第7話 水晶洞窟
アスターとリリィは、採掘用に作られたウェンロック鉱山の麓にある坑道を歩いていた。
坑道に入ってからしばらく経つが、白衣の男たちが追ってくる気配はない。
坑道内は、等間隔に置かれた小さなランプが辺りを仄かにオレンジ色に染めている。湿気が多く天井からは水滴が滴り落ちてくる。水滴が落ちるたびに、その音を小さく響かせた。
「もう少し進んだところに開けたところがあるから、そこまで行こう」
走り続けたためか、リリィの顔には疲労の色が出ていた。
リリィを気遣いながら、アスターは歩く速度を緩めて坑道の奥へと進む。
二人は、ひと言も交わさずに歩き続けた。
坑道内には二人の足音と、時折天井から落ちてくる水滴の音だけが響く。
十分ほど歩くと、坑道内にも関わらず青く光る場所が見えてきた。
「リリィ、ここだよ」
アスターは、数歩後ろを歩くリリィに振り返りながら言った。
「すごい……」
リリィがその場所に足を踏み入れると、瞳を輝かせながら感嘆の声を漏らした。
坑道よりも一回り開けたその空間は、海のような青い輝きを放っていた。天井も足下も壁も、その周囲のすべてが青い水晶でできている。水晶は水を湛えているかのように揺らめき、晶樹の森とは違った幻想的な空間を作り出している。奥の壁からは絶えず岩清水が流れ出し、その周辺に小さな湖がある。
自然が作り出したその美しい光景に、リリィはしばらくのあいだ魅入っていた。
「アスター……ここは?」
「ここは水晶洞窟。人の手が一切加えられていない天然の洞窟なんだ」
「綺麗……」
「この場所は、トリアスの鉱山夫しか知らない場所だから、さすがにここまで追ってくることはないよ。今日はここで休んで、明日、陽が昇る前に家へ帰ろう」
アスターの言葉にリリィは輝かせた瞳を曇らせ、顔を俯かせた。
「ごめんなさい……」
「え?」
「私のせいで、アスターを巻き込んでしまって……」
「リリィ……」
リリィはつい先程までの逃走劇を思い出し、アスターを巻き込んでしまったことを悔やんでいた。
「僕は……迷惑だなんて思ってないよ」
アスターは小さく笑うと、穏やかな口調でリリィの言葉を否定した。
「え……?」
「正直、白衣の男に追われているときは少し怖かったけど……でも、楽しかった」
アスターは、海の水面のように煌めく水晶洞窟の天井を眺めたまま続けた。
「今までは、朝起きて工房に籠もって技巧士としての腕を磨いて、時々石を採りに行って、そんな毎日の繰り返しだった。それが当たり前だったんだ。そんな毎日が退屈だと思ったことはなかったけど、リリィと出会ってその毎日が簡単に変わった。今まで想像もしたことのなかったことに、驚いて、戸惑いもしたけど、でも……」
リリィを出会ってまだ一日と経っていないのにも関わらず、アスターは何日もの月日が流れたかのように感じていた。目を閉じて、僅か数時間の出来事を思い起こす。
「でも、すごくドキドキした……すごく楽しかった」
「アスター……」
「だから、リリィが謝る必要はないよ」
「うん……」
リリィは相変わらず俯いたままだったが、その声には少しだけ明るさが戻っていた。
「なんじゃ、珍しく人の声が聞こえると思ったら……アスターか」
不意に、洞窟の奥からしわがれた男の声が響いた。
「ガウラ爺さん!」
アスターは声の主の名前を叫ぶと、ガウラのもとへと駆け寄った。
八十歳を超える老人の顎には白い髭が貯えられ、背は丸く曲がり、小さな身体はより小さく見えた。鉱山夫として鍛えられたその足は、細く引き締まっている。
「爺さん、最近見かけなかったけど、どこ行ってたの?」
「あぁ、ちょっと東の方へ遠出をしてたもんでな。ついさっき、街に戻ってきたんじゃ」
「遠出って、また石探し?」
ガウラはゆっくりと頷き、
「えらく純度の高い晶石があると聞いてのぉ。それを採りに行ってたんじゃ」
「へぇ……どんなの? 見せてよ」
