2 悪戯心
その夜、ソファーに深く腰をかけ、フィスカは眉宇をひそめて天井を見上げ、大きな息をついた。
手には一通の封書。
フィスカを憂鬱にさせるのは、今週末アルザス家で開催される夜会に出席しなければならないからだ。
夜会は社交の場。
サヴィア家当主たる自分が出席しないわけにはいかない。それに、父が存命の頃からアルザス家とはそれなりに親しく交流していたため、よほどの理由がない限り欠席するのははばかれた。
けれど、フィスカにとって夜会ほど苦痛なものはない。
もう一度ため息をつき、ひたいに手をあてる。
これで何度目のため息だろうか。
『おい、誰かフィスカと踊ってやれよ。誰からも相手にされてないみたいだぜ』
『冗談っ! 美人でもあんな生意気で高飛車な女はごめんだね』
『だけど父親が死んで、想像もつかない遺産を相続したって聞くぜ』
『金があっても、あんなわがまま娘のご機嫌とりは勘弁だよ』
それがみなが噂するフィスカの評判だ。
勝手なこと言って……。
思いだすたび、どうしようもない怒りがこみあげてくる。
「親の金で遊びほうけているあんたたちぼんくらどもなど、こっちから願いさげだわ」
手にしていた封書を乱暴にテーブルに放り投げ、側で控える執事のクレオールに問いかける。
「ねえ、薔薇園にいたあの庭師、初めて見る顔だけど。彼は?」
「はい。彼は三ヶ月ほど前からここで働いております」
三ヶ月前……。
「そう、誰かの推薦? ずいぶんと若い感じだけど」
「申し訳ございません。実は、わたくしも詳しいことは存じあげないのです。が、前当主アロイス様がお亡くなりになる直前に彼を見つけ、是非この屋敷にと連れてきたようです」
「お父様が?」
「はい」
「そう……お父様が連れてきた人……」
父が頼み込んでまでこの屋敷に連れてきたというのなら、出所の怪しい人間ではないのだろう。
けれど……。
フィスカは目を細め何やら思案にくれる顔をする。
三ヶ月前といえば、ちょうどお父様が亡くなった頃。
胸に得体の知れないざわりとしたものを感じる。
不安。
恐れ。
そう思うのは、あの庭師がやって来た時期と父の死が重なったから。いや、あの情けないうだつのあがらない感じのあの庭師が父をどうこうできるはずなどない。
「彼に何か問題でもございましたか?」
「いいえ、そんなんじゃないわ。そんなんじゃないの……」
ふと、フィスカはちょこんと包帯の巻かれた指先を見つめた。あの時の、薔薇園での状況を思いだすたび、何故か胸の奥がちくんと痛んだ。
上目遣いで私を見上げたときの彼の目。
まるで私の慌てる反応を見て楽しんでいるような目。
ぞくりとするほどに鋭くて、心の中を、考えていることすべて見透かされてしまうのではないかと思ったあの目。
いいえ、私の気のせいよ。
だって、私がちょっときつく言ったら、すぐおどおどするし、はっきり物を言わないし。
そこでフィスカははっとなる。
どうしてあんな男のこと、ここまで気にするわけ?
