鬼ヶ島
霧がかかっている中、前方に大きな影が見えてきた。鬼ヶ島だ。
進むにつれ、徐々にその姿が明らかになっていく。
殺伐とした島。それが桃太郎たちの最初の感想だった。
見える範囲には鬼は見当たらない。黒い地面にゴツゴツとした岩肌。植物の類はあまり見当たらない。それは上空を包む分厚い雲のせいだろう。日光が遮られ、植物の光合成を妨げているのだ。
「あそこに少し飛び出た場所がある。そこにつけるぞ」
善治郎が指差す方向を見る。するとこそには、地面が出っ張って、ちょうど岬のようになっている場所がある。
「お願いします」
桃太郎が言うと善治郎は小さく頷いて船を漕ぎ出す。しばらくすると、ゴンっという音とともに船が止まった。
鬼ヶ島周囲の海は死んでいるかのように波がない。しっかりと陸付けせずとも船体が大きく動くことはなかった。
桃太郎たちは次々と荷物を運んでいく。荷物と言っても食料、水、寝袋だけだ。すぐに終わった。
「それじゃあ、頑張れよ。桃太郎」
「はい、ありがとう、善治郎。帰りは気をつけて」
長居するほど鬼に見つかる確率が高くなる。
短く別れの挨拶を済ませると、善治郎は船を漕ぎ出した。次第にその姿が小さくなっていく。
桃太郎は、船が霧に隠れて見えなくなるまで、それを眺めていた。
次に会うのは五日後、善治郎が迎えに来た時だ。それまで生き残り、鬼を滅ぼさなければならない。
何はともあれ、復讐の鬼とその一行は、鬼ヶ島に上陸した。
***
まず桃太郎たちは拠点となる場所を探した。
鬼ヶ島自体、足場が悪いのはあるもののそこのまで大きいわけではない。島を一周するのに三時間あれば十分だろう。拠点を一箇所に固定しても、鬼と闘ってから戻るのに支障はないだろう。
探すのは平地。鬼に見つかりにくく、こちらが発見しやすい場所だ。
ゴロゴロと水の入った樽を転がしながら進む。幸運なことに、良さそうな場所はすぐに見つかった。
近くにこの島では珍しい茂みがあり、横に岩壁があるので見えにくい。それでいてそれらが、歩く鬼を見えなくするほど高くない。鬼が近くを通りかかれば、その角が覗くだろう。これ以上ないほどの立地だった。
持ってきていた荷物を置いていると、猿王が口を開いた。
「それで、これからどうするつもりじゃ?」
「ああ、とりあえず鬼を探して撃破だな」
「じゃが、大した距離歩いてないにせよ、少し気配がなさすぎると思うのじゃが。本当にいるのかのう?」
「いるよ。なんとなく分かる。それに細かい位置なら花が分かるさ」
話が花へと振られるが、花は少し言いづらそうにぽりぽりと頬をかいた。
「それがですね……なんか鬼の匂いがあっちこっちからしすぎてて、どこにいるかがよく分からないといいますか……」
「え?」
「は?」
「役に立たんのう」
「済みません。けど猿王さんうるさいです」
非常に申し訳なさそうに頭を下げる花だが、最後に猿王への敵意を隠せていない。むしろ積極的に出していた。
突如として流れる一色即罰(仲間内で)の空気。それを敏感に察知した桃太郎は慌てて話を戻した。
「と、とりあえず、島を探索しよう! うん、そうしよう!」
その提案に三人は頷いた。花と猿王は釈然としなさそうに、ではあったが。
少々の休憩を挟んでから桃太郎たちは探索を始めた。
ただ付近を歩くだけの作業であるが、油断はできない。ここは鬼たちの住まう島、鬼ヶ島なのである。
所々に印をつけ道を忘れないようにしながら歩いて行く。だが行けども行けども鬼の姿はおろか気配すら感じられない。桃太郎たちは次第に疑問を増幅させた。
「……全然いませんね」
「そうね」
花がボソリと呟き鳴女がため息混じりに返答する。
確かに拍子抜けな念を、桃太郎も感じていた。
鬼がいることは間違いがない。それは桃太郎のただの勘であるが、花が鬼の匂いをとらえていることから間違いではないことが分かる。
それなのに今だ一体も見当たらないのだ。足跡も見つけられない。とは言っても、地面が硬いのでつかないだろうが。
桃太郎たちは最初よりも若干気が抜けた状態で探索を続ける。
拠点を出てから一時間ほど歩いた頃だろうか。
「っ!」
桃太郎は急に立ち止まり、腕を上げて後ろの三人も静止させた。
桃太郎は気配を感じたわけではない。事実、桃太郎以外の三人はキョトンとしている。
だが、漠然とした「何か」は感じていた。それはやはり彼の勘だったろう。
桃太郎は気配を殺し、足音を立てないように気を付けながら進んで行く。他の三人もそれに続いた。