「そう急くな」
ガウラは自分の身体よりも大きなリュックを背中から降ろすと、その中に腕を入れてまさぐり始めた。そして、リュックから一握りの晶石を取り出して見せた。
「これじゃ」
水晶洞窟の青い輝きを受けて、感化されたかのように晶石が淡い青に染まる。
ガウラから晶石を受け取ると、アスターはまじまじと見つめた。
「すごい……晶樹の森で採れる石よりも透明度が高い……」
アスターの指先で輝く晶石は、氷よりも透明度が高く、晶石越しに水晶洞窟が覗けるほどだった。
「気に入ったのなら、くれてやるぞ」
「えっ、いいの?」
ガウラの言葉に驚き、アスターは目を見開いた。
顎から延びる白い髭を整えつつ、ガウラを小さく笑って見せた。
「まだ晶石はあるからの。それに、技巧士としていろいろな石を持っておいた方がいいじゃろ。それに昔から晶石は、災厄から身を守る力が宿っていると言われておる。きっと、お前さんやその娘さんを守ってくれるはずじゃ」
「ありがとう、ガウラ爺さん!」
アスターはガウラの小さな手を取って喜んだ。
「ねぇ、アスター」
二人のやりとりを遠巻きから眺めていたリリィが、おそるおそる声を掛けた。
「あぁ、ごめんリリィ。この人はガウラ爺さん。この街の炭鉱夫で石の収集もしているんだ。僕に技巧士としての知識も教えてくれた人なんだ」
「あの、私、リリィと言います」
リリィは小さく会釈をする。
ガウラはその小さな目でリリィを見つめると、柔らかい笑みを浮かべた。
「ふむ、澄んだ良い石を持っておるようじゃのう」
「え……石?」
「そうかそうか。こんな可愛らしい娘さんが一緒なら、アスターが仕事をさぼってここにいるのも頷けるわい」
「爺さん、そんなんじゃないって!」
アスターは慌てて否定するが、その声には説得力は感じられなかった。
ガウラは愉快そうに短く笑うと、話題を変えてきた。
「ところで、街が騒がしかったが……何かあったのか?」
ガウラの言葉に、再びリリィの表情が曇る。
「まぁ、ちょっとね……」
アスターは話しづらそうに、言葉を濁した。
「ふぅむ。どうやら、お前さんたちがここにいることと何か関係がありそうじゃが……まぁ、詮索はせんわい」
「爺さん……」
アスターは、表情にこそ出さなかったが、心の内では安堵した。仮に聞かれたところで、アスター自身も詳しいことは知らないため、答えようがなかった。
「それなら、もうしばらくは街に戻らんほうがいいじゃろう」
「うん、今日はここで休んで、明日の朝早くに家に戻るつもりだよ」
「そうか。ならこれも渡しておくかのう」
そう言うとガウラは、再びリュックの中に手を入れると、紙に包まれたパンを取り出した。
「爺さん、いいの?」
「あぁ、わしはもうしばらくしたら家に戻るからのう。どうせお前のことじゃ、何も持ってきておらんのじゃろう?」
「う……そ、そうだけど……」
「なら、遠慮するな、ほれ」
ガウラは促すように、アスターの前にパンを差し出した。ここで一晩過ごすと決めたものの、食料と呼べる物を持っていなかったアスターには、ありがたい申し出だった。素直に受け取ると、改めてガウラにお礼を言った。
「それじゃあ、わしは帰るとするかのう」
ガウラはアスターに背を向けると、来た道を戻るように歩き始める。だが、不意にその足を止めた。
「アスター」
ガウラはアスターに背を向けたまま呼びかける。
「何?」
「忘れるな。石は互いに共鳴し、引き寄せ合う。お前がその娘さんと会うたのも同じじゃ」
「爺さん……?」
石が引き寄せ合うという話は、これまで何度もガウラから聞いてきた言葉だった。しかし、それが自分とリリィも同じだという意味が、アスターには分からなかった。
「お前も男なら、その娘さんを守ってみせることじゃな」
ガウラは背を向けたまま手を振り、青く輝く洞窟の奥へと姿を消した。
アスターとリリィは、ガウラの小さな背中をただ黙って見送った。