第20話 ラナン再び
陽は昇り、ラドロウの街にはいつもと同じ陽光が降り注ぐ。
街の人々も、いつもと変わらぬ日常を過ごしているかのように見えた。しかし、彼らが交わす会話は、昨晩の獣の吠えるような音と、街を揺るがした振動の話題で持ちきりだった。単なる地震だったのでは、突発的な嵐のようなものだったのでは、と、さまざまな憶測が飛び交ってる。
だが、この街において真相を知る者はラナンただ一人。二頭の巨狼が奇石研究所を襲ったという事実は、平穏な日々を過ごすラドロウの人々にとっては想像の範疇を遥かに超えていた。
寝不足のような浮かない表情をしたロベリアは、いつものように深紅のフロックコートを身に纏い、気がつけば奇石研究所の前に立っていた。
昨晩の出来事は、目撃したロベリア自身ですら実は夢だったのではと錯覚すら覚えた。しかし、早朝に訪れた師団兵の宿舎には、明らかに兵たちの姿が少なかった。そして今、目の前にある奇石研究所の外壁にはひび割れや崩れた箇所がいくつもあり、何枚もの窓ガラスがひび割れている。それが、昨晩のことが現実の出来事だと、無言に語りかけてきた。
ロベリアが一人佇んでいると、奇石研究所の門が静かに開かれた。奥からは、いつものように白衣を纏ったラナンが姿を現した。
「これはロベリア殿、何かご用ですかな?」
どこかしらじらしさを感じさせる挨拶に、ロベリアは気にとめた様子はなかった。
「ラナン殿……」
ロベリアの声には覇気が無く、その瞳は虚ろに見えた。
「これから、昨晩我々を襲った二頭の巨狼を追うところですが……ロベリア殿はどうされますかな?」
「追う……だと?」
ラナンは毅然とした態度で「はい」と頷き、
「巨狼たちがここを狙った理由は分かりませんが、またいつ襲われるか分かりません。こちらも甚大な被害を受けていますので、このまま見過ごすわけにもいきません」
一介の研究者が、あの巨狼と戦おうというのか。ロベリアは心の内でこぼしたが、それを声にすることはなかった。昨晩から揺れ続けるロベリアの心に、ラナンの言葉にまともな対応をする気力はなかった。オレガノの言葉が頭から離れず、何を信じるべきか迷い続けていた。
伏し目がちで口を閉ざしたままのロベリアに、ラナンは軽く溜息をつき、
「無理強いはしません。師団長とはいえ、昨晩のことはショックでしょうから」
しかし、ラナンの言葉が耳に届いないかのように、ロベリアは何の反応も示さなかった。
「では私は急ぎますので、これで……」
ロベリアを一瞥すると、ラナンは近くに用意されていた馬に跨がると、颯爽と馬を走らせた。
ラナンが去った後も、ロベリアはただその場に立ち尽くしていた。
自身が取るべき行動を悩んでいた。
「己の中の正義、か……」
誰に言うわけでもなく、ロベリアはオレガノの言葉を口にした。その右手には、力が込められた拳が握られていた。
夜通し馬を走らせ続けていたオレガノがトリアスの街に辿り着いたころには、すでに朝日が昇っていた。昨晩、隣国のラドロウで起きた出来事など知るはずもないトリアスの鉱山夫たちは、仕事場であるウェンロック鉱山へ向かっている。そこには、いつもと変わらない日常があった。
オレガノはアスターの家まで馬を走らせると、馬が止まりきる前に飛び降り、家の扉を開いた。
「アスター、帰っているか?」
勢いよく扉を開け放つも、部屋の中は静まりかえっていた。
人の気配がまったく感じられない部屋には、窓の外から差し込む陽の明かりを受けて、宙を舞う埃が小さく輝いていた。
「帰っていないのか……一体どこに……!」
オレガノは、ともにラドロウへ向かった二頭の巨狼を思い出した。
「そうか……ジュラの森か!」
予想が外れ、自身の失態に軽く舌打ちをすると、オレガノはアスターの家を出ると慌てて馬に飛び乗った。
オレガノを乗せた馬も疲労を隠しきれないでいたが、主の指示に従って走り出した。だが、その速度は明らかに落ちている。
「まだラナンが居場所を突き止めていなければいいが……」
焦る気持ちを抑えきれないまま、一組の人馬は風を切ってジュラの森へと向かった。
陽が頭上に位置するころ、アスターたちがいる場所には周囲の木々によって作られた濃い影が落ちていた。僅かな隙間から差し込む木漏れ日は、昼の暑さを持っていたが、木陰に入れば涼やかな冷気が身体を包む。
あれから、二人と三頭の獣たちは黒い火について考えるも、一向に対策案は浮かばなかった。こうしているあいだにも、ラナンはリリィを追ってきているのかもしれない。そう考えると、アスターは焦りの色を隠せなかった。
灰色の晶樹を中心とした、その開けた場所には、木々に止まる鳥の鳴き声しか聞こえなかった。
だが、唯一聞こえていた鳥たちのさえずりが不意に止み、辺りが静寂に包まれる。
『ん……どうしたというのだ?』
鳥たちの異変に気づいたコリウスが漏らした。
次の瞬間、鳥たちは一斉に翼を羽ばたかせ、どこかへと飛び去ってしまった。
『誰ぞ来たようだな』
低く唸るような声でレグネリーが言うと、木々の奥へと目を光らせる。
一同が周囲を警戒していると、遠くの木が少しずつ減っているように見えた。
『木が……消えただと?』
自身の目を疑うような光景に、ジニアは驚きを隠せなかった。
だが、明らかに奥に見える樹木は音を立てて倒れるわけでもなく、その姿を消していった。
『来たか……ラドロウの人間』
コリウスは森の奥を睨み、鋭い牙を見せて警戒の唸り声を上げる。
「ここにいましたか、リリィ」
木々の陰から、一人の白衣の男が姿を現した。
アスターたちから十メートルほど離れたところで、ラナンは立ち止まった。縁のない眼鏡を指で軽く押し上げて、くぐもった笑みを浮かべる。
「……ラナン!」
悠然とした態度のラナンを鋭く睨みつけ、アスターは庇うようにリリィの前に立ちはだかった。