第23話 その思いの先にあるもの
光に包まれたアスターはゆっくりと目を開いた。
晶樹の前でうなだれていたはずだったが、辺りは何もない、ただ白い空間が広がっていた。
「こ、ここは……」
周囲を見渡しても、目に映るのは白という色だけだった。まるで夢の中にでもいるような、不思議な空間だ。
その現実味のない空間に、人の輪郭が浮かび上がった。白い髪に白い肌、そして白い服を着た一人の少女の姿を成していた。
「リリィ!」
白一色の空間では、リリィの姿はまるで空間に溶け込むかのようで、かろうじてその姿を見ることがでる状態だ。
「アスター……」
リリィの青い双眸は伏し目がちで、悲しみや戸惑いの色が浮かんでいる。この白い空間において唯一はっきりと見ることができるその瞳も、今にも消え入りそうなほど希薄なものに感じられた。
「ごめんね、アスター……」
リリィは悲しみに満ちた小さな声を出した。
「何言ってるんだよ。リリィのおかげで助かったんだ」
リリィは小さく首を振り、
「私、今まで自分のことをよく知らなかったけど……今回のことでようやく知ることができたの。どうして生まれつき白い髪なのか、なぜお母さんが私に晶石の首飾りを残してくれたのか」
リリィは静かに自身のことを話し始めた。
これまで、名前以外のことを聞けなかったアスターは、リリィが何を話そうとしているのかを、ただ黙って聞き入れた。
「私がまだ小さい頃に、お父さんとお母さんが亡くなって……二人のことはほとんど知らないの。顔もよく分からなくて……。分かるのは、お母さんが残してくれた晶石の首飾りだけだった」
横髪を耳に掛けるようにかき上げて、リリィは続けた。
「それからはずっとあの研究所の中。私にとってあの中だけがすべてだった。幼い私を引き取ったあの人は……ラナンさんは私の中にある奇石に興味を持っていたけど、その時の私は奇石が何なのかも知らなかった。何のことを言っているのか全然分からなかった」
静かに語るリリィの顔は、悲壮感に満ちている。
「ここにいるとね、聞こえてくるの。聖女と呼ばれた人たちの声が……。その人たちが、教えてくれたの。白い髪のこと、聖女のこと、私の中にある奇石のこと」
静かに瞼を閉じて何事かを考えるように俯く。その双眸が開かれるまでには、さほどの時間は要しなかった。青い瞳を露わにしたリリィの顔には、揺らぐことのない意思が表れていた。
「私は、ここに残ることに決めた。ずっとこの場所で……」
「リリィ……」
アスターはリリィの言葉に驚きと動揺を隠せなかった。
「な、何を言ってるんだよ。ほら、一緒にここを出よう。ここを出て一緒にトリアスへ返ろう。アイリスもリリィの帰りを待ってるんだ、だから……」
そう言ってアスターは、そっと右手を差し出した。
リリィは柔らかく首を振り、真っ直ぐにアスターを見つめた。その顔には、トリアスで見たリリィ本来の笑顔があった。
「アスター……短いい間だったけど、ありがとうね」
リリィの白い姿はそのまま白い空間に溶け込んでいき、輪郭すらも見ることができなくなる。
「リリィ……リリィ!」
そのその直後、アスターは強力な力で後ろへ引っ張られる感覚に襲われた。手を伸ばして抗おうとしても、まるでこの白い空間から追い出そうとアスターは身体を引っ張られていく。抵抗も虚しく、アスターの身体は宙に浮くと、そのまま空間の奥へと飛ばされた。
――さよなら、アスター。
吹き飛ばされるような形で、アスターは晶樹からその姿を現した。そのまま地面を転がり、ジニアたちのいるジュラの森へと戻ってきた。
『アスター!』
突然、晶樹から現れたアスターに驚き、ジニアはアスターのもとへ駆け寄る。
だがアスターはジニアには気にもとめず、再び晶樹へと駆け寄り、
「リリィ、リリィ! どうして……何でだよっ! 一緒に返ろう……リリィ!!」
両拳で晶樹を叩きながら、アスターは自身の願いを叫び続けた。しかし、リリィを飲み込んだ晶樹は何ら変化を見せることはなかった。
そのまま崩れるように両膝をついてアスターはうなだれた。
「リリィ……」
今にも泣き出しそうな震える声でリリィの名を呼ぶアスターの背後で、一つの影が揺らいだ。
右手にアスターのナイフを握ったラナンが、よろめく足に力を込めてゆっくりと立ち上がる。気取られぬよう声と感情を押し殺し、ナイフを握る右手に力を込めた。背中を向けてうなだれるアスターを、ラナンは鬼のような形相で睨みつけた。
幼いリリィを引き取ってからの十数年、ラナンが描いてきた理想と計画は一人の少年によって粉々に打ち砕かれた。ラナンはアスターに対する憤りをナイフに込め、意を決したように大地を蹴った。
「うおおおぉぉぉっ!」
雄叫びのように声を上げ、ナイフを振り上げる。
突然の声にアスターが振り返ると、今まさに襲いかからんとするラナンの姿があった。
アスターまであと二歩。
振り上げたナイフを振り下ろそうとした瞬間、ラナンの眼前に二筋の閃光が煌めいた。一つは右手のナイフをはじき飛ばし、もう一つは横顔をかすめて制止した。
硬直したように動きが止まったラナンは、二筋の閃光が剣の刃だと言うことが分かった。
「そこまでだっ!」
ラナンが怯えたようにゆっくりと後ろを振り返ると、背後には濃紺のフロックコートと深紅のフロックコートを纏った男女が剣を突きつけていた。
「貴殿は……」
「そっちも来ていたのか」
ラナンに剣を向けたまま、オレガノとロベリアは少し驚いたように互いの顔を見合った。
僅か数ミリ横で煌めく刃に、ラナンは今度こそ完全に戦意を喪失した。そのまま、全身の力が抜けたようにその場に座り込む。
「ふっ、ようやく自分の意思で動いたか」
「私はもう少しで、何が正しいことなのかを見失うところだった。貴殿には感謝する」
ロベリアは剣を納めると、慣れた手つきでラナンの両手首を後ろ手に縄を巻き付け始めた。
「悪いがラナンの処遇は、我が国で決めさせてもらう。異存はないな?」
オレガノも剣を納めつつ、
「あぁ、そうしてくれるとこちらも手間が省ける」
オレガノはおどけた様子で肩をすくめて見せた。あらゆる力が抜け落ちたラナンを一瞥すると、アスターとその背後ある晶樹に目を向けた。
「その晶樹……リリィか」
オレガノの言葉に、アスターは沈黙することで答えた。
何か言葉を掛けようかと口を開き掛けたが、すぐにその口は閉ざされた。静かにアスターの肩に手を置き、先程飲み込んだものとは違う言葉を口にする。
「さぁ、トリアスへ返ろう」
よく通るその声に、アスターは胸を締めつけられた。同じ言葉をリリィにも伝えたが、リリィはそれを拒んだ。ずっとこの場所にいることを望んだ。ラナンという脅威が取り除かれた今、リリィには何の憂いもないはず。それでもリリィは、晶樹の中に残ることを決意した。アスターにはリリィが何を思っているのか、分からないでいた。
うなだれたままのアスターの手を握り、オレガノは優しくその手を引いた。
晶樹の森で出会ったアスターとリリィは、アスターにやり場のない悲しみを残したまま、僅か数日で決別を迎えることになった。