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英雄の時代

 オクタヴィアヌスが少年期を終えようとする頃、すでにローマはカエサルを中心に回っていた。

 紀元前五八年にガリア総督に就任してからというもの、彼は異民族の跋扈するアルプス以北を独力で平定。冬季に入り休戦期を迎えるたびに本国への途中報告を送り、そしてまた雪解けとともに馬上の人に戻るのだ。その報告書は正式には『ガイウス・ユリウス・カエサルの業績に関する覚書』と銘打たれていたが、親しみやすい『ガリア戦記』という名で広まり、カエサル不在のローマを賑わせていた。

 遠きガリアの地からもたらされる戦勝の報にローマ市民は歓喜し、彼に対する賞賛の声を惜しまなかった。だがその歓声は同時に、共和政信奉者にとっての悲痛な叫びでもあった。なぜならばこの壮挙は五百年続く元老院体制を徹底的に無視し、打破したすえの栄光であったから。

 経過をたどるため、時は数年、遡ることになる。


 ローマ随一の富豪であり「騎士階級」の首領クラッスス。

 東方遠征を成し遂げ「偉大なる」とさえ称されたポンペイウス。

 そして名門の誉れ高く「民衆派」の輝ける希望カエサル。

 元老院とは六百人の選ばれた血統貴族からなる寡頭政体である。誰かひとりの人物がどれだけ有能でいくら国家に貢献できようとも、あくまで六百分の一の権利しか持たない。たとえいくつもの国を属州として版図に加えようと、首都ローマに還れば甲冑を脱いで皆と同じ高さの議席に座り、発言の順番を待たなくてはならないのだ。さもなくば傑出した存在がいずれ「王」となり、自分たちの上位に君臨することになる。

 よって元老院が突出した力を持つこれら三名を圧迫し、ローマのあるべき姿を保とうとするのも当然だった。しかしその防衛本能を逆手に取り、反元老院という立場で他の二者を抱きこむことに成功したのが、カエサルだった。

 クラッススとポンペイウスの後押しで共和制ローマの最高位である執政官にのし上がったカエサルは、両者にとって有利な法案を、国家にとっても有益な形で施行する。自分たちへの利益誘導だけに奔走する元老院議員との違いを明確にすることで、市民からの賛同を得ることに成功した。

 三頭政治の始まりである。

 カエサルが執政官を務める一年間は元老院にとってまさに針の筵であったが、復讐の手を用意しておくのも忘れてはいなかった。任期を全うした執政官は翌年からいずれかの属州に総督として赴任することになる。誰をどの属州に送るかは、元老院に決定権があるのだ。元老院がカエサルの任地と定めたのは「イタリア内の森林と街道」。つまり属州ではなく、イタリア本国の街道を整備し、林業に専念しろという命令に他ならない。

 属州とはすなわち辺境である。ローマに服属しない国家や異民族と境を接するため、その総督は防衛のための軍団指揮権を有する。元老院はカエサルに軍事力を与えることを恐れ、従来ならありえない役職まで用意したのだ。

 カエサルはしかし、この命令を一笑に付した。執政官の権限を用いて自らの属州任地を自らで決めるという法案を作ったのだ。むろん元老院は躍起になって反対する。カエサルはすかさず市民集会を召集して強行採決に持ち込み、これを認めさせる。

 カエサルが選んだ地はガリア。辺境中の辺境であり、防衛のために四個軍団(約二四〇〇〇人)の指揮権と全幕僚の任命権を獲得した。なおかつ本来なら一年である総督任期を五年にまで引き延ばして。

 もはや属州ガリアはカエサルの王国と言っても過言ではなかった。しかも彼の野心はさらに北方、異形の神々が住まう黒い森に注がれていた。ローマ人よりもふた回りも大きな体躯に獣皮をまとい、髭を蓄え、好んで鳥獣を食すというガリア人が治める未開の地である。数え切れぬほどの諸部族が割拠する北ガリアに、カエサルは初年から積極的に遠征した。卓越した指揮とローマ軍団特有の技術力で次々と有力部族を屈服させ、支配力を強めていった。

 もちろん本国の元老院派もカエサルの勢力伸張を危惧していた。カエサルを目の仇としている小カトーは、属州防衛を任務とする総督が己の独断で国外に攻め込むなど、重大な反逆罪であると真っ向から非難した。だがここでも元老院と民衆の間で認識の差が生じる。国家を運営する元老院からすればすでに現在のガリアは脅威というよりただの野蛮な隣人に過ぎない。警戒さえ強めていればかつてのカルタゴのようにアルプスを越えてまでローマに戦火を及ぼすことはないと判断していた。しかし民衆からしてみれば、ガリア人と聞けばたとえ三百年前といえどローマ市を占領略奪した唯一の異民族である。今では地中海世界を傘下に治める大国ローマにとってまさに歴史の汚点である。よってカエサルのガリア侵略という断行も、むしろ蛮族に威光を示すための偉業だと褒め称えた。

