂っていたと思う」心は思い出すように言う。
「アイドル部に入れなくて立ち上げた演劇部だけど、私はそこでもほとんど主役じゃなかった。人気者はマロンとか蜜葉さんとか芽理沙さんだった。こないだの食堂ライブだって私はチョイ役。でもセンターを、主役をとれないことだって無駄じゃなかった。そこでの練習や身につけたものがあったからこそ、こうして主役候補になれたと思っている。
「猪島さんを怒るなんてとんでもない。むしろ感謝すらしてるよ。あなたが私を落としてくれたから、、私は最高の仲間に巡りあえて、こうやって歌を唄えるチャンスを貰えた。私にとってこの遠回りの道こそが最短ルートだったんだ」
「はあ?本気?何気持ち悪いこといってんのよ」
猪島が演技ではない本気の顔で引いていた。
どちらかといえば僕は猪島の方の気持ちがわかる。自分を陥れた張本人に感謝するとか、普通なら狂人の域だ。個性的な演劇部の中で、一番普通というか没個性的な印象もある心だけど、一番壊れてるのは彼女かもしれない。でも、僕はそんな心が好きだ。もちろん彼女を好きなのは僕だけではない。
「そうよ。うちの心ちゃんは最高に気持ち悪いのよぉ」
マロンが心の横にたちそっと肩に手をのせた。
「今の台詞よく恥ずかしげもなく言えるわよね」
芽理沙さんも反対に立つ。蜜葉さんも続く。
「まったくだぜ。こいつは一番キモいけど、でもうちらの大事な仲間だぜ。お前も今なら気持ちの悪い仲間にいれてやってもいいぞ」
蜜葉さんがびしっと猪島を指差す。まっすぐきれいに伸びた人差し指。ここにも人の視線を集める天才がいたことを思い出した。
「ふふふふ、いいじゃない。藻乃との勝負受けてくれるんでしょ?やりましょうか。歌唱対決ってやつ。完膚なきまでに叩き潰して、あなたたちの最高の仲間を一人除外してあげるわよ」
猪島は愉快に笑う。そこにぱん!と両手を叩く音がする。美沢先生が心と猪島の間に割って入ってきた。そして逃がさないように二人の肩をぎゅっと抱き締める。
「よーし、それじゃ決まった!勝負するならフェアにやらなとな。私が勝負の場をセッティングしてやる」
「先生が?」
僕は慌てて質問する。できれば心有利の勝負にと思っていたが、そうはいかないようだ。
「歌唱対決だっけ?いいじゃないかー、それで」
美沢先生は二人の顔を見比べながらニヤニヤしている。
「勝負は二人で課題曲を歌ってもらい、どちらがミュージカルの主役に相応しいかを審判員が判定する。ってのはどうだ?」
「いいわ……それで」
猪島はそっけなく答えるが、心は緊張ぎみだ。
「わ、わたしもそれでいいです!」
「日時や詳しい方法は追って知らせる。すぐにでもミュージカルの練習をはじめなきゃいけないし、勝負は細かい内容や調整が決まり次第すぐにやる」
「いいけど、出来レースだと判断したら勝負は降りるわ。公平にお願いします」
「もちろんだ。安心していいぞ」
それを聞くと、猪島は美沢先生の手を払いのけると振り返りもせず去っていった。姿が見えなくなると、なんとなく弛緩した空気になった。みんな大きく息を吐き出す。
「よくいったぞ、心!」
美沢先生は張りつめていた反動でか、脱力している心の背中を強く叩いた。
「なかなか格好よかったぞ。あとは勝つだけだな。それが一番難しいかもしれんが」
「えええ!?やっぱりそうですかあ?」
心がだんだんと負けたときのペナルティを実感しだしてきたのか、顔面蒼白になってきた。
「心ちゃんあんな啖呵きちゃっていいのぉ?はっきりいって勝ち目低いんじゃなあい?」
マロンがあ~あという諦め口調で心に言った。
「私にしては珍しく、空気読んでなんとなく合わせたあげたけれど、もし負けたらどうするつもりなの?」
芽理沙さんも厳しく心を追求する。蜜葉さんはもっとストレートに責める。
「お前バカなんじゃねえの?」
「みんな酷い……もっとこう励ましてよ」
心は涙目で訴える。弱気になっている心にマロンがそっと二の腕を叩く。
「言っておくけど負けたら許さないわよぉ。訴訟ものよぉ」
マロンの応援に、心はぐっと唇を結びこくりとうなずいた。
「私は別にどうでもいいですけど」芽理沙さんはあくまで冷酷。
「よく考えたら、心がいないほうが私が目立つ気がする」
蜜葉さんも残忍。ドライコンビだった。
「まあ、それもそうねぇ。マロンも心ちゃんが残るより、マロンが目立つほうが嬉しいわぁ」
「ちょっとは応援してよ~」
ここで外から見てるだけの蝶林が会話に入ってきた。
「うちらは応援するよ」
蝶林からの意外な言葉。ヤンキーと言うのは、情に厚そうに見えて、あっさり裏切る習性を持つ生き物なので、さっそくご主人を見限ったのか。
「お前らはムカつくが、藻乃の為にもお前が勝ってやってくれ」
「私が勝つでいいの?」
心が蝶林に当然の疑問をぶつける。何故同じ仲間の猪島を応援しないのか、心にはよくわからないようだ。僕もわからないけど。ヤンキーの習性は未だ多くが謎に包まれている。
「あいつはトップであり続けることに、固執しすぎて誰にも心を打ち解けられなくなってる。あたしはあいつを少しだけ楽にしてやりてえんだよ。立ち止まったりつまずくことだって、人間なら誰でもあるっていうことを教えてやりてえんだ。ただそれはあたしじゃ出来なかった……あいつの為と思ってやったことも、なんだか裏目に出ちまったし」
蝶林は照れくさそうに頭をかく。もし僕への暴行のことを言ってるのだったら、猪島のせいで酷いとばっちりだよ!
「あいつが誰よりも努力してるのをあたしは側で見てきたからな。良くわかるんだ……あいつは自分自身を追い詰めすぎてるぜ……あれじゃいつかパンクする」
蝶林は藻乃の去っていった方を見つめながら言った。やり方の問題は置いておくとして、蝶林が猪島の事を真剣に心配しているのは伝わった。裏切ったように見えて、真意は猪島を想っての事らしい。やはりヤンキーは仲間意識が強い生き物らしい。
「か、か、彼の者の魂は、アイドルという虚ろなる器に、そ、そ、注ぎすぎている。翼を休める刻も必要……」
鹿野も僕のよく知らない方言で同調する。
「おまえってそういう恥ずかしい台詞よく言えんな。いかれたホモCD聞きすぎじゃねえのか?キモすぎ」
蝶林が鹿野につっこむ。ヤンキーがオタクをいじるのも鉄板だな。顔を真っ赤にして奮えている鹿野を無視して、蝶林は心の肩をつかむ。
「お前に藻乃を上回れって言うのは無理かもしれねえけどな。まあ、本当頼むぜ……」
「わかった。まかせて!」
心はどんと胸を叩いた。




