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3 婚約者登場

 翌朝、朝食の席。

 フィスカの言いつけ通り、庭師であるはずのキルスティは紅茶をいれるため彼女のかたわらに控えていた。

 食事を終えたフィスカの前に、絶妙なタイミングで紅茶が差し出された。カップから立ちのぼる湯気から、ほっと安らぐ香りが漂ってくる。

 フィスカはカップを口に持っていく。

 やはり紅茶は美味しかった。

 もしかしたら、たとえどんな安物の茶葉でも、この男なら美味しくいれられるのではないかと思うくらい特別においしかった。

 だが……。

 かたわらに立つキルスティを一瞥して軽くため息をつく。

 相変わらずの作業着姿。

 汚れていないだけましなのだが、もう少し、何とかならなかったのだろうか。


「ねえ、おまえ」


 不意に話しかけられ、キルスティはびくりと肩を跳ねた。


「は、はい……!」


「どうしてそんな驚いた声をあげるのかしら」


「申し訳ございません……」


 やっぱり、また謝るのね、とフィスカは再びため息をこぼす。

 それにしても、昨夜のキルスティはまるで別人のようだった。


 こんな人に、どうして私はどきどきしてしまったのかしら。

 それに、何だかとても女性の扱いに慣れているような気がしたわ。


 しらずしらず、唇に指先を持っていったフィスカはかあっと頬を赤らめた。

 キスされそうになった時のことを思い出したからだ。もしあの時、抵抗しなかったら本当にこの男と自分にキスをしたのだろうか。

 フィスカはううん、と首を振り、ふと、いいことを思いついたというように、フィスカはキルスティを見つめにっこりと笑う。


「ねえ、おまえはもう朝食はすませたのかしら?」


「はい、先ほど」


「そう。なら、おまえもここに座って、お茶につきあいなさい」


 屋敷のすべてを任せているクレオールでさえ、キルスティの素性をよく知らないと言っていた。ならば、自分がいろいろ聞き出してやろうと思った。

 え? とキルスティは驚いた顔でちらちらと左右に立つ使用人に視線を向けた。しかし、顔色一つかえない彼らの表情からは何も読みとることができず、自分がどういう行動をとるべきなのかと困った顔で視線を泳がせている。


「い、いえ……主と席をともにするなど……とんでもございません」


 途切れ途切れにキルスティは答える。

 たかが使用人が、主と朝食の席を一緒にするなどおそれ多いこと。


「私がいいと言っているの。いいから、ここへ座りなさい」


 フィスカは強い眼差しでキルスティを見上げ、側に座るように目で促す。

 しばし、ためらう表情を浮かべるキルスティは、少し離れたところで立つ執事のクレオールにそろりと視線を向ける。

 クレオールが目顔でうなずくのを確認して、おそるおそる席につこうとしたその時、前触れもなく食堂の扉が大きく開き、ひとりの男が現れた。

 仕立てのよい服を着た、二十歳前半の青年だ。


「やあ、可愛い婚約者どの」


 現れた男は芝居がかった仕草で手を広げ、遠慮なくこちらへずかずかと歩み寄ってくる。

 茶色みがかったくせのある髪と、髪と同じ茶色の瞳。

 その手には大きな薔薇の花束を抱えていた。

 途端、フィスカは明らかに不機嫌そうに顔をゆがめる。

 この男こそ、今週末開かれる夜会の主催者アルザス家の次男フェルディナントだ。

 たいそうな名前だが、本人自体は調子がいいだけの小者だ。


「ご機嫌いかがかな? 僕の可愛い小鳥ちゃん」


 フィスカは口を引き結び、ますます不機嫌そうな顔をする。

 今まさに席につこうとしていたキルスティが、後方に下がってしまったからだ。せっかく、キルスティといっしょにお茶を楽しもう……ではなく、彼の素性を探り出してやろうと思ったのに、突然現れたこの男のせいでだいなしだ。


「何の用かしら」


 どうしても口調が素っ気ないものになる。それに、フィスカはこの男が嫌いだった。フィスカの冷めた一言に、フェルディナントはおお……と天井を仰ぎひたいに手をあてた。

 いちいち仕草が大げさすぎて癇に障る男だ。


「何の用とは冷たいね。婚約者どの」


「あなたを婚約者だと思ったことは一度もないのだけれど」


 昔、もうずいぶんと昔。

 子どもの頃、親同士が冗談で言った約束をこの男は今でも真に受けているのだ。そして、父が亡くなってから特にここ最近、やたら頻繁に屋敷に現れるようになった。それも、我が物顔で。


