桃から
この作品は毎週木曜日更新のワンクールです。そう、秋アニメと同じペースでやって行きたいと思ってます。
早朝。まだ日も上りきらず、辺りは夜の気配をほんの少しだけ残している。
自然すらも活動を始めていない時間帯。静けさが支配する空間で、唯一聞こえてくるのは水音だ。一人のお婆さんが、川で洗濯をしていた。粗末な着物は袖をまくって紐で止めてある。顔に刻まれたいくつもの皺と曲がった腰は、積み重ねてきた年月の深さを物語っていた。
お婆さんのいるこの川は村の結界の守護範囲なので、鬼に襲われる心配はない。
使い慣れた洗濯板で汚れた部分を念入りにこする。洗濯物は二人分。お婆さんの分と、お爺さんの分で、量はさほど多くない。だからというわけではないが、お婆さんの仕事は丁寧だ。
水の冷たさにかじかむ手もお構いなしで、淡々と進めていく。
急げば十五分程度で終わったであろう量を、たっぷりその倍の時間はかけてようやく終える。
全ての洗濯物を思い切り絞り、持ってきていた盥に入れる。同じく持ってきていた手ぬぐいで手をぬぐってから、よっこいせと声を上げて盥を脇に。そのまま戻ろうとするがーー
「おや……?」
ふと視界のはしに見慣れないものが入った。
お婆さんがその方に目をやれば、川の上流から流れてくる物体があった。
水面に突き出した岩に当たりながら流れてくるそれは薄いピンク色。人の尻、もしくはハートを想起させる形をしている。
「桃……なのかねぇ……」
この歳まで生きていれば嫌でも幾度となく見たことがある。今更それを見間違えるようなことなどなかった。
だが口をついて出た言葉は確信とは程遠い色を潜めている。それも当然。その桃は異様に巨大なのだ。縦横ともに一メートルほどもあり、川を流れるその様はプカプカではなく、どんぶらこどんぶらこという擬音が最も適切に思えた。
お婆さんは次第に近づいてくる桃を見ながら、はてどうしたものかと考える。あの桃を引き上げて村の子供達に切って分ければ大喜びすることだろう。だが、はたしてあれを普通の桃と同列に考えても良いものなのだろうか。
巨大桃がすぐ目の前まで接近してきたところで、お婆さんは無理やりに思考を中断。引き上げるにしろ放っておくにしろ、とりあえず確保しておくに越したことはない。
お婆さんは地面に置いてあった竿竹を手に取り、桃をせき止めようと試みた。洗濯物を干す際に使うそれは、その役目上かなりの長さがある。洗濯物を洗った後、そのまま川岸で干す村民がいることに感謝しつつ腕に力を込める。
はたしてお婆さんの目論見通り、桃はその動きを止めた。そしてお婆さんは器用に竿竹を使い、少しずつ桃を川岸へと寄せていく。
「よいしょっと……!」
自らを奮い立たせる掛け声とともに腕に力を入れ桃を岸に上げる。見た目の通りかなりの重量があり、目的を達成するころには額は汗でびっしょりだ。若干ではあるが息も荒い。
「ふう……ふう……」
その場に座り込んで息を整えること数十秒、お婆さんは改めて自分の引き上げた巨大な桃を見た。
薄く明るいピンク色で、全体的にふっくらとよく育っている──まあ巨大だから当たり前なのだが──印象を受ける。川の水が太陽の光を反射して、なんとも瑞々しい。
控えめに言って、かなり美味しそうだった。こんな桃に危険があるわけがないと判断するのにも申し分ない。
「よし」
お婆さんは村の子供達に切り分けることに決めて立ち上がる。洗濯物を入れた盥を手に取り、次に桃を持ち上げようとして……。
「おっとっと……!」
そのあまりの重さにたたらを踏んだ。
洗濯物自体は量が少なく大して重くないが、桃と一緒に持って行くには少し邪魔である。
お婆さんはどうしたものかと再び考え込んだ。
***
太陽もだいぶ高くなり、徐々に気温が上がっていく頃。お爺さんは背に薪を担いで歩いていた。
この薪を取ってきた雑木林までは村の端の方にあるお爺さんの家から八百メートルほど。村の結界の守護範囲は村の中心から半径五百メートルの円を描いている。雑木林は村を挟んでお爺さんの家とちょうど反対側にあるので、鬼に襲われる心配のない場所である。