 こうなっては元老院派はカエサルの失敗を神に祈るしかなかった。その願いが通じたのかどうか、破綻はまったく別の方向から起こった。三頭の一角である経済界の巨人、クラッススである。


 一代で「ローマの富の半分を保有する」とまで言われるほどの財を築いたクラッススにとって残る念願は軍事的栄誉に与ることだけだった。二十年前に起こったスパルタクスの乱の鎮圧では功を挙げたが、所詮は身から出たさびを落したに過ぎない。はるかエジプトまで東方平定を成し遂げたポンペイウスや、仇敵であるガリア人を屈服させつつあるカエサルの輝かしい業績が、六十歳を過ぎたクラッススを焦燥に走らせていたことは間違いなかった。

 紀元前五五年、満を持してクラッススは総督として属州シリアに向かう。対するはローマ最大の仮想敵国、パルティア王国である。もしこの遠征が成功すればクラッススの名は永久に石碑に刻まれ、万編の詩によって謳われることになるだろうが、歴史はそれを許さなかった。自己の財産を殖やすためにならどのような悪辣や狡猾にも手を染めてきた彼だったが、こと軍事に関しては蒙昧に過ぎた。訓練の行き届いていない八個軍団(約四〇〇〇〇人)を引き具して広大な砂漠地帯を横断。ようやく現れた敵は弓騎兵のみ一万でまったく会戦に応じようとはせず、遠方から矢を射かけるのみだった。なんとか捉えようとこちらの騎兵を繰り出すも逆に包囲され射撃の的となる始末である。こうして昼間いっぱい翻弄され、無為に犠牲者を増やすことしかできなかった最高司令官は意気消沈し、夜間の総退却を決めた。ローマ軍はその名誉だけでなく仲間に助けを乞う哀れな負傷者たちまで砂漠に捨て去り、狂乱の中をひたすら逃げるしかない。そして陽が昇るとパルティア騎兵の猛追が始まり、そこかしこで一方的な殺戮が繰り広げられた。結果、クラッススをはじめとするほとんどの幕僚が戦死。ローマ領内に逃げ込めたのは1万名弱という惨憺たるものだった。まさにハンニバルによって被ったカンネーの戦い以来の屈辱である。

 この報せを聞いた元老院派の反応は迅速だった。クラッススの戦死はすなわち三頭政治の破綻を意味し、共和政回復の好機でもあったのだ。鼎のように互いを支えあっていた三者のうち一本の柱が倒れればどちらかに重心が傾くのは自明の理であり、残された両者の離間を謀るのが元老院の狙いだった。彼らは微塵の迷いもなくポンペイウスを担ぎ出し、カエサルの突き落としにかかる。国家の運営能力には限界を呈しつつあった元老院だが、自己の保身に関わる嗅覚だけは鈍らせていなかったのだ。常に全ローマの敬意の対象であることが望みのポンペイウスには、その矜持を満たすだけの「格式」を用意すればこと足りる。しかしカエサルは違う。彼の最終目標がほかでもない共和制の転覆にあることを元老院派はひしひしと感じていたのだ。一転共和政派の旗頭となった「偉大なる」ポンペイウスは辞を低くする元老院に満足したのか、カエサルへの態度を硬化しはじめる。


 やがてカエサルのもとに「元老院最終勧告」という形で本国への召還命令が届いた。指揮下の軍団はそのままガリア防衛に残し、丸腰のまま元老院に出頭せよという内容だ。むろんこれだけの威令を一方的に下すのだから、元老院にも十全な備えがあった。つまりポンペイウスに大権を与え、二個軍団で首都ローマの防衛に当たらせつつ、さらに兵力を増強する準備を整えていたのだ。もしカエサルが勧告を無視してガリアに居座れば反逆者と見なし、全ローマが総力を挙げてこれを駆逐し、素直に勧告に従っても良くてローマ市からの永久追放、悪ければ死刑である。元老院からしてみれば法廷でカエサルの専横を糾弾し尽くした後、死刑を宣告しながらも、かつての同胞であるポンペイウスの助命嘆願を聞き入れる形でローマからカエサルを追放する、というのが最も理想的な顛末であったろう。

 しかしカエサルは元老院の希望的観測に則って動いてくれるような男ではなかった。

 自分が軍装のままルビコン川を渡れば「人間世界の破滅」ということを知りながら、カエサルはその道を突き進んだ。なぜならば内乱という破滅のさらに向こうに、より良い未来を創造できるという確信があったからだ。ローマ人の間で流される血は少なければ少ないほど良い。その考えは敗れた元老院派に対する厚遇でも証明されることになる。よって紀元前四八年、アレクサンドリアにてポンペイウスの生首と対面した時に彼が流したとされる涙は、真から出たものだろう。


 そんな英雄の姿を誰よりも静かに、しかし熱い瞳で見つめ続ける男がいた。

 男の名はオクタヴィアヌス。カエサルを大伯父に持つこの男は、やがてその後継者としてローマ帝国という未完の大作を完成させることになる。

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