第21話 黒い火
三頭の巨大な獣を前にしてもまったく臆した様子を見せず、ラナンは縁のない眼鏡の奥で冷ややかに目を光らせた。
金狼と銀狼は、昨晩の黒い火の力を目の当たりにしているためか、低い唸り声を上げながら強い警戒の眼差しをラナンに向けている。人間以上の俊敏さを持つ彼らも、黒火の石から放たれる閃光を確実に避けきれる自信はなかった。
「さぁ、リリィ。私とともにラドロウへ帰ろう」
ラナンはゆっくりとリリィ近づきながら手を差し伸ばす。
二頭の巨狼は巨大な牙をむき出しにしつつも、ラナンが近づくたびに無意識のうちにじりじりと後ずさりをした。
アスターだけは、リリィを守るという強い意志だけで一歩も動かずに立ちはだかっている。
「何度も言ったはずだ。あそこはリリィの居るべき場所じゃない」
ラナンは、やや呆れた様子で肩をすくめて見せて、
「私も言ったはずです。私といることが彼女のためだと」
「僕はリリィを守ると決めたんだ。もう二度と、お前のところへなんか行かせない!」
「やれやれ……何度言っても分からないようであれば、力尽く、しかありませんね」
ラナンは白衣のポケットに忍ばせていた黒火の石を、ゆっくりと取り出した。
昨晩は夜の中にあってよくは見えなかったが、差し込む木漏れ日によってその存在がしっかりと見てとれた。人を塵にする力を秘めた、その漆黒色の石が。夜の闇を閉じ込めたかのような石は、陽の光に晒されてもその異質な黒さが薄らぐことはない。
「まぁ、もとよりそのつもりでしたが」
「リリィは後ろに下がってて」
ラナンを見据えたまま、アスターはリリィに言った。
リリィは怯えながらも小さく頷き、大樹カレンの陰に隠れる。
「フフフ……いいですねぇ、その騎士気取り。良くも悪くも実に若者らしい」
挑発的な笑みを浮かべながら、ラナンはアスターを見下ろす。
ラナンの言葉を聞き流しながら、アスターはオレガノから受け取った小さなナイフを手にする。その短い刃をむき出しにさせた。だが、これまで人に刃物を向けたことがないアスターの手は、僅かに震えていた。憎むべき相手を前にしても、これからの自身の行動に対する不安や恐れ、迷い。さまざまな感情が握られたナイフに伝わり、震えとなって表れている。
「ははっ、そんな小さなナイフで奇石を相手にするのかな? しかも震えているようだ」
ナイフを持つ右手の震えを止めるように、左手で押さえつける。両手で握られたナイフの切っ先がラナンに向けられる。
「お前は……お前だけは許さない!」
「許すも許さないもない。君はここで消えるのだ」
眼鏡の奥で狂気に満ちた瞳を輝かせると、ラナンは手にした黒火の石をアスターに向けた。
次の瞬間、石から黒い閃光が走り、アスターの身体を捉える。
アスターの身体は、ルドベキアのように黒火に包まれるはずだった。だが、昨晩と同じように、またしても黒火はアスターに触れる直前で四散するようにかき消えた。
「な、何だと……昨日のあれは、偶然ではないというのか?」
昨晩に続いて、二度目もアスターには黒い火が通用しなかった。
先程までとはうってかわって、ラナンの表情に焦りの色が表れる。
その驚きは、アスターもまた同じだった。反射的に身体を庇うようにしたが、黒い火はどこにもなかった。
不意に胸元で小さく光る何かがあった。
そこには、首から掛けられた二つの石。ガウラからもらった晶石と父の形見である青い石。そのうち晶石の方が、淡く輝きを放っていた。やがて光がおさまると、晶石に大きな亀裂が走った。
「まさか……晶石が……?」
「奇石の力が効かないなど……そんな馬鹿なことがあるはずがない!」
動揺を隠しきれないラナンは、もう一度石を掲げた。
アスターはとっさに身をかがませ、獣たちは地を蹴って跳躍した。