そうして三分ほど歩いた頃。鬼ヶ島では珍しい茂みが現れた。
彼らは腰をかがめてそれに隠れる。そして目だけを出して前方を確認した。
そこには前方約五十メートル先にいるのは体調が三メートルを越える、額に一対の角を持った怪物だ。
「鬼……!」
誰かが呟いた。
だがすぐに飛び出して闘うことはできない。前方にいる鬼は一体ではないのだ。ざっと見回しただけでも二十は下るまい。
鬼たちは、どこから持ってきたのか木材を幾重にも重ねている。その隣には肉塊が積み上げられている。血に塗れ形が変形し、潰れたりしているため細かくは見ることができないが、大きさから人肉だろう。
「あいつらは……何をしているの……?」
鳴女がボソッと、無意識に漏れ出したように呟いた。
だが誰も答えられない。ここにいる全員が同じことを思っただろうが、口には出せなかった。
人が行う、豊作の儀式のようだと。
稲の収穫に伴って行われるそれは、夜に火を焚いて祭りのように騒ぐ恒例行事だ。蛍と与助が死んだ日も、桃太郎はそのための薪を集めていた。
目の前の光景は、それとかなり似通っていたのだ。
憎む、あるいは恐怖の対象である鬼が、食い物としている人間と同じような真似をしている。それは少なからずの衝撃を桃太郎たちに与えたのだ。
生まれてしまった沈黙を埋めるように猿王が桃太郎を見た。
「どうする? 桃太郎よ。すぐに突撃するか……はたまた一旦引くか」
「……引こう。何も考えないで突撃して、勝てる数じゃない」
彼らが一度に相手をしたことがある鬼の数はこの間の三体が最大だ。二十体にぶっつけ本番で勝てるはずもなかった。
桃太郎の他三人は無言で頷くと、物音を立てないようにその場から離れた。
***
先ほど作った拠点にて作戦を立てる。
当然のことながら、真正面から突撃して勝てる数ではない。
夜、鬼が寝ている間に仕掛ける。それが桃太郎たちの出した結論だった。
だが、遠くから狙える暗殺術も、暗闇では命中率が下がるため近づかなければならない。そして近づく際の足音で、鬼たちは確実に目をさますだろう。
「一手で何体殺せる?」
桃太郎は全員に向かって問いかけた。
「そうね、二体かしら」
「儂は一体じゃな」
「すみません。私倒せません……」
「ふん、役立たずじゃのう」
「猿王さんうるさいです」
「お前らがうるさい。それに、花は仕方ないよ。ただの物理攻撃じゃ鬼は簡単に死なない」
今にも口喧嘩を始めそうな二人を桃太郎は諌め、花にはフォローを入れておく。
事実、ひっくり返したりしたことはあれど、打撃で鬼を殺せたことは一度もない。
猿王がふんと鼻を鳴らした。
「それで、それだけ減らしてもまだ十八、九体はおるぞ? どうするつもりじゃ?」
「いや、あんな儀式みたいなことするなら、鬼にだって人間的な感情がゼロってわけじゃないだろ。連中が動揺したところを一気に突く」
すると、花と猿王がポカンと口を開けた。
「……どうしたんだよ」
「いや、ももたろさんが鬼の感情の話するとは思わなくて……」
「あれだけ仇だ皆殺しだのと言っておいてのう」
言われ桃太郎はふと考える。確かに最初に村を出た時なら考えなかったかもしれない。
だが桃太郎は鬼がどれだけ危険かを知っている。
人間がそんな化け物と闘うのに、隙を突かなければどうしようもないということもだ。
そして隙とは、感情による場合がひどく多い。鬼の隙を突かなければならない今の桃太郎にとって、その状況下においての鬼の感情を考えることはおかしくない、と思えた。
「それはそれとして、さらにもう四体始末できるとしても、十五体は残るわね」
「いける?」と鳴女が桃太郎に問いかける。
「それはもう、やってみなきゃ分からないな。やばいと思ったらすぐに逃げよう」
桃太郎が確認すると、三人はしっかりと頷いた。
これで、鬼襲撃の作戦はまとまった。
***
深夜、と言っても頭上にかかった雲のせいで月がどのくらいまで上ったのかは分からない。桃太郎たちは昼間鬼の集団を見つけた場所へと向かった。
鬼がどのくらいの時間になれば寝るのか。無論桃太郎たちは知らないが、もうそろそろ良いだろうという桃太郎の鶴の一声で出てきたのだ。
足音を消して進む。
しばらく行くと、昼間のあの場所へと着いた。
四人は身をかがめ、目だけを茂みから出して様子を伺う。
辺りはシンと静まり返っている。
あちらこちらに鬼が寝転がったり、木にもたれかかったりして寝ているようだ。その中心には、昼間に見た巨大な焚き火の残り火があり、鬼たちを淡く照らしている。