この私が。
ふと、フィスカの口許に緩やかな笑みが刻まれた。あの男を困らせてやりたい、という悪戯心が起きたのだ。
「ねえ、クレオール。あの庭師をここへ呼んできてくれるかしら」
「今でしょうか?」
「そうよ、今よ。あ、紅茶はいいわ。彼にいれてもらうから」
一瞬の間はあったものの、クレオールは主のために紅茶をいれようとした手をとめた。そして、表情ひとつ変えず、かしこまりましたと頭を下げ静かに部屋を退出した。
それからほどなくして遠慮がちに扉を叩く音が聞こえた。
ソファーに座っていたフィスカは居住まいを正す。
ほんの少し間を置いてから、キルスティがそっと扉を開け姿を現した。
主の部屋を訪れたというのに、着替えもせず、作業着の格好のまま、ぼうっと突っ立ている。
何よ、やっぱり礼儀を知らない、あかぬけないただの田舎者じゃない。
やぼったいにもほどがあるわ。
どうして私、さっきはこんな男に胸をどきりとさせてしまったの。
「あの、お呼びでしょうか……」
「用があるから呼んだんじゃない」
「はあ……」
「早速だけど、紅茶をいれてくれる?」
さっきは何かの勘違いだったのね。だってこんなはっきりとしない男、私大嫌いだもの。
そう思った途端、思わず口調がぞんざいになる。
「あの……」
キルスティは当惑顔で扉の前で突っ立ったまま首を傾げる。
「はあ、じゃないのよ。聞こえなかった? 私は紅茶が飲みたいと言ったの」
ああ、男のくせにおどおどして、ほんといらいらするわっ! 呼びつけるんじゃなかったかも。
キルスティに対する気持ちが一気に冷めた。いや、彼に対して抱いた胸のどきどきは勘違いだったと思った途端、やはり紅茶はクレオールにいれてもらうべきだったと後悔する。
かといって、用もないのに呼びだしてしまった手前、黙って帰ってもらうにも何となく忍びない。
だけど……。
どうせなら、クレオールが入れてくれた美味しい紅茶が飲みたかったわ。
しばしの沈黙の後、キルスティは今すぐご用意しますと言い残し部屋を出て行った。
フィスカは軽くため息をつく。
ちょっと、困った顔を見たいと思っただけだったが、もうすっかりどうでもよくなってしまった。
それに、あんな無粋な男に、おいしい紅茶などいれられるわけがない。不味かったら散々、文句を言ってけなしてあげるんだから。
などとそんなことを考えていたところへ、紅茶のセットが乗った銀の盆を手に、キルスティが再び部屋に現れた。
格好は相変わらずあかぬけない作業着のままだが、片手で盆を持つ手つきは悪くない。
フィスカはソファーの肘掛けに肘をつき、頬杖をつきながらキルスティの紅茶をいれる手つきを眺めていた。が、徐々についていた頬杖から顔をあげる。
紅茶をいれるキルスティの予想外の優雅な手つきに目を瞠らせた。
何、この手慣れた手つき。
暖めたポットに正確に計った茶葉をいれ、お湯を注いで蒸らし、ティーカップに注いでフィスカの前に差し出した。
「お待たせいたしました」
しんとした部屋に響くキルスティの低く囁く美声に、一瞬、胸がどきりと鳴る。
まるで心臓を貫かれたような感覚。
カップを持つ白くしなやかな手は、庭仕事をする者とは思えない美しさ。
しばし、その手に見とれてしまったフィスカだが、すぐに我に返りカップを受けとった。
「いい香り」
思わずそう呟いてしまい、すぐにいいえ、と心の中で否定する。
茶葉じたいが高級品なのだ。
だから、香りがいいのはあたり前。
肝心なのは味よ、とカップを口許にもっていき、紅茶を一口飲む。
「おいしい……」
素直に褒め言葉が出た。そして、そろりとキルスティを見上げる。
この男にこんなおいしい紅茶をいれられるなど予想もしなかった。
クレオールといい勝負だ。いや、もしかしたらクレオールよりも……。
「おまえ、紅茶をいれるのがうまいのね」
「……お褒めにあずかり光栄です」
キルスティはまぶたを軽く伏せ、おそれいりますというふうに頭をさげる。
確かに紅茶は美味しかったが、当初の庭師を困らせて文句を言ってやろうという目的を果たすことはできなかった。
そこでさらにフィスカは新たな意地悪を思いつく。
「私、今日立ちっぱなしで疲れたわ。足をさすってくれる?」
