旅立ち
二十畳ほどの飾り気のない木造の部屋。太陽の陽光が差し込むその空間には物音一つしない。否、音を立てることすら憚られるような静寂が支配している。
そんな中に二人の男。
一人は髪に白髪が混じり、年を取っても消えることのない意思を感じさせる目を持つ壮年の男。
もう一人は、年の割りに落ち着いた雰囲気を醸し出す少年だ。
どちらも同じ色の道着を着て木剣を構えている。相対する二人は、少しも動こうとしない。ただ鋭い眼光で相手を油断なく見るだけだ。
緊張感。真剣を用いた殺し合いのように張り詰めた空気。
次の瞬間静寂が破られた。
同時に動き出した二人は、目で追うことすら敵わないほどの速度でもって突進する。
交錯する二つの影は一瞬の後、背中で向かい合う。遅れて破裂音が響く。
グラリと男の体がブレ、膝をついた、その木剣は根元から折られている。対する少年の木剣は傷ひとつない。
「まさか……こんなに早く俺を越えちまうなんてなぁ」
壮年の男が、少し苦しそうに言う。
木剣を折った少年の一振り。それは勢い余って男の胸板へ当たり、確かなダメージを与えていたのだ。
「ははっ。あいつがお前ぐらいの頃にゃ、俺にいいようにされてたんだぜ。ったく……」
「…………」
自嘲気味に笑う男を、少年は一言も発しない。それどころか勝利の感慨すら覗かせない無表情だ。
男はそんな少年の様子にはすっかり慣れているようで、「よっこいしょ」と大儀そうに立ち上がり、視界に少年を収める。そして、
「もう俺が教えられることは何もない。免許皆伝だ」
「ありがとうございます」
きっちり四十五度の礼。そんな動作にも淀みがない。
「さて約束通り、お前に刀をやる。与助が……俺の息子が、あの日持ってた刀だ。大事に使ってくれや。桃太郎よ」
与助の刀。それは林の中におそらく持ち主の血液が付着した状態で発見された。
だがその近くに持ち主の姿はなかったのだ。
「もちろんです」
無表情だった彼の顔に、始めて感情が見える。それは痛みであり、苦しみであり、恐怖であり、失ったものを嘆くようにも思えた。だが最も印象的だったのは怪しく光る瞳。復讐の鬼の目だ。
あの鬼の襲撃から五年──。
桃太郎は十五歳になった。
***
「そんで、お前はこれからどうするつもりだい。やっぱ鬼を殺しに行くのか?」
壮年の男──村長が桃太郎へと問いかける。
道着から着物へと着替えた少年──桃太郎は、その問いに草履を履く手を止め振り向いた。
「行きますよ。そのために今日まで死に物狂いでやってきたんです」
「ふむ……」
そう言う声からは絶対の決意が感じ取れるが、村長は難しい顔をする。
村長は桃太郎が鬼を殺すことを目標としているのを知っている。その上で今日まで稽古をつけてきたのだ。だが実際にその時がくると思ってしまう。
本当に行かせていいのだろうか、と。
鬼と一対一で闘えば、桃太郎は勝てるかもしれない。が、鬼を殺しに、もっと言えば根絶やしにするには鬼ヶ島に行くことはもはや必至だ。
村長自身、鬼ヶ島には行ったことはないが、話くらいなら聞いたことがある。曰く、鬼の楽園だと。
「鬼は……お前でも勝てるとは限らないんだぞ」
なんとかそれだけ言葉にする。それでも桃太郎は表情を変えなかった。
「知ってますよ」
「殺されるぞ」
「鬼に食われるなら本望です」
そう言う桃太郎の目は本気だ。本気で鬼を滅ぼそうとしていて、その過程で食われてもいいと思っている。
村長とて無論そんなことは知っていた。与助を失った悲しみを誤魔化すように、ひたすら厳しく指導してきたのだ。そんな中、桃太郎の目は常に前を向き、ただ一度の弱音すら吐いたことがなかった。
まるで、人生全てを捧げているかのように。
桃太郎の覚悟は本物だ。その決意は決して揺らぐことがないだろう。ならば師として、しなければならないことは、背中を押すことくらいだろう。
「桃太郎、俺はもう止めないが、ちゃんと準備はして行け。それと、爺さんと婆さんとも話しなさい」