だが、昼間に見た肉塊の山はなかった。おそらく食い尽くしたのだろう。
「鳴女、ここから狙えるか?」
桃太郎がギリギリ聞き取れる程度の声量で問うと、鳴女は小さく首を振った。
それに桃太郎は頷く。近づくしかない。
「…………」
桃太郎が合図を出し花以外全員で一斉に駆け出す。一撃で仕留められない花は本格的に戦闘が始まってから参戦だ。
駆け出す間もなるべく足音は殺す。
「ふっ……!」
猿王が呪符を投擲し、鳴女が暗器を放ち、桃太郎が刀を振り抜く。
それらは鬼の急所を確実に貫き、大きな悲鳴を上げさせることもないままに葬った。
だが鬼の鋭い聴覚はそんなわずかな音さえ聞き落とさない。近くに転がっていた鬼の耳がピクッと動いたのが、桃太郎には見えた。
すかさず第二手へと移る。
彼らは近くにいる鬼へと牙を剥いた。
鳴女は暗器で鬼の脳幹を貫いた。猿王はカマイタチの術で鬼の首を斬り落とし、桃太郎も鬼の首を切断する。
そして落とした首が地面に落下する音。その音が周囲にいた鬼の目を覚ました。
ゆっくりと見開かれるのは怪しい光を宿した瞳。底知れぬ恐怖を感じさせるそれは、桃太郎たちを捉え状況を理解した。
瞬間、桃太郎たちは再度走り出す。
──不意を突く!
腕を素早く動かし先ほどと同じ要領で鬼の首をはねた。
それと同時に、
「ガアァァァァアアッッ!!」
鬼の叫び声が轟いた。これでここにいる鬼は全て目覚めただろう。
奇襲と不意打ちで始末できた鬼は十二体。残っているのは十一体。
鬼との戦闘が始まった。
***
振り下ろされた金棒を最小限の動きで躱し鳴女は暗器を、猿王は呪符を投擲しようとする。
だがその動きは横にいたもう一体の鬼の払うわれた金棒に阻まれる。それを避けると、今度はまた別の金棒が二人を襲う。
「くっ!」
「ちぃっ!」
鬼の最大の弱点である動きの緩慢さ。桃太郎たちは、これまでそこに付け込んでいたが、今はそれができない。
集団と化した鬼は互いの隙を埋め合うように金棒を振り下ろし、薙ぎ払い、突き出す。
鳴女や猿王はもちろんのこと、花や桃太郎も避けるだけに留まっていた。
しばらくの均衡。鬼の攻撃を躱すだけの時間が続く。
だがそれも長くは続かない。流れを変えたのは花だ。
彼女は跳び上がり、鬼の顔面へと渾身の蹴りをかました。その衝撃に鬼はバランスを崩す。
だが隣にいた鬼はその瞬間逃さない。空中にいて身動きの取れない花に向かって金棒が振り下ろされた。
花はその様子をぼんやりと見つめ、しかしその瞳に驚きの色はない。桃太郎を捉えていたからだ。
金棒が花を捉える直前、彼は空中にいる花を救出。すぐに距離を取る。
そして花を捉え損なった金棒は、バランスを崩し尻餅をついていた鬼の頭部へと激突。角が砕け首の骨が折れる音が響き、その鬼は動かなくなった。
隙。
金棒を振り下ろしすぐに動けないでいる鬼に向かって、数本の羽型の暗器が跳ぶ。それらは喉、目、眉間に命中し、鬼に悲鳴を上げさせる。
そこへ後を追うように襲来した呪符が爆裂。鮮血が弾け飛び、鬼の首が大きくえぐれ、そして倒れた。
残り九体。
着地した桃太郎は花を下ろし先行。暗器、呪符を投げ隙のできている鳴女と猿王を狙う鬼へと突進する。
持ち上げられた腕へ一閃。一拍遅れて大量の鮮血が吹き出す。
「ガアアァァァァアッッ!!」
凄まじい悲鳴。だが桃太郎は怯まずに鬼の肩に手をかけ空中で回転。一瞬で体勢を立て直して鬼の首を斬り落とした。
──体が軽い。
今のは普段できない動きだ。それが何故か今できた。それが善治郎のいた村で、調子が悪かったことの反動なのかどうかは分からないが。
──今はそんなことどうでもいい。
残りの鬼は八体。単純計算で一人当たり二体だが──
敵を確認していた桃太郎は、そこで唐突に思考を停止した。
目の前にいる鬼。たった今首を落とした鬼の隣にいた、他よりもやや背の高い二対の角を持つ化け物。そいつに言い様のない既視感を感じたのだ。
何故、と考えるまでもなかった。
その鬼は赤黒い肌をしていた。
その鬼は腹と腕にごくごく浅い傷跡があった。
その鬼が下半身に身につけている布は、あの日、蛍と与助が着ていたものと同じ柄──様々な布とつぎはぎされ、かなり汚れてはいたが──だった。
仇。
そんな一文字が桃太郎の頭に浮かんだ。
直後、振り上げられる金棒。その動きはひどく緩慢で、あの日と全く変わらない。
──こいつに、蛍は、与助にいちゃんは……!