にっと口の端に笑みを刻み、フィスカはキルスティの前に右足を突きだした。
年頃の娘がこんな真似をして少々はしたない気もするが、今は誰もフィスカを叱る者はいない。
そして案の定、キルスティは当惑顔で固まったように立ち尽くしている。
ふっ、何よその間抜け面。そうよね、いくら命令とはいえ、恋人でもない女性の足に触れるなんて、出来るわけがないわよね。
さあ、どうするのかしら? と、心の中で嘲笑っていた次の瞬間、キルスティが目の前で膝まづいた。
「え? ちょっと待って……何を?」
「足をさすってさしあげようと」
そう、おっしゃいましたよね、と言わんばかりの目であった。
片膝を立ててひざまづいたキルスティの膝の上に足が置かれる。さらに、キルスティの片手がフィスカの足首に添えられ、もう片方の手、しなやかな指先がふくらはぎを優しくさする。
「ま、待って……」
緩やかにあがったキルスティの視線がフィスカを見上げる。
また……。
また、私はこの瞳に捕らわれてしまう。
この静かな湖の底を思わせる濃紺の瞳に。
フィスカはぞくりと身体を震わせた。
まるで愛撫をするような手つきに、反対にフィスカのほうがうろたえてしまった。
「じょ、冗談に決まってるじゃない!」
それでもキルスティの手はとまらない。
「冗談だったのですか?」
「そ、そうよ。もういいから。本気にしてばかじゃないの!」
すぐに足を引っ込めようとしたがそれはかなわなかった。キルスティの握っていた足首にほんの少し力が加わったからだ。
まるで、逃げることは許さないというように。
「やめ……」
眉宇をひそめ泣き顔になるフィスカを見たキルスティの口許に、ふっと軽い笑みが刻まれたのは気のせいか。まるで、自分の戸惑う様子を楽しむかのように。
足首を握られていた手が緩み、そっと床に降ろされる。
さすられた感触がまだ皮膚の表面に残っている感じがして落ち着かない。
濃紺の瞳がじっとこちらを見上げている。
「そうよ! 冗談に決まっているじゃない。そんなこともわからないの。それとも、おまえは私にキスをしなさいと命じたら、本当にするわけ?」
「それが、フィスカ様のお望みでございましたら」
そう言ってキルスティは立ち上がると、フィスカが座っているソファーに片手をつき、もう片方の手でフィスカのあごに指先を添えた。くいっと顔を持ち上げられる。
「ちょっと、おまえ……っ!」
こんなことをされるのは初めてだった。
「どういうキスがお望みですか?」
近づいてくるキルスティの顔に目が釘づけになる。見つめてくる瞳から視線をそらすことができない。
「どういうって……」
ふっと口許に笑みを刻み、キルスティはゆっくりと唇を近づけてくる。フィスカは息をとめた。
本気?
本気なの?
「どんなキスでも、それこそお望みのままに」
あと少しで唇が触れようとしたその刹那。
「や、やめて! もういい、離れて! 出て行って!」
フィスカは声を荒げ、目の前の相手の肩に手を添え、ぐいっと押しやった。
「よろしいのですか?」
すっと、キルスティの身体が離れ、フィスカはようやくつめていた息をもらす。
「いいって言ってるでしょう。いちいち聞き返す必要はないの。私が出ていけと命じたならおまえはそれに従うだけよ!」
「はい……申し訳……」
謝罪の言葉を落としてうなだれるキルスティの姿に、フィスカは言い過ぎてしまったと後悔の念を抱く。
まるで叱られた子犬のようだ。
だけど、どうして急にそんな顔をするの? さっきまで私の反応を楽しむような目で見ていたじゃない。なのに何故急にそんな態度をとるの?
うなだれたままキルスティは扉の方へと歩き出す。一礼して、部屋から退出しようとするキルスティに、フィスカは急いで言葉を投げかけた。
「だ、だけど、おまえのいれた紅茶は美味しかったわ。そう……今度から私のためにおまえが紅茶をいれなさい」
一瞬の沈黙の後、かしこまりましたと深く頭をさげ、キルスティは静かに扉を閉ざした。
しんとなった部屋。
いまだどきどきの鳴りやまない胸を手で押さえ、ため息をついてソファーに身を沈めた。
振り回してやろうと思ったのに、何だか振り回されているのは私のほうだわ。




