第9話 それぞれの思い
トリアスの街を覆っていた霧がようやく晴れ、朝日がその姿を遠い東の空に現したころ。
リリィは街の外れにある開けた場所に、数頭の馬と1台の馬車を見つけた。そのすぐ傍らには、眠そうな顔をした白衣の男と若い兵の姿が見える。
そのまま歩みを止めずに馬車へ近づくと、眠い目を擦る白衣の男がリリィに気がついた。男は驚いたように目を見開き、それまでの眠気が一気に吹き飛んだかのように馬車へと駆け込む。
「ラナン所長、リリィです。リリィが来ました!」
馬車の中で身支度を整えていたラナンは、研究員の声に行動で応えた。馬車から降りると、僅か十メートルほど離れたところに、捜し続けていた白い髪の少女の姿があった。
「君の方から来てくれるとは思わなかったよ、リリィ」
いつもと変わらぬ口調だが、その顔にはどこか勝ち誇った表情が浮んでいる。
「私が戻れば、この街の人たちに迷惑を掛けませんか?」
「もちろんだ。別に私は、この街を困らせようとは思っていない」
リリィは俯いたまま、ラナンの言葉を頭の中で反芻する。その中に混じってアスターの言葉も響く。
――僕は全力であいつらからリリィを守る。
心を乱すその言葉を追い払うかのように、リリィはきつく目を閉じた。
ラナンはゆっくりとリリィのもとに歩み寄ると、小さな晶石を取り出した。
「これを君に返そう」
ラナンは、晶石が取り付けられた首飾りをリリィの首にそっと掛けた。
「手荒なまねをしてすまなかったね」
優しく声を掛けながら、ラナンはリリィの白い髪をそっと撫でた。
「では、我々と一緒に帰ってくれるかな?」
胸元に戻ってきた晶石を見つめながら、リリィは無言で小さく頷いてみせた。
リリィの肩に手を添えて、ラナンは馬車の中へと導く。
「ロベリア殿、ラドロウへ戻っていただけるかな?」
二人の様子を静かに見守っていたロベリアに声を掛けると「承知した」のひと言が返ってきた。
リリィはラナンに促されたまま後ろを振り返り、少しずつ遠ざかるトリアスの街を眺めた。自分で決めたことだったが、心のどこかではいつまでも後ろ髪を引かれる思いが燻り続けていた。
「……ター……おい、アスター」
何かに身体を揺らされるのを感じて、アスターはようやく目を覚ました。
東の空にあった太陽はすでにトリアスの上空へと来ており、部屋の中には昼の明るさがあった。
寝ぼけた様子で目を擦りながら、アスターはゆっくりと上体を起こす。ひとつ、大きな欠伸をすると、隣にいるオレガノに気がついた。
「あぁ、オレガノ……おはよう……」
まだ眠り足りないのか、アスターはもう一度大きく欠伸をした。
「アスター、リリィはどうした?」
「ん~……リリィなら、僕の部屋で寝ているんじゃ……」
「どこにもいないから聞いている!」
オレガノの言葉に一瞬耳を疑ったアスターは驚きの声を上げ、勢いよく立ち上がった。慌てて自分の部屋を覗き込むと、そこにはリリィの姿はない。ほかの部屋や工房を覗いても、家のどこにもリリィの姿はなかった。
「リリィ?」
「おそらく、一人で街を出たのだろうな」
そう言うオレガノの視線の先には、綺麗にたたまれたアイリスからもらった衣服があった。
「どうして……朝は一緒に帰ってきたのに……」
オレガノは小さく息をつくと、
「おそらくこれ以上迷惑を掛けるわけにはいかない、とでも思ったのだろうな」
「まさか、白衣の男たちのところに?」
オレガノはアスターの言葉に頷く。
「あの白衣の男たちは、隣国のラドロウの者たちだ。おそらく彼らとともにラドロウへ帰ったのだろう」
「そんな……」
小さくこぼしたアスターは、力なく膝をついた。
「アスター、お前はどうする? どうしたい?」
愕然としたアスターに、オレガノは真剣な眼差しでアスターに問いかける。
「えっ?」
「このまま彼女のことを忘れて、これまでの元の生活に戻るのか?」
アスターは突然の出来事に、頭が混乱していた。水晶洞窟でリリィを守ると誓ったばかりなのに、リリィは自分の意思でこの家を出て行った。自分が言ったことは迷惑だったのだろうか。そんな考えが頭の中をよぎった。
アイリスから服を貰ったリリィの笑顔は明るく輝いていた。白衣の男たちが現れたとき、リリィは確かに怯えていた。詳しい事情を知らないアスターには、それがすべてだった。
考え抜いた末にアスターは立ち上がると、工房へと向かった。加工の途中だった晶石を手に、再びその表面を削り始める。
「アスター?」
「僕はリリィと約束したんだ。必ずこれを渡すって。必ずリリィを守るって」
アスターはオレガノに背を向けたまま、その視線は手元の晶石に注がれていた。
「ラドロウに行く、ということか?」
「うん。リリィはアイリスから服をもらって、すごく嬉しそうな顔をしたんだ。白衣の男たちが目の前に現れたとき、リリィはすごく怯えた顔をしたんだ。たとえリリィが自分の意思でそうしたのであっても、それは間違ってる。リリィの居場所はそこじゃないんだ」
アスターの言葉には、堅い意思を宿した力強さがあった。
「だから僕はこれを作り上げて渡すんだ。そして必ず連れ戻す」
晶石を磨き削っていくアスターの背中を見て、オレガノは誇らしげに笑みを浮かべた。