激しい怒りと悲しみ、そしてあの日の己の無力感がよぎる。
だがもう桃太郎はそんなものに支配されない。まして、恐怖を感じることなどなかった。
ただ、殺意。
周りでは花や猿王、鳴女が動きの止まった桃太郎を援護してくれているが、当の桃太郎はそんなことに注意を向けていられない。その瞬間、確かに仇の鬼と復讐の鬼は二人きりだった。
金棒が振り下ろされる。それと同時に桃太郎の瞳がこれまで以上に怪しく光った。最初に鬼を殺したあの瞬間さえ越えるそれは、間違いなく鬼のそれだ。
土煙とともに桃太郎の姿がかっ消える。
一瞬にして仇鬼の懐へ飛び込んだ桃太郎は仇の右腕と左足に刀を滑らせる。刀はその刃を鮮血で濡らした。
確かな手応え。切断することも用意であったはずの攻撃はしかし、
──硬い。
仇鬼の硬質な皮膚がそれを許さない。浅くはないものの、鬼にとっては大きくない傷に止まる。
と、桃太郎は本能的に危険を察知。高速で鬼の懐から離脱すると振り上げられていた金棒が、先ほどまで桃太郎がいた地面を粉砕していた。
必然的に生じた隙を桃太郎は逃さない。これまた高速で接近。今度は三度、右腕のみに刀を滑らせようとする。
だが二閃したところで残っていた左腕が弾き飛んできた。間一髪で避け距離を取る。
──速い。
硬い皮膚。素早い動き。明らかに他よりも抜きん出ている。
桃太郎の速度は、どういうわけか上がっている。斬撃とて同じだ。速さの上昇した斬撃を受けてもなお決定打にはならない。そして攻撃に対する反応が素早い。それがこの鬼だ。
そして最も危険視しなければならないのはその知能だろうか。初動をわざと緩慢にすることで、全速力で動いた際に桃太郎の不意をついた。下手をすればもっと速いかもしれない。
──いずれにしても、こいつは殺す。
仇鬼の攻撃を躱し距離を詰め斬撃を放つ。
たったそれだけのことではあるが、少しでも気を抜けば命はない。
桃太郎は一つ一つの動作に全神経を張り巡らしていた。
だが何度仇鬼を斬ろうとも致命傷にはならない。
このまま続ければいつかは死ぬだろう。鬼といえども出血し続ければ血が足りなくなるのは当然だ。
それでもその前に、桃太郎の体力が尽きる。
そうなれば桃太郎が殺される。復讐を、旅に出た目的を果たすことなく。
今も、桃太郎の足は少しずつ重く──それでもなお速いが──なっている。なら、
──一撃で仕留めるしかない……!
渾身の力を込めた斬撃を受け続けてなお勢いを削ぐことのできない仇鬼を、一撃を以って殺すしかない。なんと無謀なことだろうか。
──けど、それしか方法がない。
大丈夫だろうか、と桃太郎は躊躇する。
あの鬼の素早さがあれば、首を斬り損ねた桃太郎を握りつぶすことは容易だろう。
可能なのだろうかと、仇鬼の攻撃を避けながら思案する。
『大丈夫だよ』
不意に声が聞こえたような気がした。
桃太郎は驚きつつも、どこか安堵した。
その声が、想いを寄せた少女のものだったから。
ならもう桃太郎に迷いはない。
彼は鬼の攻撃を避け、その足に力を込めた
跳躍。
渾身の力を込めたそれは、これまで桃太郎が出したどの速度をも大きく超えている。
仇鬼が息を飲むのが桃太郎には分かった。
「おおおおぉぉおぉぉおっっっ!!」
雄叫びと共に放たれた斬撃。音速も越えた一太刀。
それは正確に仇鬼の首を捉えた。
仇鬼の硬質な皮膚から確かな抵抗が桃太郎へと伝わってくる。ピシッと刀身にヒビが入る。
「うおぉああぁぁぁぁあっっ!!」
だが桃太郎はそれに構わず、裂帛の気合いで押し込んだ。そして──
血しぶきと鉄の破片が宙を舞った。