桃太郎に死んでほしくない気持ちも当然ある。それでも若者の決めた道を邪魔する権利など、自分にはないのだ。
桃太郎は「はい」と頷き、そして立ち上がると村長へと向き直る。
「長い間、お世話になりました!」
四十五度の礼をする桃太郎を、村長は複雑そうに見つめ、ただ一言「ああ」とだけ返した。
「時間が経つのは早いもんだよな……」
道場から遠ざかって行く背中を見ながらつぶやかれた村長の独り言は、ガランとした空間に嫌に響いた。
***
桃太郎の免許皆伝を祝い、その日の夕食は普段よりも豪華なものとなった。と言っても、おかずが一、二品増えたくらいだ。
お爺さんとお婆さんは「ああ、めでたい」とすっかりお祭り気分だ。
そんな夕食が、図らずも送別会の物のようになったのはしばらく経ってからだった。
「鬼退治に行くよ」
桃太郎がお爺さんとお婆さんにそう宣言したのだ。
箸が止まる。ポカンと口を開け、何も言えないでいる二人に、桃太郎は再度口を開く。
「今日、村長から免許皆伝を受けた。だから、鬼退治に行く。明日には発つつもり」
妙に淡白に告げる桃太郎に、お爺さんとお婆さんはすぐに反応できない。つかの間の静寂。
「鬼退治……って、死にに行くようなもんじゃないか!」
最初に声を発したのはお爺さんだった。
信じられないという風に険しい表情を作る。
「桃太郎、本気かい?」
次に言ったのはお婆さんだ。
不安そうな、心配するような目で問いかけてくる。
「もちろん本気だよ」
「冗談じゃない!」
表情を変えない桃太郎に、お爺さんが声を荒げる。だいぶ髪が少なくなった額には青筋たてている。
「大体、蛍や与助も鬼に殺されたんじゃぞ!? なんで……」
「だからこそだよ」
お爺さんの言葉を遮るように放った声音は、桃太郎自身が思っていたよりも冷たく、しかし揺るぎない決意に満ちている。
「蛍と与助にいちゃんを殺されたから、鬼を殺しに行くんだ」
復讐宣言。
桃太郎の怪しく光る瞳を見た瞬間、お爺さんとお婆さんは思わず息を飲む。場の空気が一気に緊迫する。が、
「それでもダメじゃ。わざわざ死にに行かせるわけにはいかん」
「そうだねぇ、何もすぐ明日に行かなくてもいいだろうに」
二人は反対の立場を崩さない。
それは当然だろう。老いるまで子供がいなかった彼らにとって、いやそうでなくとも、桃太郎は文字通り命より大事なのだ。危険な道を進ませようとするわけがない。
だが譲らないのは桃太郎とて同じだ。
「別に死にに行くわけじゃないよ。鬼を殺しに行くんだ」
「一緒じゃ! 鬼と闘って生きて帰って来られるわけがなかろう! 大体仲間はいるのか? 一緒に闘ってくれる者は」
「わざわざ外に出てまで闘おうとする奴がこの村にいないことは、爺様がよく分かってるでしょ」
村が襲われれば仕方が無い。闘う者はいくらでもいるだろう。だが結界の外に出てまで鬼を倒そうとする者など、桃太郎の他にいるはずもなかった。
「村長は、何と言っとった」
「止めないってさ」
たちまちお爺さんは苦い顔になる。実際に鬼と闘ったことのある彼からも止めてくれるなら、それが一番だと思ったのだ。
しばしの沈黙が流れる。それは両者共に意見を曲げる気がないことを表しているようだった。
「何故、明日なんだい? いくらなんでも急すぎるだろうに」
その沈黙を破ったのはお婆さんだ。
桃太郎はお爺さんに向いていた瞳をお婆さんに合わせる。
「言い出したのは急でも、決めたのは急じゃない。もう五年も前のあの日」
二人は、桃太郎の言うところの意味を理解しわずかに目を見開く。つまり、五年も意思を曲げなかったということ、そして、そのために剣術を習ったということだ。
お爺さんとお婆さんの脳裏に、チラリと行かせようかという考えが浮かぶ。それだけ真剣に考え、そして努力してきたものを拒むことに抵抗を感じたのだ。
だが首を小さく振りその思いを霧散させると、
「それでも、行かせるわけにはいかん」
それ以上の反論を許さない風に言い放った。
