第18話 静寂の夜に
混乱の中心にあった奇石研究所は、本来のそれとは違った異質な静寂に包まれている。百人以上いた師団兵や研究員はすべて塵になり、静けさの中にはただ一人の人影があった。
「これは……?」
まだ痛みが残っているのか、研究所から姿を現したロベリアは背中を丸めたような姿勢で辺りを見渡した。研究所に入るまでは、二頭の巨狼とその周りを囲むようにいた師団兵たちの姿はどこにもなかった。ただ一人、その場で立ち尽くしている縁のない眼鏡をかけた白衣の男に気づくと、ロベリアはおぼつかない足取りで男に近寄った。
「兵たちはどこへ……巨狼たちは?」
静まりかえった研究所の前で一人佇むラナンに、ロベリアは痛みを堪えるような声で問いかけた。
「ロベリア殿ですか……」
ゆっくりと振り返ったラナンの表情には、悔しさと悲痛に満ちた表情が浮かんでいる。
「皆、あの巨狼に……ルドベキア総督までも……」
「な、何……!?」
ラナンは俯いて肩を震わせた。改めて辺りを見渡すが、やはりラナン以外の人影は見当たらない。残されているのは、地面にある真新しい血痕だけだ。
ロベリアは腑に落ちないといった様に顔をしかめた。
確かに巨狼たちは、この場所を襲撃しに来たように思えた。しかし、ロベリアが研究所に立ち入る前までは、巨狼たちは誰一人として殺してはいなかった。仮に、先に部屋を出たオレガノがやったにしても、彼の斬撃ならば斬られた遺体が残るはず。それに地面に残る血痕は、とてもあの場にいた人数分の量にはほど遠い。せいぜい二、三人分だ。
「彼らの目的は分かりませんが、我々の完敗です。とにかく今できることといったら、身体を休めることくらいでしょう」
ラナンは少し落ち着きを取り戻したかのような声色で言うと、ロベリアの肩を軽く叩いて研究所内へと消えた。
ラナンが去り、静寂に包まれた研究所前にはロベリア一人が取り残される形になった。
「何だと言うのだ……この釈然としない気持ちは……」
美しい金髪をかき上げ、ロベリアは苦悶の表情を浮かべる。
理由の分からない、憤りに似た感情がロベリアの中で渦を巻いていた。
――忠誠心が揺らいだのなら、己の中の正義で動いたらどうだ、師団長殿?
不意に、オレガノの言葉が脳裏をよぎった。
巨狼やオレガノたちが、僅かな時間であれだけの人を跡形もなく消せるとは思えない。やはり、トリアスの自警団長の言う通り、ラナンが奇石の力で何かをしたというのだろうか。
ロベリアはその場に座り込み、握りしめた拳を地面に叩きつける。
何が正しいのか。誰の言葉が正しいのか。ロベリアの心は葛藤で大きく揺れていた。
窓の影からロベリアの様子を伺っていたラナンは、薄暗い室内で小さく鼻を鳴らした。
「ラナン所長、ご無事でしたか」
ラナンが振り返ると、部屋の扉にはラナンに近しい白衣の男の姿があった。
「当初の予定とは大きく違ったが、奇石の力は確認できた。やはり思っていたとおり……いや、それ以上だったな」
漆黒色の石を眺めながら、ラナンは満足げな表情を浮かべた。
「ところで、あの巨狼たちはどうしますか。リリィも連れ去ったようですが……」
「問題ない。所詮、獣の居場所などあの森以外にない。それに……」
ラナンは窓の外を眺めた。力なく座り込んでいるロベリアのそばに、金狼が流した血痕が見えた。
「奴ら自身が道案内をしてくれている」
「では後を追うと?」
「明日、陽が昇ったらここを出る」
白衣の男はラナンに一礼すると部屋を出た。
「さて、今度は君の持つ奇跡を見せてもらおうか、リリィ」
薄暗い部屋に射し込む月明かりを見上げ、ラナンは不敵な笑みをこぼした。
夜の闇に身を潜めながら、一組の男女は遠くに見えるラドロウを眺めていた。
先程までの混乱が嘘のように、辺りは静けさに満ち、穏やかな風が吹き抜けていく。
地上の出来事には全くの関わりはないといった様子で、空には幾つもの星が瞬いている。
「まさか、あなたがいるとは思わなかったわ、ガイ」
ガイと呼ばれた男の姿は、身を包む濃紺のフロックコートが夜の闇に溶け込むかのようだった。
「それはこっちのセリフだ、フレア」
背中まで伸びた長い黒髪を夜風に揺らされるのをそのままに、フレアと呼ばれた女性は真っ直ぐに男を見つめていた。
「奇石を追って来たのか?」
「そうよ。少し前に所在が分かったのだけれど、いろいろあってね」
フレアは遠い昔のことを思い出すかのように空を見上げた。同時に、その時の後悔に似た感情も蘇り、奥歯を小さく鳴らした。
「それよりもガイ、どうしてあなたまでここに? あなたも黒火の石を追って来たの?」
「いや……」
ガイは小さく首を振ると、僅かに顔を俯かせる。
「あの場所には聖女が捕らわれていたんだ」
「聖女が!?」
予想外の言葉にフレアは驚きを隠せなかった。
「おそらく、あいつが助け出してくれただろうが……」
どこか祈るような声で男は漏らす。
「聖女に黒火の石、ね……石は互いに共鳴し引き寄せ合う、とはよく言ったものだわ」
運命めいた奇石の巡り合わせに、フレアは小さく息をついた。
「フレア、一つ頼まれてくれないか?」
「何?」
「ラドロウのことをオルドビスの王都メリオネスに伝えて欲しい。奇石研究所の所長ラナンが、謀反を起こしたと。王都まで距離はあるが、お前の脚なら数日だろう?」
「それはかまわないけど……ガイはどうするの?」
ガイは静かに、手袋がはめられた左手を握りしめた。ラドロウとは真逆を向いて、暗闇のさらにその先にある森を見つめた。
「俺は、聖女と黒火の石を追う」
「分かったわ、そっちはガイに任せる」
フレアは快く頷いて見せた。その表情には、男に対する絶対的な信頼が表れている。
近くで休ませていた馬に跨がると、ガイは出立の準備を始めた。馬に乗ったままフレアに向き直り、
「ところで、あいつは見つかったのか?」
「ううん、ここ最近は何の手がかりもないわ」
「そうか……この件が済んだら俺も、あいつを探すとしよう」
「それじゃ、後で合流しましょ」
フレアはそう言うと、準備運動をするかのように足首を回し始めた。サイハイブーツに包まれた足ががほぐれたところで、一点を見据える。大地を踏みしめた脚に力が込められた瞬間、フレアは忽然と姿を消した。その直後、彼女が駆け抜けたかのようにあたりに風が巻き起こった。
彼女が進んだと思われる方角を見届けると、ガイもまた東へ向けて馬を走らせた。