その直後、石からなぎ払われるように光が走ると、閃光はアスターたちがそれまで居た場所を抜けて森の木々に照射された。黒い閃光を受けた樹木は、たちまち黒い火に包まれ、枝の先端からその姿を塵に変えていく。
『たった一度の失敗で、取り乱したか』
『面倒くさい人間だ。だが、これはこれで厄介だ』
金狼と銀狼は、憎々しげにラナンを睨みつける。
周囲の木々が消え、開けた場所はさらにその空間を広げた。
ラナンは地に伏せたアスターに向けて、さらに漆黒の石を向ける。
「くっ……!」
次の行動に出遅れたアスターは、再び黒い光をその身体に受けた。
だが、やはりアスターの身体は黒い火に包まれることはなかった。
ガウラからもらい受けた晶石が輝きを放ち、三度アスターの身を守る。
しかし次の瞬間には、その晶石はガラスのように音を立てて砕け散った。砕け散った晶石の破片が、木漏れ日を反射させて、小さく輝きを放ちながら地に落ちる。
「晶石がっ!?」
アスターの胸元にあった晶石が砕け散るのを見たラナンは、黒い火がアスターに通じなかった理由を悟った。それまでの取り乱したかのような動揺は消え、ラナンに悠然とした態度が戻る。
「フフフ……なるほど、そういうことか。その晶石が君を守っていたのか」
ラナンは勝ち誇ったように高笑いをした。
「だが、晶石は砕け散ってしまったようだね。これで君を守るものはなくなった。さぁ、どうするかね?」
黒い火に対する自信を取り戻したラナンは、アスターに黒火の石を向けた。
アスターの焦りは、表情だけでなく身体にも表れていた。これまで奇石の力から身を守ってくれた晶石はもうない。圧倒的な力を前に、アスターの身体は言うことをきかずに震えだす。
「さぁ、もう奇跡は起きない。これで終わりだ!」
とどめと言わんばかりに、黒火の石を持つラナンの右手から黒い閃光が走る。
震えに身動きの取れないアスターは、思わずきつく目を瞑った。
『アスターッ!』
声が聞こえた瞬間、アスターの身体は何者かに突き飛ばされて、身体が宙を舞った。
アスターを庇ったコリウスの巨大な体躯が黒い火に包まれる。
『コリウス!』
ジニアは金狼のもとに駆け寄るも、すでに全身を黒い火に覆われた金狼に為す術はなかった。
『まさか、人間を庇うとはな……』
痛みを感じることなく、徐々に身体が塵に変わっていく不思議な感覚を受けながら、コリウスは自身の行動に驚きを禁じ得なかった。
『あの日、我らは聖女に救われた……今度は我らが聖女を救う番だ。ジニア、少年と聖女を……たの……』
最後まで言い終える前にコリウスの姿は消え去り、森を抜ける風がコリウスを象っていた塵をさらっていった。
『コリウス……』
「ははっ、獣に救われたか。少年、残りの二匹にも守ってもらうか?」
見下したように言い捨てるラナンは、口元を大きく歪ませて醜い笑みを浮かべる。
身を挺して守ってくれたコリウスと、それを嘲笑うラナン。
アスターは怒りと悲しみが織り混ざった声を吐き出した。
「そんな石があるから……お前のようなやつがいるからっ!」
ナイフを握りしめた右手に力を込め、ラナンをきつく睨みつけた。
「どうするというのかね? 私を殺すのか?」
おどけたように肩をすくめて、アスターを煽るように挑発する。
「やってみるといい。もっとも、そのナイフが届く前に君の身体が塵になっていると思うがね」
「黙れぇぇぇっ!!」
絶叫とともにアスターは地を蹴って駆け出した。ラナンを睨みつけたまま、真っ直ぐにラナンへ向かう。
悠然と待ち受けるラナンは、ゆっくりと手にした石をアスターに向け、
「私たちは、ともにリリィのことを思っていたのだが……実に残念だ」
自分に向けられた石を見ても、アスターはひるむことなくラナンに迫る。
にやりと口元を歪ませると、アスターに向けて今日何度目かの黒い閃光が走った。