桃太郎は不機嫌そうに眉をひそめる。そして何かを言い返そうとし、考えるように目を泳がせたのち、渋々といった様子で小さく頷いた。
***
まだ太陽の代わりに月が空を支配しているような早朝。桃太郎は暗がりで目を開けた。
暗いものの、月明かりのおかげで最低限物の場所くらいは分かる。少しの光でも、長時間その場にいれば目が慣れるのだ。
彼はそっと、音をたてないように布団から抜け出すと、これまた音をたてないように、それでいて素早く着替える。腰に刀を差し、荷物入れの袋を肩から下げ、さて外に出ようとしたところで一つ思い出した。
お婆さんが次の日の昼食にと昨日の晩作っておいた弁当だ。あれは持って行きたい。もう二度と食べることができなくなるかもしれないのだから。
桃太郎は床に雑魚寝しているお爺さんとお婆さんを踏まないように注意して台所まで行く。丁寧に包まれた弁当を探り当てると、そこには温もりを感じた。思わず感傷的になりそうになるが、首を振って振り払う。そうしてから、肩に下げた袋に入れた。
その作業が終わると、今度は元来た道を引き返す。
古い家であるため、途中何度かギイと床が鳴ったが、熟睡しているのか二人が目を覚ますようなことはなかった。
玄関には月明かりが届かない。どこに自分の履き物があるか見えないが、明かりを点けたら気づかれるかもしれない。
仕方なく手探りで探し、大きさから自分のものを推定。静かに履く。
そうしてほとんど音をたてずに身支度を終えた桃太郎は、扉に手を掛けそこで動きが止まる。
玄関には月明かりが届かない。そして桃太郎の他に起きている者はいない。だから彼がどんな表情をしていたのかは無論誰にも分からない。
「ごめん……」
暗い、静寂の中での一言。それは出し抜くような真似をした謝罪でもあり、未練を断ち切るためのものでもあっただろう。
いずれにしても、彼は扉を開けて外へと出た。
月が桃太郎を微かに照らし、外へ出る足が止まる。だがそれも一瞬のことだ。
桃太郎は扉を、やはり音がしないように閉める。
扉が閉まる直前、桃太郎はお爺さんとお婆さんが小さく身じろぎしたような気配を感じた。
***
ザクザクと、暗い空の下で響く足音。
桃太郎が向かっているのは、よく与助と蛍でたむろしたあの場所だ。もう未練は振り払ったが、あの場所も村を出る前に一度見ておきたい。
村のはずれまで行き、茂みを少しだけかき分け進めばそこはもうすぐだ。
がらんとした広場に、子供が腰掛けるのにちょうど良さそうな岩が一つ。今、あらゆる場所からも死角になるここを知っているのは、おそらく桃太郎一人だろう。
桃太郎は数歩進んで岩に腰掛ける。
あれからもう五年だ。あの時はちょうどよかった岩も、少し無理した姿勢にならないと座れない。
思えば短い時間だった。桃太郎に存在理由を与えてくれた少女。殺されてしまったのはそれからわずか三ヶ月後だったのだ。
そして、それからの五年も長いようで短かった。
今でこそ、自分の身長がどれだけ伸びたのかなんとなく分かるが、それまでは自身の成長など気にかける余裕もなかった。
死に物狂いで剣術を磨き、血反吐を吐いてでも村長に挑み続けた。その甲斐あってか、この歳にしてあの村長を倒すまでに至ったわけだが。
「ふぅ……」
息を吐き、腰を上げる。
長いこと座っていたようで、少し尻が痛い。空は白み始めていた。
そろそろ行かなくてはならない。
目指すは、鬼がひしめく鬼ヶ島だ。
仇を討つ。あの日何もできなかった自分の罪を償う。蛍と与助を殺した鬼を殺し、その同族である他の鬼も殺す。
──全ての鬼を、滅ぼす。
村のはずれ。村と外界とを隔てる結界の一歩手前。
桃太郎は一度だけ立ち止まる。
だが、振り向きはしない。
「行ってくるよ。蛍、与助にいちゃん」
強い声でそう言って、明るくなり始めた空の下。
桃太郎は、結界の外へと一歩踏み出した。
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