ただ、本年六十歳にもなる老人にとって、薪という大荷物を背負っての八百メートルというのはなかなかに苦だった。
休み休み歩いていると、不意にブンッという風を切る音がする。音の方向に目をやると一人の子供が木剣を振っている。
年の頃は六歳ほど。短めの黒髪に勝気そうな瞳が特徴だった。
「朝から稽古かい。偉いのぅ、与助。村長も感心しておろう」
「あ、じいちゃん」
お爺さんが声をかけると男の子は手を止め返事をした。
この村の結界を張っている村長の息子のわんぱく小僧。それがこの与助であった。
与助は褒められたことに頬を緩めつつ両手を腰に当てる。
「僕早くお父さんみたいに強くなって村のみんなを鬼から守るんだ! そのうち結界の外にいる鬼も退治してあげる!」
「ほっほっほ。そりゃあ頼もしいのう」
小粋に笑うお爺さんだが、それが言葉で言うほど簡単ではないことを知っていた。
そもそも鬼とは存在自体が規格外な生き物なのである。額から生えるツノは口からのぞく牙同様に鋭く、身の丈は二メートルから三メートルある。丸太のような金棒を小枝のように振り回すそれは、例えどんなに剣術や、結界などの術を極めたとしても必ず勝てるわけではない。剣や術の上級者でもなければ、複数人でも勝利を納めることは難しい。
だからこそ、人は村の周囲に鬼除けの結界を張りその中で生活しているのだ。
「それよりもじいちゃん! 僕新しい型覚えたんだよ。見て見て!」
言って与助は腰を落とし腰だめに木剣を構える。居合切りの要領で木剣が振られ、風を切る音が力強く響いた。
「おー、すごいすごい」
お爺さんが褒めると与助は「えへへ」と照れたようにはにかんだ。その様子を微笑ましいと思いながらも、おそらく成長した姿は見れないのだろうという寂寥の念を感じずにはいられない。
「こりゃ村長を追い越すのもそう遠くないかもしれんのぅ」
「まさかぁ。僕まだ全然お父さんに敵わないんだよ」
やれやれという風に肩を竦める与助に「そうかそうか」と調子を合わせる。
「追い越すにはもっと練習しなくちゃ!」
「うむ、頑張りなさい。じゃあ儂はそろそろ行くかいの。怪我のないよう気をつけるのじゃぞ」
「うん! ばいばい!」
元気に手を振る子供に微笑みかけ、薪を背負い直すとお爺さんは我が家へと歩き始めた。
***
「こ、これは……」
お爺さんが家に帰って、ただいまの次に出てきたのがこの言葉だった。思わず扉地点で硬直してしまったお爺さんの視線は、部屋の中央にある縦横一メートルほどもある桃へと注がれている。
「川で洗濯をしてたらねぇ、流れてきたんですよ」
疲労困憊といった様子で言うお婆さんを一瞥しつつ、巨大桃を観察する。
外見上は、大きさを除けばいたって普通の桃と同一だ。危険はなさそうどころか、むしろ美味しそうだった。
「こんな大きな桃、一体どうするつもりじゃ? 村の子供達に食べさせるのかい?」
「えぇ、そのつもりですよ。切るのも一苦労でしょうけどねぇ」
「それなら儂が手伝おう」
お爺さんはそこでようやく背負っていた薪を下ろすと家へと上がり込み、手早く桃を切り分ける準備を始めた。
いくつか皿を持ってきて、桃を大きい盥の上に置く。サイズ的にまな板では小さすぎるため、この盥はその代わりだ。
「それじゃあお爺さん、しっかり抑えておいてて下さいな」
準備が終わると包丁を片手にお婆さんが言う。お爺さんはそれに小さく頷くと両手で挟み込むようにして桃を抑えた。
「よっ」
小さな掛け声とともにお婆さんは包丁を持つ手に力を入れる。
するとその刃は大きな抵抗もなく桃へと入っていった。桃はその大きさ故に包丁の刀身全てを入れても全体の何分の一かまでしか切れない。だから一度刃を入れたくらいではとても半分に両断することなどできない、はずだったのだが……。
「おや?」
「あれ?」
お婆さんが包丁を入れた位置、すなわち桃の中心に真っ直ぐな亀裂が走った。そしてその瞬間、桃の内部から確かに何かが動いた振動が伝わってきた。