「分かった。お前がそこまで言うのなら、自分の思うようにするといい。俺もついて行こう」
「オレガノ?」
オレガノの「ついて行く」という意外な言葉に、アスターは手を止めて振り返った。
「俺個人としても、ちょっとあの子を放っておくわけにもいかないのでな」
「リリィのこと……何か知ってるの?」
アスターの疑問に、オレガノは僅かに口を閉ざした。だが、すぐに口を開き、
「ラドロウまでは距離がある。夜にジュラの森を通るのは避けた方がいいからな、今日中に準備をして明日の早朝に街を出よう」
オレガノはアスターの問いには答えずに、当面の予定をアスターに伝えた。そして、アスターの返答を待たずに、身を翻して外へと出てしまった。
オレガノの真意はアスターには分からなかった。単に、自警団という立場からこの状況を見過ごせないのか、それともほかに理由があるのか。
正直なところ、ラドロウまでの道すらよく分かっていないアスターにとっては、オレガノが同行してくれることは素直にありがたかった。それに、トリアスの自警団長が一緒なら何かと心強い。
リリィに渡す石飾りを仕上げるため、アスターは黙々と晶石を削り続けた。
長いあいだ晶石の研磨がようやく終わり、先端に小さな止め金具を付けられた細い革製の紐を晶石に取り付けて、アスターはようやくリリィに渡す石飾りを完成させた。
その装飾は首に掛ければ首飾りになり、紐を三重に巻いて手首に付ければブレスレットにもなるようになっている。紐にぶら下がるような形で取り付けられた小さな晶石は、覗き込めば微かに晶石越しに工房の様子が見えた。
気がつけば陽は沈みかけているようで、窓の外には淡い群青に染まった空が広がっている。
無事に完成した晶石の飾りをそっと握りしめて一つ息をついたところで、家の外からアスターを呼ぶ声が聞こえてきた。
「アスター、いる?」
何度か軽く扉が聞こえた後、ゆっくりと開かれた扉からアイリスが覗き込む姿が見えた。昨日と同じく、頭にはアスターが作った装飾が付けられたバンダナが巻かれている。
「アイリス! よかった、無事だったんだ」
昨日、白衣の男たちから逃げ出したアスターは、あれ以来アイリスとは会っていなかった。リリィを知っていると言うことで、白衣の男たちに何かされたのかもしれないと考えたこともあったが、アイリスの無事な姿を見て安心した。
「うん……ラドロウの人たちにリリィのことで問い詰められたけど、オレガノが助けてくれたから……」
「そうか、とりあえず無事で本当によかった」
アイリスは部屋を見渡して、リリィがいないことに気づき、
「ところでリリィは? ここにいるんじゃないの?」
「あぁ、そのことなんだけど……」
アスターは表情を曇らせて、アイリスにリリィのことを話すべきか悩んだ。しかし、自分たちが逃げているあいだに、アイリスは白衣の男たちに問い詰められていたことを考えると、すでに無関係とは言えない。偶然とは言え、その場に居合わせたアイリスに迷惑を掛けたのは事実だ。
アスターは、リリィが自分の意思で白衣の男たちのもとへ行ったこと、明日の早朝にオレガノと二人でリリィを連れ戻しにラドロウへ向かうことを正直に話した。
「あたしも行く!」
一通り話を終えたところで、噛みつくようにアイリスは声を上げた。
「ちょっと待って。行くって、ラドロウに?」
「うん。だってあたしが余計なこと言っちゃったから、こんな事になったんでしょ? あのときリリィは白衣の男たちに怯えていたのに、あたしがリリィのことを喋ったから……」
親切心で言ったひと言で、あのような状況を作り出すとは思っていなかった。そのことにアイリスは少なからず心を痛めていた。その心情が表れているかのように、アイリスの言葉尻は小さくなった。
「アイリスは悪くないよ、事情を知らなかったんだから。正直なところ、僕だってまだ詳しくは知らないし……。だから、アイリスが気に病む事じゃないよ」
落ち込むアイリスの肩に手を置いて、優しく諭すように言った。
「でも……」
「大丈夫、僕とオレガノがラドロウに行くんだからさ。だからアイリスは、ここで帰りを待っててよ」
アイリスは長い沈黙の後、俯いたまま小さな声で「分かった」と答えた。
しかし、隣国からわざわざ一人の少女を追ってトリアスまで来た白衣の男たち。その男たちに怯えていたリリィ。そのことを思うと、言いしれぬ不安がアイリスの中から消え去ることはなかった。
「必ず……帰ってきてよ」
「うん」
アイリスは、バンダナに取り付けた赤い石を外すと、それをアスターに差し出した。
「アイリス……?」
「貸してあげる。これは、返すとかあげるとかじゃなくて、貸すだけなんだからね。だから、必ず返してよ。絶対、帰ってきてよ。オレガノと、リリィと、三人で……」
得体の知れない不安を抱えながらも、アイリスは力強く言った。まだ、どこか落ち込んでいるような暗い表情だ。アスターを真っ直ぐ見つめるその瞳は、微かに涙で揺らいでいる。
アイリスが差し出した石を受け取ると、
「うん、必ず戻ってくる。絶対に、三人で……!」
自分自身に言い聞かせるように、アスターもまた力強く答えた。