「うーん、そういう冷たいところもぜんぶひっくるめて、君が愛おしくてたまらないよ」


 フェルディナントはしれっとした顔でうそぶく。

 思わず背筋がそそけたった。

 この男に愛おしいなどと言われても嬉しくもなんともない。


「私、忙しいの。用がないのなら帰っていただけないかしら」


「まあまあ、用件を伝えたらすぐに帰るよ。そう、今度の夜会なんだけどね。今度こそは必ず僕と踊ってもらうよ。君は夜会に出ても、いつも僕の誘いを断るから」


 フェルディナントは大仰に肩をすくめる。

 断るのは当然だ。

 こんな男が婚約者だとみなから思われることさえ腹立たしいのに、いや、実際は勝手にこの男が婚約者だと回りに言いふらしているだけなのだが……ダンスを一緒に踊って回りの好奇な目にさらされたくない。

 それに何より、フィスカはダンスが苦手だった。


「奥ゆかしい君も大好きだけれど、僕も立場というものがあってだね。って、ところで誰だい? そこにいる野暮ったい男は。この場に相応しくないのではないかい?」


 わざとらしく、キルスティの姿にようやく気づいたとでもいうように、フェルディナントはおや? と器用に片眉をあげた。


「庭師よ。見ればわかるでしょう」


「なんと! 庭師だって!」


 フェルディナントは驚いたとばかりに両手を広げる。


「その庭師風情が何故ここにいるんだい?」


「そんなこと、あなたには関係ないでしょう」


 フェルディナントはあごに片手をあて、キルスティを頭から足の先まで無遠慮に舐めるように見渡す。


「ずいぶんと冴えない男だね。こんな男が食事の席にいては、せっかくの素晴らしい朝食もだいなしだろうに」


「だいなしなのは、あなただわ」


 しかし、相手の耳にフィスカの言葉は届いていないようだ。


「君、君の仕事場はここではないだろう? 用がないのならさっさと行きたまえ」


 まるで邪魔者を追い払うように、フェルディナントはしっしと手を振る仕草をする。それ以前、何故、屋敷の人間でもないフェルディナントがこの場を仕切るというのか。


「心配は無用よ。彼は私が頼んで、ここにいてもらっているのだから」


「君がかい?」


 フェルディナントは一瞬、眉をひそめ、ふーん、と意味ありげな嗤いを口の端に刻む。


「なるほど、そういうことか。まあ、僕は君と結婚したとしても、君が愛人をもつことに反対はしないよ。君の好きにするといい。恋愛は自由、それが僕の考えだからね。だけど、趣味が悪すぎやしないかい? まあ、いいけど。人の好みなんてそれぞれだしね」


 げすな勘ぐりに腹をたてたが、ぐっと怒りをこらえる。

 ここで腹を立てたりしたら、この男の思うつぼだ。

 この男はわざと自分の神経を逆なでることを言っているのだから。

 ふと、キルスティに視線を向けると、気の毒なくらい戸惑いの表情で所在なく立ち尽くしている。まるで、この場にいるのがいたたまれないというように。

 フィスカはすっと椅子から立ち上がった。

 相手が出ていかないのなら、自分がここから立ち去ればいい。客人でも何でもないのだから無礼にはあたらない。


「どこへ行くのだい? 僕の可愛い婚約者どの」


 いちいち、いらっとくる言い方をするフェルディナントを、フィスカはきっと睨みつける。


「私はあなたのように暇ではないの。仕事があるの。キルスティ、あなたももういいわ。いきなさい」


「はい……」


 しかし、この男に嫌味は通じなかったようだ。フェルディナントはまたしてもひたいに手をあて、ああ……と声をもらす。


「嘆かわしい! 仕事があるとは、君のような若い娘が口にする言葉ではないね。まあ、僕と結婚すれば僕がこの屋敷のすべてを受け継ぐことになる。そうすれば君は毎日優雅に遊んで暮らせるよ。友人を呼んでお茶会をするのもよし、旅行にいくのもよし。もちろん、そこの愛人を連れていってもかまわないよ」