「「えっ……!?」」
そのあまりに想定外のことに二人はそろって手を離し、互いに目を合わせる。どちらも最近は見ることの少なくなった動揺の色を、その表情に浮かべている。そして異常はそれだけではなかった。
ガタッと桃が震え、桃の中心に走った亀裂が徐々に広がっていく。それを見た二人は共に一歩後ずさり、思わず身構える。
ピリピリとした緊張が空間を支配し、お爺さんの額を汗が伝う。
痛すぎるほどの沈黙が古い家をつつみ、お婆さんは恐怖を隠しきれない。
どちらもこの奇妙な現象についていけず、ただ傍観することしかできない。
──今日でこの命は終わりかもしれない。
そんなことを考えてしまったのはお爺さんだったのか、それともお婆さんだったのか。
いずれにしろその瞬間に、パカッというこの場にふさわしくない音が鳴り響き、桃が半分に割れ……。
「おんぎゃあぁぁっ! おんぎゃあぁぁっ!」
中から、元気な男の子が出てきた。
***
古い家に赤ん坊の鳴き声が鳴り響く。その騒音の発生源は部屋のほぼ中心部。先ほど二つに割れた巨大桃の間である。
お爺さんとお婆さんはその赤ん坊を視界におさめた状態のまま、何かに縛られたように動けずにいた。
その原因は極度の緊張がプツリと切れたからなのか、桃から赤ん坊が生まれるという異常事態を処理し切れていないからなのか。それともいっそ両方かもしれない。
「おんぎゃあぁぁっっ! おんぎゃあぁぁっっ!」
産声を上げる赤ん坊は一向に収まる気配がない。
奇しくも、部屋の両端に硬直した老人。部屋の中央には二つに割れた巨大な桃とその間で産声をあげる赤ん坊というカオスが形作られていた。
時間が止まってしまったかのような硬直。
だが、この硬直も長くは続かない。破ったのはお婆さんだ。
「よ、よぉしよぉし……」
這い寄るようにして赤ん坊に近づき、その頭を優しく撫でてやる。薄く柔らかい髪の毛が肌に気持ちいい。
そして今度はゆっくりと抱き上げ、よしよしとあやそうとする。それでも赤ん坊は泣き止む気配がなかったが、お婆さんにはどうすることもできなかった。なんとも言えない感慨のようなものが沸き起こってきて、思考を阻んだからだ。
思えば、子供ができることもなくこの歳になってしまった。欲しい欲しいと願っても、ついにできることはなかったのだ。
だからお婆さんは、赤ん坊を抱いたことはなかった。それはお爺さんも同じだ。いつかはそのことを残念に思い、いつかはそのことで悲しみに浸り、いつからかは仕方ないと諦め達観するようになってしまった。
だが今こうして、自分の腕の中に赤ん坊が──桃から出てきた得体の知れない赤ん坊ではあるが──いるのだ。その温もりを伝えてくれるのだ。心の奥へ奥へと押しやってきた衝動が徐々にお婆さんを侵食していく。気がついたら、涙が一雫落ちていた。
横ではいつの間にか横に来たお爺さんが、お婆さんと同じような顔をしながら赤ん坊の頭を撫でている。
そう、この赤ん坊は得体が知れない。巨大な桃の中から出てきた、つまり普通の人間とは全く違う生まれ方をした赤ん坊なのだ。
お爺さんにもお婆さんにも少しの恐怖はあった。だが湧き上がってくる衝動はそんなものなど容易く上回っている。
お爺さんとお婆さんは見たことがないが、この世界には傷を一瞬で治してしまう術や、未来を予言する術といった神秘もあるらしい。それを考えれば、桃から生まれた赤ん坊もまた異常だとは言えない。
もしかしたらこの赤ん坊は、神様からの贈り物なのかもしれない。子供が欲しくてたまらなかったのに、ついぞできなかったお婆さんたちへの、神様からのプレゼントなのかもしれない。
──それならば。
この赤ん坊は大切に大切に、そして立派な人間になるように育てよう。お爺さんとお婆さんはこの時、強くそう思った。
桃から生まれた神秘の赤ん坊はいつしか泣き止み、静かに寝息を立てていた。
***
後日、この桃から生まれた赤ん坊は、『桃太郎』と名付けられた。