 フィスカは苦笑いを刻んだ。

 親の金で遊び歩いているこの男に何かができるとはとうてい思えなかった。この男に屋敷を任せたら、あっという間に家が傾いてしまうだろう。


「おお……そんな怖い顔をしないでおくれ。愛らしい顔がだいなしだよ。わかっているよ。僕は早々に退散するさ。けれど夜会の件、ちゃんと覚えておいておくれよ」


 フェルディナントはまくしたてるように言うと、手にしていた花束を強引にフィスカに押しつけ、身をひるがえし部屋を出て行ってしまった。去り際、側にいた侍女たちに愛想をふりまくのも忘れない。

 やっと出て行ってくれたと安堵したものの、もはやキルスティとお茶をするという雰囲気ではなくなってしまった。

 受け取った花束をしばし見つめ、キルスティに手渡す。


「どこかに飾ってちょうだい」


「お捨てにならないのですか?」


「あの男は大嫌いだけど、花に罪はないわ」


「お優しいのですね」


「そんなこと……」


「では、できるだけフィスカ様の目の触れない場所に飾りましょう」


 キルスティの口許に浮かんだ微かな笑みに、フィスカは胸をどきりとさせる。

 その時だった。

 ぶんと、空気を震わせる音。

 花束から一匹の大きな蜂が舞い上がり、フィスカに向かって飛んでいく。


「きゃっ!」


 フィスカは顔を引きつらせ、もがくように手を振り乱す。


「いや! いやっ!」


 耳元でぶんと蜂の羽音が聞こえるたび、フィスカ大きな声で叫んだ。


「フィスカ様」


 子どもみたいな叫び声をあげ、頭を抱えて身体を丸めるフィスカの肩に、やがてキルスティの手が置かれた。


「蜂怖いわ!」


「落ち着いてください」


「刺されてしまう!」


 不意に強く肩を抱きしめられる。


「落ち着いて」


 耳元に落ちる穏やかなその声に、涙ににじんだ目でそろりと顔をあげると、すぐ間近にキルスティの顔。

 まるで深い水面の底をのぞき込んだかのような濃紺の神秘的な瞳に絡めとられる。

 キルスティの長い指先が乱れた髪を優しくすいてくれた。多分、男の人に髪をさわられるのは初めて。嫌ではなかった。むしろ、心地いい。

 ふと、自分の手がキルスティの胸に添えていることに気づく。

 背が高いだけのひょろひょろの軟弱男だと思っていたのに、意外にも筋肉質な堅さが伝わってくる。思っていた以上に肩幅も広く、自分の身体がすっぽりとおさまってしまうくらいであった。

 そこでフィスカはかっと頬を熱くした。

 背に回されたキルスティの手が、そこだけ熱を帯びたようにじんと熱い。


 この腕に強く抱きしめられたら、私、どうなってしまうのかしら……。


「もう、大丈夫ですよ」


 キルスティの声にはっと我に返る。


「蜂はもういない?」


「ええ」


「殺したの?」


「いいえ、窓から外に逃しました」


「いつの間に? おまえは平気なの? 怖くないの?」


「わたしは庭師ですよ。虫など慣れております」


「そう……ありがとう」


「いいえ、どういたしまして」


 静かな声が耳元に落ちる。ふっと首筋にかかるキルスティの息に思わず身体がびくりと反応する。あり得ないくらい心臓がどきどきと鳴っている。

 そこでフィスカはいまだキルスティの腕の中にいることに気づき、腕を前に突きだし相手の身体をしりぞける。


 どうしよう。心臓の音、気づかれていないわよね。


「よろしければ」


 どうぞ、と差し出されたハンカチを見て、フィスカは自分が泣いていたことに気づく。

 みっともない姿を見せてしまった。

 くすんと、鼻をすすり、受け取ったハンカチで目のふちを拭う。

 きちんとのりのきいた清潔なハンカチだった。ほのかに花の香りがする。


「お、おまえはもう仕事に戻っていいわ」


 泣いてしまったところを見られたのが恥ずかしいのか、フィスカは精一杯の強がりを見せつけキルスティに命じると、大股で部屋を立ち去った。

 後ほど、ハーブティーをお持ちいたしましょう、と言ったキルスティの言葉を背中に受け流す。

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